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学芸員による展覧会紹介

小さな生き物の世界は私にとって、大きな世界と同じくらい美しく大切だった。
ーエルンスト・クライドルフ

『妖精たち小人たち』より 《復活祭のうさぎ》 水彩、墨・紙 1929年  ベルン美術館 ©ProLitteris,Zϋrich
雪深いアルプスでは、暗くて長い冬が終わり、生き物たちが一斉に目覚める春は、どれほど大きな喜びを持って迎えられることだろう。スイスの絵本画家、エルンスト・クライドルフ(1863-1956)が、自然の中の小さな生き物たちを主人公に、詩情あふれる絵と言葉で綴った絵本には、大自然の息吹とともに生き物たちの生命の喜びがあふれている。
スイスのベルンに生まれたクライドルフは、祖父母の住む東スイスの農村で過ごした幼年時代から自然の中で花や草木、昆虫をスケッチして過ごすのが大好きだった。16歳から石版工の修業を積み、豊かな才能を花開かせる。そして画家を夢見たこの青年は、ミュンヘンに出て、本格的に美術の勉強を始めることになる。

『花のメルヘン』の誕生—絵本画家としての出発

『花のメルヘン』より 《はじめの花》 墨、水彩・紙 1898年 ヴィンタートゥール美術館
Kunstmuseum Winterthur Deponiert von der Schweizerischen Eidgenossenschaft, Bundesamt für Kultur, Bern 1904
©ProLitteris,Zϋrich
 
1883年ミュンヘンに移り住み、念願の美術学校に通い始めたクライドルフは、優秀な成績で学校を卒業し、続いて美術アカデミーへと進んだ。しかし学費を稼ぐための無理な生活と最愛の姉の死という不幸も重なり、すっかり体調を崩してしまう。学業を続けることが困難となったクライドルフは、医者の勧めにより南バイエルンのパルテンキルへンで療養生活を送ることになった。
アルプスの大自然に感動を覚えたクライドルフは、自然を鋭敏な感覚で捉え、詳細に描き出しながらも独特の想像力あふれる世界を生み出していく。その一方で、ミュンヘンのアート・シーンは常に魅力的な存在であり続けた。一度はミュンヘンへと戻ったものの、不眠症と偏頭痛に悩まされ、さらに追い打ちをかけるように相次ぐ家族の死が重なり、1893年には再びアルプスでの静養生活を送ることを余儀なくされてしまう。アルプスでは散歩に出かけては、自然の一部始終を観察しながら多くの時間を過ごした。
翌94年の11月末のある日、日課となっていた散歩の途中で、谷間の斜面の陽だまりに季節外れのプリムラとリンドウが咲いているのを見つけたクライドルフは、感動しておもわず花を摘んで持ち帰ってしまう。しかしすぐにそれを後悔し、花の命が少しでも長く続くようにと花を絵に描いたという。このとき花を主人公にした処女作『花のメルヘン』の構想が生まれたのである。 春になるや本格的に制作に取りかかったというこの絵本は、文字通り≪はじめの花≫と題された場面から始まり、そこには「春になり雪がとけると花がふたたびあらわれて」と始まる詩文が添えられている。この、生きることを謳歌する花や虫たちの喜びこそが、生涯にわたりクライドルフの創作世界の中心テーマとなっていった。
こうして、元来の写実的、自然主義的な描き方と自由に羽ばたく空想の世界との間の新しい表現を模索していたクライドルフは、絵本の世界に独自の道を見出したのである。しかし、絵本の出版社を見つける仕事は簡単ではなかった。芸術的完成度の高い、ときに斬新なクライドルフの挿絵は子供向けではないと思われたのである。そこで石版工としてもすぐれた腕前を持つクライドルフは16枚の原画をすべて自分の手でリトグラフに起こす作業にとりかかった。原画を精緻に再現するため、1つの場面につき8から10枚の版を用い、全体では150枚という大量の石版を必要としたその作業は、多大な労力を要するものであった。そんなクライドルフの窮状を救ったのは、ドイツのシャウムブルク=グリッペ侯爵夫人、マリーであった。クライドルフに絵の手ほどきを受けていたマリーは、「花のメルヘン」の原画をすぐに気に入り、経済的援助を申し出たのである。こうして『花のメルヘン』は、ようやく1898年に世に出ることになり、クライドルフは絵本画家としての大きな一歩を踏み出したのである。

「メルヘン」と化す自然

  『アルプスの花物語』より 《アルペンローゼのところで》 水彩・紙 1918年または19年 ベルン美術館
©ProLitteris,Zϋrich
『花のメルヘン』は大成功を収め、以降クライドルフは数多くの絵本を出版した。自然と密接に結びついたクライドルフの世界は、画家自身、「長い療養生活を送らなかったら絵本画家には決してなれなかっただろう」と語っているように、なによりもアルプスでの体験から生み出されたものであった。
 一方、自然を源泉とする芸術のあり方は、クライドルフが活躍した19世紀末から20世紀初頭の「新しい芸術」の潮流とも切り離すことができない。「新しい芸術」を意味するフランス語の「アール・ヌーヴォー」と呼ばれるこの美術運動は、従来の様式に囚われない装飾性を求めて、花や植物などの有機的なモチーフを積極的に取り入れた結果、自然界の中の美へと目を向けせるものとなった。クライドルフはドイツ語圏では「ユーゲント・シュティール」と呼ばれるこの様式の、しばしば代表的な絵本画家と見なされている。しかしクライドルフの芸術は、自然の中のモチーフを単に装飾的に変容するという言葉では言い尽くすことはできないであろう。スイスの美術史家の言葉を借りるならば、「自然は、スイスの画家エルンスト・クライドルフの行く先々でメルヘンと化し」ているのである。幼いときに母親に言われた「どんな花も自分の顔をもっている」という言葉を胸に描いていたというこの画家は、自然の事象を「擬人化」して描くというよりもむしろ、草花を見つめ、そこに各々の個性を見いだしていくうちに、次第にそれらが顔や表情を持ち、動き出してしまったかのような印象を与える。クライドルフは自然に対する並外れた観察眼とメルヘンを生み出す自由な空想の力によって、自然の内側にひそむ本質を描き出したのである。
 ところで「ユーゲント・シュティール」の名の由来となった美術雑誌『ユーゲント』については、こんな逸話がある。この雑誌に投稿した「バッタに乗った小人の絵」が不採用になって送り返されてきたのを見たクライドルフは、最初とても驚き、がっかりするが、やがて小人とバッタをテーマにしてお話を作ることを思いついた。こうして生まれたのが、1902年に出版された『くさはらのこびと』であった。この絵本は、画家の70歳の記念に特別版が出されるなど、この画家のもっとも人気のある絵本となった。

時代を超える「新しさ」

『ふゆのはなし』より 《宴》 水彩、墨・紙 1924年以前 ベルン美術館
©ProLitteris,Zϋrich
 
さて、第一次世界大戦の影響で故郷のスイス、ベルンに戻ったクライドルフは、1920年代から30年代にかけて、精力的に創作活動を行った。花や虫たちに宿る妖精たちや小人たちの秘密に満ちた世界もまた、自然界と空想の世界を結びつけるクライドルフの作品におなじみのテーマとなっていった。 とりわけ新しく設立されたロート・アプフェル社から続いて出版された一連の絵本(『アルプスの花物語』(1922年)『ふゆのはなし』(1924年)『花を棲みかに』(1926年)『妖精たち小人たち』『ばった』(1931年)など)は、自分の直感と思想を頼りに創作するクライドルフの絵本の特徴がよく現れている。出版元はクライドルフに自由に仕事をさせ、彼のメルヘンや子どもの世界を自由に表現させたのである。
 処女作『花のメルヘン』の出版から、1935年、最後の絵本『天国のくさはら』が出版されるまでの実に40年近い年月の間にクライドルフは25冊の絵本を世に送り出した。その間、都市の急激な近代化や大戦の勃発により社会環境は少なからず変化していったが、クライドルフは子供の世界に対する一貫した姿勢を貫き、自分の世界が子供たちに変わらず受け入れられることを強く信じていた。そして、伝統や型にとらわれないクライドルフの絵本は、常に新鮮さを失うことなく時代を超えて読み継がれ、スイスやドイツ語圏では、今なお版を新たにし続けているのである。
本展は、クライドルフ協会・財団とベルン美術館の全面協力のもと、クライドルフの作品世界を、絵本原画を中心とした約220点の作品でたどる日本で初めての本格的な回顧展となる。2013年に生誕150年を迎えるこの画家の、1世紀以上の月日を経てもなお、色あせることのない美しさ、古びることのないメルヘンの世界を思う存分堪能できるまたとない機会になるだろう。
Bunkamuraザ・ミュージアム 廣川暁生