深く知り、さらに楽しむウェブマガジン

はじめての島 隆

文化芸術への興味が芽生え、まずは耳にしたことがあるアーティストたちの作品に触れてみたいけど、何からどう体験すればいいか分からない──。そんなふうに迷っている方たちが“はじめの一歩”を踏み出すための案内役となる「はじめてシリーズ」。第7回は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本で最初の女性写真師・島 隆(しま りゅう)です。日本に写真技術が到来して間もない黎明期に隆が刻んだ足跡を、彼女が遺した言葉と共に振り返ります。

上州・桐生の才女と、奇才の写真師 奇跡的な二人の出会いと功績

文政6(1823)年、上野国山田郡上久方村(現・群馬県桐生市)の岡田家に生まれた島隆。幼名を岡田与祢(よね)、後に「かく」と名乗り、島霞谷(しま かこく)と結婚後は「里宇(りう)」と改名しています。7歳で寺子屋・松声堂に入り、田村梶子のもとで13歳まで学んだ後、18歳頃に一橋家の祐筆となるため江戸に上りました。祐筆とは文書の作成や記録を担う、今でいう秘書のような役職で、達筆であるうえに高い教養が身についていなければこなすことのできない仕事でした。ここで、絵師兼通訳士として同家に出入りしていた島霞谷と出会います。後に夫となる人物です。

霞谷は下野国下都賀郡栃木町(現・栃木県栃木市)の旅籠屋に生まれ、絵をたしなんでいた父の手ほどきを受け、椿椿山に師事して腕を磨きます。やがてその画技の高さを買われ、幕府の洋学研究機関である開成所に絵図調出役として出仕。ここで西洋画法と写真術を学び、川上冬崖や高橋由一ら幕末明治初期の代表的画家たちとも交友を深めます。後年には活版印刷技術の開発に取り組むなど、多方面で活躍した多才な人物でした。

この4歳年下の霞谷と、隆は結婚します。33歳の時のこと。最初浅草に住み、その後何度か転居を重ね、維新後は下谷に居を構えました。それに加え、二人はたびたび遊歴の旅に出、各地で地元の名士や文人と交友を重ね、見識を深めます。この間、隆は霞谷から写真術を伝授され腕を上げ、やがて二人は教え教えられる関係から、力をあわせて写真の技術を高めあう同志としての関係へと変化していきました。

二人が研究したのは湿板写真といって、ロンドンの彫刻家フレデリック・スコット・アーチャーが発明した技法でした。ガラス板に塗布した薬品が湿っているうちに撮影から現像、定着までをこなす必要があり、その点は不便であったものの、このガラス板のネガを用いて、従来に比べ格段に高精細な画像を生み出すことができること、複数の焼き増しができること、この2点の両立が実現したことは、当時としては極めて画期的でした。この技法が輸入されたことにより日本でも写真の研究と普及が進み、上野彦馬や下岡蓮杖らを皮切りに写真館の開業が相次いで、全国的な写真の普及に大きく貢献したのです。

この技法を用いた隆の作品のうち、元治元(1864)年に霞谷を撮影した肖像写真には「写真師 島隆」の裏書があり、これが、日本人女性が写真師を名乗った最初の痕跡とされています。この裏書のあるプリントとは別に、同じ写真をもう1枚焼いてペンダントに仕立てたものが残されており、これを身に着けていたかどうか定かでありませんが、大事な作品をこのように分配できる手段としても湿板写真の技術は早速役立っていたのですね。この仕事をしていてよかった、と、隆はこの時、心から思ったのではないでしょうか。

夫の死を乗り越えて 故郷に写真館を開いた不屈の女丈夫・隆

さて、先にも述べたように霞谷は活版印刷技術の世界でも力を尽くし、その最初の成果として医学書が発刊されるのですが、それを見ることなく明治3(1870)年、若くして急逝してしまいます。数多の知的体験を共有してきた隆にとって、妻としての悲しみにも増して、同志としての喪失感も計り知れないものがあったでしょう。

翌明治4(1871)年、隆は数々の遺品を携え郷里である桐生に戻ります。そしてその年のうちに写真館を開業。当時の開業広告には、現代語で言えばおよそ次のような内容が記されています。「近頃写真術で生計を立てる人が増えていますが、その技術力はまちまちです。私の夫、島霞谷は通訳でしたので西洋人とも親しく、その厚い交友のおかげで写真術を身につけることができました。しかし大学東校(現・東京大学医学部)の大写字生(公文や書史を謄写する判任官)となり時間的余裕がなくなったため、私にその技術を引き継がせたのです。」とあり、自身の技術について他と何が違うかといえば、「薬剤調合に熟練し現像処理の迅速さに奥義を極めています。それゆえ、しっとりとして奥行きのある仕上がりとなります。これぞ私の自負するところで、もしお疑いでしたら私の写真館にいらして、一枚お試しください。」と、自信に満ちあふれています。

写真館での活動を示す資料はごくわずかですが、桐生の人物を映したガラス湿板や、役者写真の複写などが残されています。隆は帰郷後も何度か東京に赴き、当時まだ導入されたばかりの郵便制度を利用して在・東京時代の知人らと書簡を交わすなど、それまで築いた交友関係を絶やすことはありませんでした。伊香保などたびたび湯治にも出かけたといい、隆の好奇心と行動力は最晩年まで健在でした。亡くなったのは明治32(1899)年のこと。享年76歳。

日本の女性写真家の先駆けとして

ところで、島隆を日本初の女性写真師と呼ぶことについては、疑問の声もちらほらとあるようです。確かに、同時代に写真館で働いていた女性もいたであろうことを考えると、「写真師 島隆」の自署が残っているというだけで彼女を「初」と言い切ってしまえば、ある意味言った者勝ちの世界になってしまうわけで、その判断が早計と言われても致し方ないのかもしれません。

けれどもここで重要なのは、自身は写真師というプロの職業人であることを隆が自認していたことではないでしょうか。写真館に勤めていたとしても、自身を下働きやお手伝いのように考えていた、あるいは考えざるを得なかった女性が大半であったであろうことは想像に難くありません。そもそも女性がプロを名乗っていいなんて露ほども思っていない、そんな発想すらない人がほとんどだった時代です。そのような時代に生きながら、自信を持ってまっすぐ「写真師」を名乗った隆。その署名のすがすがしいこと! 「初」が実は他にいたかもしれない可能性はさておき、堂々と名乗りを上げた彼女を、筆者も堂々と「日本初の女性写真師」と呼びたいと思うのです。

Bunkamura ザ・ミュージアムは2026年7月にヒカリエホールにて『まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険』展を開催します。日本の女性写真家に光を当てる過去最大規模の展覧会。30人もの作家たちの作品をご覧いただく本展の導入として、島隆をご紹介する予定です。最愛の夫・霞谷を撮ったほほえましい一枚。ぜひこの機会にご覧ください。

Bunkamura ザ・ミュージアム 学芸員 菅沼万里絵


〈公演情報〉

まなざしの奇跡
日本女性写真家の冒険

2026/7/4(土)~8/26(水)  ※会期中無休
会場:ヒカリエホール(渋谷ヒカリエ9F)

詳細はこちら