1972年東京生まれ 大阪芸術大学写真学科卒業。在学中より展覧会を中心に作品発表を行う。 1995年より赤坂・東京写真文化館の設立に参加、2004年の閉館までディレクターを担当。 エドワード・ウェストン、アンセル・アダムス、杵島隆、ウェイン・ミラー展などの巨匠級の作家から国内外で活動する新人の作家の発掘まで幅広いジャンルで写真展をコーディネートする。2005年よりルーニィ・247フォトグラフィーを設立し現在に至る。
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今回のミュージアム・ギャザリングは、"風景画"というテーマの展覧会で、あえて"写真"というメディアに精通されている方にご覧いただくことで、また違った視点をご提供いただけるのではないかと思い、四谷でギャラリー「ルーニィ・247フォトグラフィー」を運営されている篠原俊之さんにゲストでお越しいただきました。篠原さんは、2005年に開催した『写真展 地球を生きる子どもたち』のミュージアム・ギャザリングでもゲストに出ていただいたので今回が2回目です。
海老沢:『風景画の誕生』展、ご覧いただいていかがでしたでしょうか。
篠原:普段、写真のことをやっているものですから、どうしても絵と写真というメディアを比べてしまいます。でも、それが面白かったですね。例えば、手前に主題があって背景がある構図の場合、写真の場合は極端に言うと背景はフレームの中に勝手に写りこんでしまうものなんですね。予期せぬものが写ってしまう面白さというものももちろんあるんですが、絵の場合は画家が意識的に情景を描きこんでいるので、本当に細かなところまで意識が行き渡っていると感じました。《悔悛するマグダラのマリア》では、天使がたくさん登場していますが、こういう写真の世界では基本的にあり得ない非現実的な描写は見ていて楽しいです。
中根:今回、絵画展でありながら写真関連の方に見ていただこうと考えたのは、まさに"写真"というメディアと比較することで展覧会の特徴が際立ってくるんじゃないかと思ったからなんです。写真は本当に我々にとって身近なツールになりましたから、絵と比べて何がどう違うのか、そして似ているのか、そういう視点を提供できれば、より多くの人に展覧会や作品の魅力をお伝えすることができるんじゃないかと。
海老沢:写真の場合、最初に写された被写体は風景が最初だったのでしょうか?
篠原:もともとの用途としてはポートレートが主だと思います。写真の技術が開発された当時は、装備そのものがあまりにも大きすぎて簡単に外に持ち出せませんし、撮影にかなり時間もかかりましたから。やがてヨーロッパの写真家たちが、見たことの無い景色や建造物を撮影してきては、いろんな人に見せるということを始めるんですね。だから、最初はある程度身分の高い人の肖像を残すようなところから始まって、知らないことを知りたい、残したい、という人間の欲求によって被写体も変わり、技術も進化していったと言えると思います。
中根:今回、作品を見ていて思ったのが、風景画と言いながら、ほとんどの作品に人がいるんですよね。写真だと、広大な風景をメインに撮影する場合、あまり人を一緒に撮らないと思うんです。
海老沢:実は私たちスタッフもそう思って数えたところ(笑)、今回セレクトした作品の中には、人が描かれていない作品は一点も無いんです。本当に偶然なんですが。絵としては間違いなく風景を描いているけれども、あくまで人の営みというものが主題としてある。展覧会を企画するときに、最初は人物が主体の宗教画から始まって、徐々に絵の中で風景の占める割合が多くなり、最後の章では人がいなくなるというストーリーが立てられるのかなと思っていたんですが、そうはなりませんでした(笑)。でもそれがまた画家の視点や人間らしさが見えて面白いですよね。
中根:人がいないように見えた作品もあるので、もう一度見てじっくり探してみます(笑)。ちなみに篠原さんがお好きな作品はどれでしたでしょうか?
篠原:レアンドロ・バッサーノの月暦画の連作はどれも表現やタッチがすごく豊かで好きです。背景には同じ山がモチーフとして描かれているのですが、それによって作品の季節の移り変わりがより強調されています。空には絵に対応する星座が描きこまれているのもかわいいですね。
海老沢:暦の作品に関しては、天の時間・地の時間というのがあって、天の時間は星座で表して、地の時間は人の営みで表すというルールがあるんですね。そのルールを守りながら、どれだけ思いを込められるか、主題を豊かに表現できるか、というところに画家の力量が表れていると思います。
篠原:このシリーズは大きな作品もあっていいですよね。写真は絵と比べるとどうしても作品のサイズが小さくなります。だから絵の世界や彫刻の世界から写真の世界に入ってきた作家さんは、最初からとにかく作品が大きい(笑)。純粋に写真から入る人とは明らかにサイズ感が違いますね。後は、《盗賊の奇襲が描かれた高炉のある山岳風景》が良かったですね。これはまさにその時代の"今"を描きたいんだろうなと思いました。高炉があって、働いている人がいて、盗賊がいる。そういう人の営みが、雄大な自然の中で繰り広げられている。いいものも好ましくないものもすべて一つの画面に描きこまれています。
海老沢:《盗賊の奇襲が描かれた高炉のある山岳風景》は、今回のポスターイメージにも使われている《夏の風景(7月または8月)》を描いたルーカス・ファン・ファルケンボルフの作品ですね。こちらでも手前に人々の暮らしが描かれていて、背景に大自然が広がっています。
篠原:その章の中の「都市景観としての風景画」のカテゴリーで展示されていた都市の風景作品にはちょっと写真っぽさを感じました。それまでの農村の絵とは人の扱われ方が明らかに違っていましたよね。《ヴェネティアのスキアヴォーニ河岸》では、人の扱われ方がすごく小さくなっているので、風景が主題の作品としては、人の捉え方が写真に近いように思えました。
海老沢:今回の展覧会では、実はこの作品が一番人気なんです。ウィーン美術史美術館の学芸員の方によると、人をひきつける要素がものすごく凝縮されていると。人物や影などの、縦の線と横の線のバランスや、目で追っていく時のリズムがすべて計算されているんです。モチーフが適度な感覚で繰り返されるリフレインの効果によって、これだけ空の面積が大きいのに、非常に安定感があるし、バランスが取れている。見る側に調和を感じさせるんですね。実際、会場では、この絵の前で立ち止まられるお客様が多いです。
中根:確かに、最後の章に多くの人が滞在していたように思います。いわゆる"風景画"と聞いて我々が想像する作品が多かったからかもしれません。個人的にも居心地がよかったです。
篠原:今回のすべての作品は、画面の手前も奥もものすごいクオリティで描かれていて、それぞれに意味があるところが面白かったです。前に描かれているものだけでなく、背景に描かれたものにもしっかり意識を向けることで、その絵をさらに深く理解することができますね。