ミュージアム開放宣言ミュージアム・ギャザリング ― ミュージアムに出かけよう。ミュージアムで発見しよう。ミュージアムで楽しもう。

今月のゲスト:山田五郎さん&秀島史香さん @美しき挑発 レンピッカ展


ID_036: 山田五郎さん(編集者・評論家)、秀島史香さん(ラジオパーソナリティ)
日 時: 2010年4月1日(木)
参加者: ギャザリングスタッフ(中根大輔、高山典子、海老沢典世)
宮澤政男(Bunkamuraザ・ミュージアム チーフキュレーター)

PROFILE

山田五郎(編集者・評論家)
1958年 東京都生まれ
上智大学文学部在学中にオーストリア・ザルツブルク大学に1年間遊学し西洋美術史を学ぶ。卒業後、㈱講談社に入社『Hot-Dog PRESS』編集長、総合編纂局担当部長等を経てフリーに。現在は時計、ファッション、西洋美術、街づくり、など幅広い分野で講演、執筆活動を続けている。    
著者に『百万人のお尻学』(講談社+α文庫)、『20世紀少年白書』(世界文化社)、『山田五郎のマニア解体新書』(講談社)、『知識ゼロからの西洋絵画入門』(幻冬舎)、『純情の男飯』(講談社)など。

秀島史香(ラジオパーソナリティ)
幼少から高校卒業までニューヨークで過ごす。慶應義塾大学法学部政治学科卒。在学中からラジオの世界へ。
J-WAVE81.3FM 『CIRCUS CIRCUS』をはじめ、TV、CM、映画のナレーションのほか、声優、アーティストの楽曲参加、通訳や歌詞対訳などマルチな活動を展開。『j- nude』(朝日新聞社)でのコラム連載、音楽・映画レビューなどの執筆活動も行う。
日英で読み聞かせナレーションを担当した絵本DVD『こびとづかん』も好評発売中。これまでに訪れた国は30カ国以上。現地での美術館めぐり、路地裏探訪を欠かさない。
秀島史香ブログ:http://hideshima.blog.so-net.ne.jp/


『謎多きの女、レンピッカ』


高山: 今回のギャザリング・ゲストは山田五郎さんです。前回の『愛のヴィクトリアン・ジュエリー展』に引き続きご登場いただきました。さらに山田さんからのご指名で、こちらも2回目となる秀島史香さんにも参加いただき、ダブル・ゲストの“ギャザリング・スペシャル”ということで進めさせていただきたいと思います。

山田: 前回のギャザリングも楽しかったんですが、次が『レンピッカ展』だと聞いて、むしろ今回こそ僕の出番でしょうと(笑)。

秀島: 五郎さんは私にとってアートの先生です。いつもいろんなことを教えていただいています。師匠、今日はよろしくお願いします(笑)。

宮澤: レンピッカって一般的にはあまり知られていないと思うんですが、そもそもどこでお知りになりました?

山田: 最初の出会いは、学生時代に渋谷パルコで見たポスターです。1980年でしたか。展覧会のポスターだと思っていましたが、石岡瑛子さんがお作りになった『肖像神話 迷宮の画家タマラ・ド・レンピッカ』の宣伝ポスターだったんですね。70年代は、横尾忠則さんをはじめ、パルコのポスターを手がけていた山口はるみさんなど、日本のグラフィックアートが華やいでいた時代。僕は高校時代、美術部だったんですけど、絵画や彫刻といったファインアートよりグラフィックアートがやりたかった。そっちの方がおしゃれな感じがしたんですね(笑)。同世代の友人みうらじゅんも、同じ理由で美大のデザイン科を選んだと言っていました。そんな時代だったので、レンピッカも「おしゃれなグラフィックアート」として見ていたような気がします。。

宮澤: その頃、僕は美術のことにはそんなに興味がなかったんですが(笑)、確かに当時はポスターを見てものすごくかっこいいって思ったのは覚えていますね。合田佐和子さんのイラストレーションなんかも流行っていたんですが、レンピッカが元祖なのかなと思いました。

秀島: その時の展覧会のポスターにはどの作品が使われていたんですか?

高山: レンピッカが自動車を運転している《自画像》ですね。今回のプレス向けの内覧会でも、当時のパルコの展覧会をご覧になった方は、この作品のイメージが強烈に残っているようで、かなり注目が集まっていました。

秀島: レンピッカが日本のアーティストに与えた影響っていうのはやっぱり大きいんですか?

高山: 大きいと思います。画家としての技術的な側面というよりも、彼女のファッションやライフスタイルに敏感に反応したクリエイターの人たちがたくさんいらっしゃったんじゃないでしょうか。

山田: それと、時代背景ですね。僕にとってレンピッカのキーワードは、“1920年代のパリ”と“ロシア”なんです。彼女は、ロシアが支配していた時代のポーランドで生まれ、サンクトペテルブルクの美術学校に通っています。当時のサンクトペテルブルクは、帝政ロシアの首都として旧い貴族文化を爛熟させる一方で、ロシア構成主義という超モダンでアバンギャルドな文化を生み出していた。この構成主義がロシア革命後には、ソ連の「国家芸術」として推進される一方で、亡命ロシア人アーティストによって1920年代のパリにもたらされ、国際的なモダニズムを開花させるんです。アール・デコは、1925年のパリ国際装飾美術博覧会(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)で流行ったスタイルだからアール・デコと呼ばれるわけですよね。じゃあ、その博覧会でいちばん注目を集めた国がどこかというと、“ロシア”なんです。ロトチェンコやステパーノワらロシア構成主義の作品が展示された「ソ連館」が、圧倒的な人気でした。20世紀美術においてロシアの果たした役割は、実はアメリカと同じくらい大きかったんです。
レンピッカは、そんな時代を象徴する女性。ワルシャワのお金持ちの家に生まれ、サンクトペテルブルクのマルタ騎士団聖堂でイケメン伯爵と結婚式を挙げている。まさに池田理代子さんの世界(笑)、旧時代の豪華絢爛たるクラシシズムの申し子です。なのに、亡命後のパリでは新時代の「モガ(モダン・ガール)」へと変身する。極端から極端へ。振り幅の大きさが面白い。

宮澤: 1910年代の後半なんていうのは、モスクワがヨーロッパで一番アヴァンギャルドな街だったでしょうね。クラシックな要素とキュビスムが融合して、彼女の作品のような質感が生まれたわけですよね。

秀島: Bunkamuraさんでも2008年に『ロシア・アヴァンギャルド』展がありましたけれど、結構貧乏な画家さんたちもいらした記憶があるんですが、そんな中でレンピッカはセレブですよね(笑)。

山田: 間違いなくセレブですよ(笑)。セレブといえば、この機会にうかがいたかったのですが、レンピッカはピカソとは交流がなかったんでしょうか? 彼女がパリに来たのは、ピカソがロシア・バレエ団の踊り子だったオルガ・コクローヴァと結婚し、セレブ階級と付き合うようになって絵も新古典主義に逆戻りしていた頃です。亡命ロシア人やセレブのコミュニティを通じてレンピッカと接点があってもよさそうなものですが、その形跡が見当たらないんですよ。

高山: それについてはお客様にも聞かれることがあるんですけれど、ピカソと交流があったっていう話は全くないんですよね。不思議なんです。同じ社交界でも、それぞれ全然違うグループに存在していたのかもしれません。

山田: なるほど。レンピッカがセレブすぎたのか、あるいは逆にファインアートより格下のデザイン業界の人と見られていたのか……。いずれにせよ、住む世界が違ったと。でもそうなると、作家のナボコフの場合はどうでしょう? ナボコフもサンクトペテルブルクの貴族階級出身で、レンピッカとは年齢もひとつしか違わない。パリに亡命した時期も、アメリカに亡命した時期も重なります。しかもナボコフの代表作『ロリータ』の表紙には、レンピッカの《ピンクの服を着たキゼット》が使われたこともある。交流がない方が不自然なくらいですが。

宮澤: 彼に関してもレンピッカと接点があったっていう話はやっぱり出てこないですね。もっとも、ナボコフの方は意識していたかもしれませんけどね、これだけ共通点がありますから。レンピッカに関する研究ってまだ始まったばかりですから、これからいろいろと発掘される可能性はありますが、それにしても不思議です。レンピッカが他の画家と関わっていた情報はほとんどないんです。当時のパリでも、女性の画家が受け入れられるのは難しかったようですが、それにしても彼女に関しては見事なほど他の画家との関わりが見当たらない。

山田: 不思議ですね。当時の芸術家たちの国際交流の活発さを考えると、レンピッカは不自然なほど孤立している。サンクトペテルブルク時代は構成主義の画家たち、パリでもピカソ夫人やナボコフをはじめストラヴィンスキーやバルテュスといった同郷の芸術家が周りにたくさんいたのに、そんな中でこの人は一体、何をしていたんでしょう(笑)。やっぱり高山さんがおっしゃったように、レンピッカ自身が「住む世界が違うから」と積極的に交わろうとしなかったのかもしれませんね。

秀島: とにかく他人のことより、自分が一番美しく見える角度や表現を研究するセルフ・プロデュースに忙しかったんでしょうか。当時のパリでは、芸術家や貴族の人たちって、どんな場所でどのように交わっていたんですか?


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山田: レンピッカは社交界にいたかもしれないけれど、ピカソのように貧乏な芸術家は、基本的にはカフェが交流の場ですよね。ちょっとお金持ちで芸術に興味のある人はサロンみたいなのを開いていたと思いますが。

秀島: やっぱりレンピッカとピカソとは、飲んでいるものも、食べているものも違う、みたいな状況だったのかもしれませんね。

山田: レンピッカはレンピッカで「貧乏画家とはつきあえないわ」、ピカソはピカソで「俺らファインアートで商業芸術じゃないから」みたいな感じで、お互いに敬遠し合っていたのかも。

海老沢: 接点があったっていうと、シャンソン歌手のシュジー・ソリドールはレンピッカを始めいろんな画家が描いていますよね。その数226人だとか(笑)。そこで何か交流があった可能性はあるかもしれません。

宮澤: その可能性はあるよね。でもレンピッカは他の画家と同じ立場でシュジー・ソリドールを描いていたんじゃなくて、彼女とは恋人関係だったんだよね。だから自分のヌード写真なんかを送っているわけでしょ。基本的にレンピッカはレズビアンの系統の人だから、そういう閉じたグループに属していたっていうことはあるかもしれないですね。ちょっと他の人は入っていけないような雰囲気のグループだったっていうのは考えられませんか。

山田: それはありえますね。レズビアンのコミュニティの方が、ゲイのコミュニティよりさらに閉じていたでしょうから。

秀島: 彼女は、そういうレズビアンの人たちにとって、ある意味アイコンみたいな存在だったのかも。私たちの代弁者、みたいな。当時、女性の画家が自分の恋人として女性を描くなんて相当アヴァンギャルドだったわけですよね。

宮澤: ところが、かといって本人が声高らかにレズビアンであることを公言しているかというとそれもわからないんです(笑)。どちらかというと、娘のキゼットが話している中に出てくる情報なんですよね。

山田: 当時はまだ、カミングアウトはハードルが高かったでしょう。ジャン・コクトーでさえ、ゲイであることを公には明言していなかったくらいですから。ましてレンピッカには、旦那も娘もいたわけで。それに、この人の場合、性的なことにあまり重きを置いていなかったような気がするんですよ。「両刀伝説」のせいもあって「恋多き女」のイメージがありますが、それは性に貪欲だったからではなく、逆に無頓着だったからではないでしょうか。結婚相手も、最初の夫は少女時代の憧れの「王子様」で、二番目は明らかにお金目当て(笑)。どちらも情欲はからんでいません。
僕は編集者として宇野千代さんの晩年にお付き合いさせていただいたことがあるんですが、世間一般の印象とは裏腹に、実は色恋に溺れるタイプの女性ではないんじゃないかと感じました。そういうイメージで、自己プロデュースされているだけなんじゃないかと。考えてみれば、性に溺れて自分を見失った状態で、創作活動なんてできっこない。レンピッカも宇野先生と同じように、大人の女の情欲ではなく、少女のような精神性を生涯、持ち続けていた女性だったんじゃないかと思います。

宮澤: 彼女が描く男性像って、どこか宝塚っぽくありません?男臭さとか汗臭さとかが全然無くて、すごくきれいですよね。結局男性のことが嫌いだったのかもしれませんね。

秀島: とにかく自分を俯瞰して、どういう風に見せたら一番美しいかということを研究し続けていたんでしょうね。だからこそ、会場の最後に晩年のポートレート写真がありましたけど、おばあちゃんになってもかっこいい女っていう雰囲気がありますよね。遺灰を火山の上から撒いてくれっていうのも彼女らしいですよね。そういうことすらもデザインして、自分らしさを貫き通した強さを感じます。

山田: 僕は、そんな彼女の姿勢に、逆にものすごいコンプレックスの影を感じてしまうんです。見栄の張り方やがんばり方が、尋常じゃないですから。レンピッカって、お金持ちではあるけれど貴族の生まれではないし、雰囲気美人ではあるけれど絶世の美女じゃない。娘のキゼットの肖像を描いたのも、そんなコンプレックスの表れではないでしょうか。生まれながらの伯爵令嬢で母親より美人なキゼットに、「なりたかった自分」を投影しているように思えてなりません。
最近、谷譲次という日本の作家が1927~28年に夫婦でヨーロッパ中を旅して書いた『踊る地平線』という連作小説を読んだんですが、当時のヨーロッパが実にリアルに描写されていて面白い。モンテカルロに行く際に、谷夫妻は見栄を張るため、一駅手前の町で運転手つきのランチャを借り、空のヴィトンのトランクを積んで、オテル・ド・パリに颯爽と乗り付ける。そういうレンタル商売が、実際にあったらしいです。そのくらい、当時のモンテカルロのホテルやカジノは、本物のセレブに混じってインチキ亡命貴族やニセ令嬢がうじゃうじゃいる伏魔殿だったという話(笑)。サンモリッツのスキー場でも、同じような光景が描かれています。僕はそれを読んで、レンピッカもこういう世界で生きていたんじゃないかと思いました。彼女自身、実際にどれくらいお金を持っていたのかも、本当の年齢さえもわからない。そういう「謎」の部分や、虚実入り混じった「伝説」こそが、彼女の最大の魅力かもしれませんね。

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