2017.12.08 UP
舞台稽古レポートが到着しました!
テネシー・ウィリアムズの名作戯曲を、イギリス出身のフィリップ・ブリーンが初めて演出する『欲望という名の電車』。初日前夜の舞台稽古を観た。
実に面白い。名作を豪華キャストで上演しているから、ではない。今回集ったスタッフ、キャストが、それぞれの才能と人生を持ち寄り、戯曲の意味を汲み尽くし、舞台上に体現しようとしたとき、こんなにもまた新しい作品世界が現れる、だからこそ面白いのである。
ヒロイン・ブランチ役の大竹しのぶが客席通路から登場し、ニューオリンズのフレンチクォーターへやって来る。作品世界へとスムーズにいざなわれるオープニングである。“ブランチ=白”のその名にふさわしく、上から下まで白づくめといういでたちの彼女は、明らかに一人、場違いである。その場違いさは、彼女が周囲と交わす会話にも如実に現れる。上流階級のお嬢様育ちで、英語の女教師を務めるインテリでもある彼女は、周りは知らないであろう知識や教養をついつい口にし、育ちおよび職業上、何かと上から目線、上から口調で、周囲を彼女が信じる善きものへと導こうとし、皮肉交じりの毒舌を吐く。例えば、ブランチと同じ環境で育ちながらも、今は貧しいスタンリー(北村一輝)と結ばれている妹ステラ(鈴木杏)との会話。ブランチとステラは、過去の思い出は共有はできても、現状認識については共有することができない。そのすれ違い。せつなさ。ブランチの前に立ちはだかる、ブランチが誇るような知識はなくとも、生きる才覚と活力に満ちた男、スタンリーとの会話も、ひりひりとスリリングである。笑いもある。日本の掛詞よろしく、一つの言葉、一つのフレーズに重ね合わせられた二重の意味にはっと気づかされたりもする。稽古場で言葉一つ一つにつき入念なディスカッションを重ね、初日を目前にしてもまだ言い回しを調整し続けているというだけあって、この戯曲の会話劇としての妙をたっぷりと堪能できる。まずはそんな醍醐味に浸れる舞台である。
音へのこだわりも効いている。いささか神経衰弱にあるブランチの、さまざまな音への反応は戯曲に記されているところだが、それ以外の音への過剰な反応もまた、ブリーンの演出と、大竹の入念な演技によって示される。
過去の不幸によって、自らの女性性に対し激しく揺らぎの生じたブランチ。いつまでも自身の美貌とスタイルに執着し、見え透いたお世辞と自ら言いながらも周囲の賛辞を求めずにはいられず、その“女”を武器とし、さまざまな嘘を重ねながら、この“残酷”な世界を何とか生き抜いて行こうとするブランチ。そんな女の愚かしさ、滑稽さ、いやらしさ、それでいて、どこか心で心を抱きしめたくなるようないじらしさ、かわいさ、コケティッシュさを体現して、大竹しのぶが圧巻である。客席通路から登場し、また客席通路へと退場していく、その瞬間まで、美しい。
そんな大竹ブランチを中心として、キャスト陣それぞれが、登場人物一人一人の人生をくっきりと描き出そうとしている。戯曲に書かれていない部分の人生、生活が、それぞれの背後に浮かび上がってくるかのようである。
第四場で、ブランチが、スタンリーを下品、けだもの、類人猿と罵り、そこから“進化”を遂げ人々が獲得するに至った感情や、詩や音楽といった芸術を讃える。そのいかにもインテリめいた“芸術論”を、スタンリーは人知れず黙って聞いている。だが、ブランチも、スタンリーも、自分を突き動かす同じ欲望を抱えた、同じ人間である。人に上下はない。美を解するかどうかで人間の価値が決まるわけでもない。美はすべての人のためにある。そんな人間すべてを内包して、このテネシー・ウィリアムズの戯曲はある。名作たる所以である。そのことを鮮明に指し示す今回の舞台である。
文=藤本真由(舞台評論家)
撮影=細野晋司