シアターコクーン・オンレパートリー2017
DISCOVER WORLD THEATRE vol.3
欲望という名の電車

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2017.11.27 UP

臨場感溢れる稽古場レポートが到着しました!

 現代演劇を代表する戯曲『欲望という名の電車』が世界的に注目されている英国のフィリップ・ブリーンの演出、大竹しのぶの主役ブランチという魅力的なタッグで上演される。都内の稽古場では、戯曲の隅々まで知り尽くすブリーンと自らの演技やカンパニー全体の空気感をより高めたい俳優陣が、連日、いくつもの可能性を探りながら、究極の最終地点へと力強く前進を続けていた。

 

 全員がそろうまでの時間を利用して行われたのは音楽を担当するパディ・カニーンが「音楽的な実験」だというゲーム形式のワークショップ。輪になって一人ずつあいさつと自分の名前を言って、それを全員が身振りまで含めてまねして復唱するゲームから始まり、拍手とフィンガースナップ(指パッチン)を組み合わせたリズム感が試されるゲームも。さらには各自がさまざまなひねりを入れて歌う短いスキャットを全員が復唱していくゲームや、音楽に体を合わせながら、セットの中を一定の目的を持って歩き回りながら、すれ違ったり出会ったりした相手とはちょっとしたダンスや短い会話を交わすゲームも。

 もちろん、これは単に俳優の心身をリラックスさせたり、口舌を滑らかにしたりするためだけにやっているのではない。明確な目的は明かされないが、俳優として必要なコミュニケーションや感情のやり取り、相手の動きに対する反応などを鍛える訓練でもあるのだ。

 中にはそこで得られた成果が本番の動きの中に採用される可能性もないわけではない。俳優の新たな可能性を探る意味合いも感じられ、カニーンのゲームを一見楽し気に見つめていたブリーンの目が時折きらりと光る。

 

 ブリーンはひとつひとつの役柄にとても細かい指摘をする。しかしそれは重箱の隅をつつくような細かさというよりは、作者の意図を必死で読み解く行為なのだ。

 例えば黒人女を演じる女優には「メイクや服装で黒人女だとは見せたくないんだ」と話し掛ける。「テネシー・ウィリアムズがこのキャラクターで何をしようとしていたのか。そこが重要なんだ」というブリーン。ちょっとしたあいさつも黒人女に対してはぞんざいになるなど、差別や階級の問題を表す材料になり、それが、この『欲望という名の電車』の舞台であるニューオリンズのフレンチクォーターという地区を形作る要素ともなる。

 感情が身体の動きにどのような影響を与えるのかに強い関心を抱くのも、英国の演出家らしいところ。6カ月の間、船に乗っていた水夫が売春婦に会いに行く時の気のはやり方は尋常なものではないはずで、船を飛び降りた様子が、演じられるシーンでも感じられなければならない。感情のエネルギーがどちらの方向に向いて飛び出していくのかも重要なポイントになって来る。別々に演技をつけていた3つの修羅場が同時進行するシーンが重ね合わされると、稽古場の空気はいやがうえにもヒートアップする。

 

 行き場所のなくなった主人公のブランチ(大竹しのぶ)が妹のステラ(鈴木杏)を訪ねてやって来るニューオリンズ。ブランチの登場前にステラとその夫であるスタンリー(北村一輝)の夫婦関係がどのようなものであるかを見せる冒頭近くのシーンでは、スタンリーがカード仲間のミッチ(藤岡正明)と話しながら、買ってきた肉を家にいるステラに投げ渡し、さっさとボウリングをしに行こうとするシーンの稽古が何度も繰り返された。

 愛するスタンリーに甘えたり話したりしたいステラに対して、やや面倒な思いもあるスタンリー。北村は、投げる距離や間合いを何度も確認する。その行為によってどのような感情が見えるのか。距離は適切なのか。そもそも投げることは必要なのか。

 鈴木は、女房としての可愛らしさから、悲しみの淵に突き落とされるシーンでの崩れぶりまでステラの多彩な感情を表現する。これまでの作品で示してきた鈴木の演技力が、自身の初舞台(2003年「奇跡の人」)での共演相手、大竹との再共演で炸裂している。ブリーンが大竹に演技指導をしているのを食い入るように見つめる姿も見せ、この貴重な時間から得られるものをすべて自分の財産にしたいと願っているかのような気迫が感じられる。

 藤岡は、真実の愛を捧げながら、裏切られたような思いにいたたまれないミッチの心のさまよいを注意深く造型している様子がうかがえる。

 

 大竹とは2015年にシアターコクーンで上演した同じウィリアムズ作品『地獄のオルフェウス』でも組んでいるブリーン。2人の間には互いをリスペクトする気持ちが見て取れる。

 気持ちが不安定になりながらも、ブランチが見知らぬ男や女たちと、新しい世界へと一歩を進めていくシーンでは、短い時間の間にブランチの感情のレベルが激しく移り変わる。毅然と出ていこうとしたブランチが突然怯えるようになり、やがては絶望の淵から這い上がり、貴婦人のようにプライドを取り戻す。

 大竹は、演技スタートのキュー(きっかけ)の合図が入る数秒前から、魂がすっと体に入り込むように表情が変化していく。自分が意図せずに精神が押し込まれるようなことを言われた時に出す高く上ずった声から、弱々しく絞り出すような小さな声まで、大竹はブランチの激しい波を克明にデザインしていく。

 かつて別の作品でインタビューをした時に大竹は、世間からの「憑依型女優」という評判について「それ(憑依した私)を見ているもう一人の私がいるんだけどなあ」と話していたが、それはつまり役に憑かれたように演じている自分を冷静に見ているもうひとりの自分がいるということで、極めて冷静にクールな頭脳で演技をコントロールしている存在について語っているのだ。この稽古場での大竹もまさにその様を表していて、精神の手綱をしっかりと握りながら、自由に自分という俳優の身体を動かしているのである。

 混乱から立ち直り、ブランチを前に進めたものは、かつての上流階級での生活が創り出したプライド。没落した後は、逆にそれが人生を邪魔する厄介な存在にもなったが、最後に新しい世界へと踏み出すにあたって、やはり彼女自身を保つ力にもなっていく。

 女王様のように気高く歩く大竹の演技は、この『欲望という名の電車』が激しく描き出そうとしているものの重要な側面を象徴して余りある。

 

 稽古場では、常に空気がピーンと張りつめているわけではない。ベッドに倒れ伏したシーンを演じていた大竹は、そのままふとした待機時間になると、いつのまにかベッドで腕立て伏せをしている。思わず吹き出すブリーンは「みんなすきがあればエクササイズしたいんですよね。だからそれぐらいの心意気が必要」とにやり。北村も仲間役の若手俳優にちょっかいを出しては、緊張したシーンをほぐしていく。ブランチに次ぐ重要な役柄を熱く演じながら、ムードのコントロールも買って出ている様子。

 男たちの乱闘シーンになると、ひとつひとつの動ぎを決めていくブリーンに対して、俳優陣からも積極的な提案がある。殴り方や体の入れ方に関しても、俳優同士でアイデアを出しながら、もしも万に一つ相手の顔に当たってしまった時に危険でないように確認し合うことも。そしてそれをブリーン、そしてそのシーンに居ない俳優陣とも「共有」していく。それがまさに稽古なのである。俳優、そしてスタッフから劇場そのものに至るまでが有機的につながっている。その確認作業なのだ。

 

 

 ブリーンはとにかく、俳優から疑問・質問があればそのたびに新たなプランを提示する提案力に優れている。幾多の演出経験と多くの俳優とのコラボレーション経験が彼にもたらした才能のひとつだが、打てば響くように瞬間的に答える場合もあれば、時には最良の方法を頭の中の何万枚のカードから選び出すように30秒以上も熟考したまま動かなくなる場合も。製作発表会見で「ト書きの表現的な世界も舞台の上で見せていきたい」と語っていたように、テネシー・ウィリアムズがト書きに託した思いを読み取ろうと、台本の細かな表現にまで気を配っている。日本語と英語のせりふで感情の移動や動作のタイミングが違うケースもあり、ひとつひとつ深い検討を加えながらの作業が続いている。

 俳優の、演出家の、そしてスタッフの熱い思いが、稽古場というるつぼの中でたぎり続けている。

 

                            エンタメ批評家 阪 清和
撮影 引地 信彦