ビニールの城

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2016.11.11 UP

ついに開幕!初日レポート!

『メトロポリス』を初日に観劇。フリッツ・ラング監督による映画「メトロポリス」をそのままなぞったものと予期すると、いい意味で裏切られることだろう。まるで、心象風景のコラージュのように、場面が浮かんでは消え、物語が展開する。ミュージカルやアングラ、コンテンポラリーダンス、シリアスな芝居などなど、ジャンルを超えて要素満載。欲張りな作品でありながら、原作の核となるテーマが要所要所で煙のように浮かび上がる。支配者と労働者、父と子、純愛、崩壊と再生…。

 マリアを演じる松たか子は、実にイキイキとした魅力に溢れている。溌剌とした歌声と語り口は、労働者でなくてもウットリしてしまうことだろう。機械人間パロディもどこかチャーミングなのが、より恐ろしさにつながっている。森山未來は支配者の息子でありながら社会の矛盾に疑問を持つ、まっすぐなフレーダーを好演。身体表現が際立つとともに、肩肘張らない芝居でメトロポリスを生き、父を越えてゆく。

 舞台オリジナルのキャラクターがちょこちょこ顔を出すのも興味深い。狂言回し的な役割も担う六道衆、お菓子を食べながら喋り続ける赤い靴の男、マイクを持って自己主張するイヌ丸、人形のような少女カムロとお付きの男・若い衆…などなど、彼らの存在が、『メトロポリス』を観る者たちと地続きの物語に変えてくれる。

 面白いのは、フレーダーが3人に分身したり、何度も同じ動作をリバースする人がいたり、声がハウリングしたり、ん?と思うシーンが突然現れることだ。昔の映画は人が何重かにずれて見えたり、同じシーンが何度も巻き戻されたり、ノイズが入ったりと、フィルムならではの不具合があり、それも味わい深いものだった。そんなハプニングを生身の人間により、生の舞台で表現する。多分、演出の串田和美から90年前の原作映画へのリスペクトかつオマージュが含まれているのだろうと想像する。

 かといって、映画のように労働者や子供がゾロゾロと大勢出てくるシーンを映像に頼ることはない。マリアは子供達に語りかけるが、そこにいるのはカムロだけで観る者の想像力に委ねている。バベルの塔も人が作り、メトロポリスのビル群は金属の骨組みが形成する。見立てが存分に味わえる、それこそ舞台の醍醐味だろう。身体表現をまるで台詞のように取り入れているのも同様。観る者は想像力をフル回転して、言葉にならない感覚を味わえるはずだ。特にフレーダーとマリアが愛を育む様子は、動きに思いが溢れて、心からキュンとした。表現のユニークさに目が奪われ、目がいくつあっても足りないほど。

 同時に、発せられるメッセージも強烈で、持ち帰れるものは多い。私たちはまさに渋谷というメトロポリスでこの作品を観るわけだが、もしかしたら足元は「紙の船」のように脆弱なのかもしれない。蒔いた種は自分で刈り取る…この言葉が頭から離れない。

(文・三浦真紀)