フランス文学の愉しみ

No 36分断から調和へ

『ちぐはぐなディナー』の書影
『ちぐはぐなディナー』 セシル・トリリ作/加藤かおり訳/講談社刊

秘密を抱えた4人のスパイシーな晩餐

今年の5月の連休は、何日間のお休みだったかは人によると思いますが、みなさんは何をしてすごされましたか。お家でゆっくりすごしたり、旅行にいったり、ショッピングをしたり、久しぶりにお友だちにあったり…いやいや仕事で毎日働いていましたという人もいらっしゃるでしょう。フランスにはこのような国レベルの連休はありません。子どもの長い休暇に合わせて、夏にはそれぞれ長めの有休をとりますが、年末、春や冬には学校が1~2週間休みになることはあっても、職場は通常どおりです。では、お友達と会うにはどうするか。私がフランスで知ったのは、彼らの集う場所は実はそれぞれの家でのホームパーティーがとても多いということです。毎週末の夜、誰かの家で食事に招かれたり、招いたりするのです。知りあい(友人、ご近所の人、そのまた友だち等々)でもそうでなくても呼んだり呼ばれたりします。きちんとしたコース料理を振舞ったり、持ち寄りだったり、極普通のいつもの家庭料理だったり、サラダとメインとデザート(チーズも)だけだったり。ただいきなり料理ではなく、アぺリティフが必ず先立ちますので、始まるのは7時半か8時、食事は9時から、終わりは12時(真夜中)くらいまででした。だいたいみんな同じ市内に住んでいて、郊外(街から車で15分くらい)だったら夏はお庭で食事をします。このような友だち付き合いはいろいろな意味があり、楽しむのが第一ですが、さすが社交の国とも思え、また非常に親密な付き合いも可能にしていることを知りました。言葉がまだできない外国人にはとてもよい機会であり(実際少し疲れますが)、友人ができるチャンスでもありました(仕事に繋がることもありえます)。気があえば、「今度うちに食事にいらっしゃい」となるわけです。そして一番驚いたのが、仕事の取引相手を自宅に招くということもあるということでした(日本ではあまり聞いたことがありません)。ただ、このようなお付き合いを頻繁にするのは、やはり40代初めくらいまでのカップルが多く、年をとるにつれて次第に回数も減り、規模も小さくなるようです。今回のタイトルが示す「ディナー」というのはまさにこのような日常の交際をしめしています。
この小説の舞台は、あるとても蒸し暑い晩夏の夜、パリの豪華なアパルトマンで、登場人物は、二組の友人同士の30代後半くらいのカップル4人だけです。片方は、エティエンヌとクローディア、もう一方はレミとジョアルで、ずっと若いクローディア以外の3人は大学時代からの付き合いです。俗にフランス語で「ユイ・クロ(huis clos)=出口なし」と呼ぶ密室劇で、さらにディナーの時間は3時間から長くても4時間という了解があり(小説中では11時というデッドラインが登場人物の一人、ジョアルによって引かれています)それだけで相応の緊張感を伴う雰囲気を設定しています。なぜなら、登場人物のうち、少なくとも二人はこの夜に果たさなければならない仕事上の重大事項を抱えているからです。そして夜の蒸し暑さというのはフランスではあまり感じられなかったのですが、最近の気候変動?の影響でしょうか。この蒸し暑さには彼らは慣れていません。 *) バカンスも終わった8月末のパリでは日没は8時40分くらいですから、お話の始まりではまだ空は薄明るくオレンジ色に輝き、夜のとばりはこれから降りるという時間でしょうか。
作品の初めから、状況の設定を明らかにするように登場人物のそれぞれの今が語られていきます。

登場人物と状況の設定

エティエンヌ:裕福な家庭の出身でパリに豪華なアパルトマンをもつ弁護士。かなりの美形で女性にもてる知的で優秀なスマートな男性。ただキャリア上は難しい局面にあり、今回のディナーを計画して古い友人のジョアルの出世を手掛かりに挽回しようとしている。妻には優しいが、完全に支配するタイプ。
クローディア:2年前からエティエンヌのパートナーとして彼のアパルトマンに同居している、彼よりはかなり若い女性。職業は運動療法士。病的に内気で社交が苦手。子どもを持つことでエティエンヌとの関係がもっと確かで豊かなものになることを望んでいる。自分は夫の影で家事を全うし、人前に出ること避けて安心する生活をしている。ジョアルに会うのは今回のディナーでやっと二回目。
レミ:エティエンヌの学生時代からの親友。あまり裕福ではない普通の家庭の出身。人柄はおっとりしているが、知的には優秀で、高校のエリート大学校への入試準備特別選抜クラスで経済を教えている。かなり太り気味で風采はあがらず、エティエンヌとは対照的なタイプ。現在まで出世の道を走るジョアルを影で支えてきた存在だが、その出世の恩恵を受けてかなりの贅沢とエリート社会への参加を享受している。
ジョアル:チュニジア系移民の出身で、家庭の貧しさ、社会的な差別を持前のバイタリティーと努力で克服し、現在は大手IT企業で大抜擢により将来を約束されつつある。不屈の意志を持つキャリアウーマン。仕事に熱中し家庭は顧みず、夫が浮気をしていることに気がついていない。

それぞれが胸に秘めた思いに囚われながら、表向きは友人同士の再会を喜びあい、近況やアパルトマンについてのあまり意味のないお決まりの会話を始めます。かなり遅刻して到着したジョアルと男二人とは離れて、クローディアはキッチンで午後中かけた料理の準備に没頭しています。とても蒸し暑いのに、煮込み料理のカレーを用意し、熱気とスパイスの香りでキッチンは息苦しく、彼女は汗みずくになっていました。やがて体に不調を感じる彼女が妊娠していることを読者は知らされます。かたやその日の職場における出来事に興奮さめやらないジョアルは、気乗りのしない会食の場に着いても心は上の空。料理は招待側のクローディアにすっかりまかせて、これまで自分の歩んだキャリア上の苦労に思いを馳せるだけでなく、夫の親友として付き合いのあったエティエンヌとのやりとりに複雑な思いを抱きます。夫のレミは、妻の精神的支えとなってきた自分に満足しつつ、新しい別の愛の目覚めに抵抗することができず、とても若い同僚のマノンとの関係に夢中になり、この先どうなるのかがわかりません。この関係は親友にも知られています。エティエンヌといえば、とにかく、自分の職場での立場がジョアルの間近にせまる大出世にかかっていることを上司に極秘に告げられているので、それとなく、でも必死でなんとかジョアルに取り入ろうとします。そしてクローディアは、苦手なジョアルや、穏やかなレミとの接触もできるだけ避けて、将来の子どもの父となる夫のために料理を完璧に仕上げようとしています。自分でも"つくす女"であることを嫌になりながらも自覚しています。

このような本当にすれ違いの思いを抱いた4人の会食は、日本語タイトルが示すようにまさに「ちぐはぐなディナー」です。ただフランス語の原タイトルが意味する「シンプルなディナー(un simple dîner)」は、この会食が一見日常的によく行われる友だち同士のホームパ―ティーのひとつなのですが実はそれが、当事者たち全員にとって予期せぬ途轍もない変化を引き起こす何気なく訪れる人生のある瞬間となることを暗示しています。

テーマ

作者は作品発表後のいくつものインタビューで、この作品で描こうとしたテーマについて語っています。つまり、出自の問題、女性の家庭と社会における地位、キャリア、カップルについて迫りたかったのでこの作品を思いついたとのことです。確かに、これらのテーマの全てが、巧みに、しかもかなりの迫力をもって登場人物の心理描写、独白を中心にして描かれています。ただ描かれているのはそれだけではなく、もっと言えば、家族の愛や友情の在り方についても多くが語られています。そしてそれがほとんど全て、個人と個人との関係性に基づいています。登場人物もしばしば、向い合った相手にとって自分がどう映っているのか、どのような存在であるかに気づきます。つまり、個人は相手の視線の中に囚われた存在でしかないということです。また、その関係性というのがほとんど全て、両者の力関係として描かれています。例えば、北アフリカからの貧しい移民出身であることがあらゆる関係に影響します。職場だけでなく、友人関係においてもです。移民でなくても、それぞれの出自はお互いを見る目に影響します。初めは有利にあった者も、その後のお互いの出世に従って逆転の関係が生まれます。男性と女性については、家庭でも職場でも支配と服従という関係で生きられています。母と娘の関係も、その反動でお互いに否定的になり、娘は社会で成功することを「義務」とさえ感じるまでになっています。単なる見かけも無意味ではありません。肉体的な特徴は人々にコンプレックスや、人柄の印象を与えます。登場人物、あるいは彼らの世界観はあたかもこの支配と従属という力関係に集約されているようで、その事実をある程度自分の環境にもあてはめることができることに私自身も思い当たりました。ただこの作品のような恐ろしく率直な遠慮のない視線は、フランスでは日本よりも切実な現実から生まれるのかも知れません。いずれにしても、人々の半分、もしくは多くがこの平等ではない関係に不信感と息苦しさを感じているのではないでしょうか。
人々は閉じ込められた空間にいながら、分断されているというのが、この作品の見事な社会の表象ととらえられます。分断の原因がこの力関係にあるとしたら、そしてこの"出口なし"の状況からもし解放されることができるとしたら。調和があり、自由がある世界に生きるにはどうすればよいのでしょうか。それは普通の人が毎日のように少しずつ期待をもって試そうとしていることでもあると思います。ただ現実の前に失望することも多いことでしょう。何がそれを可能にするのか。登場人物たちはどうするのかはこの作品を読んでみてください。

描写の感覚性

この作品は発表時に、とても注目された特徴があります。ストーリー自体は格別に新規なものではないので、このような工夫が作品を際立たせています。それは、人物や状況の描写の「感覚性」です。例えば、小説冒頭は、クローディアの料理のシーンです。

「クローディアはキッチンの壁に背をつける。日中の間に石膏壁に蓄えられた熱が、腰、肩甲骨、肩に広がっていく。首ががくりと前に傾ぐ。頭が途方もなく重い、胸元に何本か赤い筋が浮いているのを目にして、一層ぐったりと壁にもたれかかる。」(p.5)

そして、ジョアルが到着した瞬間のアパルトマンの描写です。

「アパルトマンに足を踏み入れた瞬間、ジョアルはにおいの襲撃を受ける。
エラ・フィッツジェラルドのハスキーな歌声に出迎えられ、彼女が今足を踏み入れたのはエレガントな秘密のバブルの中なのだと強調するかのようにライトがひと続きの空間を柔らかに照らしている一方で、それらを打ち消すような強烈なカレーの香りが漂ってくる。」(p.24)

さらに面白く感じるのは、時間の経過が料理に絡めて示されていることです。

「彼女の視線はすっかり冷めてしまったズッキーニの花に注がれる。ジョアルの皿にもられた花にはまったく手がつけられていないし、ほかの人もほとんど食べていない。オーブンから出したときには燃え立つように美しかった花冠のオレンジ色は黒ずみ、先端部は白っぽい詰め物で膨らんだ腹のほうにしなだれかかっている。」(p.69)

このような感覚的な描写は恐らくあまり今までに多くはみられなかったもののようです。作者本人はかなりこの文体に力を注いだといっていますが、このような描写をどこから思いついたのかは語っていません。しかし感覚というのは理性でコントロールするものではなく、生理的なレベルにあるものですから、人間の本音というものがそのような感覚によって現れることを示したかったのかも知れません。萎れてしまった花は、反対に、人間の建前の無力さを象徴しているようです。

この『ちぐはぐなディナ-』という作品は、ですから、人々が本音で生きることの複雑さと、それを実行する意味を示唆していると思います。幸せになろうと努力することが現実の社会ではちぐはぐな幻想に終わるのか、それとも実際にどのような結果を生むのでしょうか。作者によると意外な結論のさらなる後日談は読者の想像に託されているようです。

セシル・トリリの最初の小説、デビュー作でありながら、『ちぐはぐなディナー』は第一回ジゼル・アリミ賞(2023年)を受賞しています。フランスの著名なフェミニスト弁護士ジゼル・アリミ(Gisèle Halimi₋1927-2020)を記念する同賞は、女性の解放と自由、男女平等と友愛をテーマにした作品に贈られる文学賞です。内容を際立たせる特徴ある文体も、この作品を一層味わい深いものとしていますので、是非ご一読ください。

作者セシル・トリリについて

1980年パリ生まれ。名門のアンリ4世高校の特別準備学級の後、2000年パリ国立高等鉱山学校に入学、卒業とともに鉱山技術官僚団(Corps des ingénieurs des mines)のエンジニア、すなわち、国家公務員の技術系エリートとなって、いくつもの官民の組織の管理職を務めます。しかし2020年に非定型発達の子供たちのための学校「Walt」を他の二人の女性と共同設立し、2023年に初めての小説『ちぐはぐなディナー』を大手出版社Calmann-Lévyから発表します。この作品は発表とともにメディアで多くとりあげられ、高い評価を受けました。この小説には北アフリカ系出身の女性であるトリリが経験した大企業での女性キャリアの困難な状況を反映しているとインタビューで語っています。2025年には2作目の小説Celle qui fugue(失踪する女)を Calmann-Lévy社から刊行しました。

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