フランス文学の愉しみ

No 30美を見出し、美と向き合う

『モナ・リザのニスを剥ぐ』の書影
『モナ・リザのニスを剥ぐ』 ポール・サン・ブリス作/吉田洋之訳/新潮社刊

現代の美術館をとりまく諸事情

フランス文学に興味のある方の多くが、フランスの文化一般や特に芸術に魅かれているのではないでしょうか。そのような方(もそうでない方も)が、とにかく“モナ・リザ”といえば何のことかはご存じであろうと思われるほど、この女性、もしくは肖像画は世界的に有名です(名前は知らなくてもそのコピーは見たことがあるかも知れません)。今回ご紹介する小説は彼女が主人公です。果たして彼女を美しいと思うかどうかは、私としては必ずそうとは思えません。でも彼女は世界中で美を表すアイコンとみなされてもいます。
その「モナ・リザのニスを剥ぐ」というのは何を意味しているのでしょうか。まずタイトルを見て、小説かどうかわからずともちょっとページをめくってみたくもなりますね。そんな感じで美術が大好きな私はこの本に飛びつきました。美術書ではないことはすぐにわかりましたが、非常に多弁な作品で、フィクションと現実が同じくらいに混じり合った内容です。55の小さな章にはそれぞれ簡潔なタイトルがあり、ストーリーの多角的なアプローチをいったりきたりするので、読むページによって思いめぐらすことはかなり異なりますが、そこにぶれない体幹のような繋がりを感じさせます。それは、「モナ・リザのニスを剥ぐ」ということが、何を意味し、どのような結果に行きつくかを知る旅と言えるストーリーです。
ところで“ニスを剥ぐ(仏語原題L’allègement des vernis)”というのは、実際にはどういうことなのかというと、絵画作品の修復技術のひとつであり、修復作業の全てを示すわけではないようです。実際に今モナ・リザに手を加えるとしたら、ニスを剥ぐというだけではすまない筈です。でもその修復の細部を語ること、そして結果を評価することが作品の目的ではありません。この小説は、500年もの間に変化を遂げた作品の姿を、黄色や緑色に変色した本来保護剤として表面に塗られたニス(複数回重ねられた)をできる限り取り除き初段階の姿に近づけるという作業ではなく、長い年月を経た今、現在至高の芸術として認められた作品をその誕生時の、または “本来”の姿で見出すという試みがなぜ行われなければならなかったかを語っています。
ですから、プロジェクトが立ち上げられた理由にまつわる今日の美術館事情、プロジェクトにともなう広報(SNSを駆使した)の在り方、美術品の修復に関する議論、プロジェクトを支援する立場にある国家の文化のパトロンとしての役割、実際にプロジェクトを運営、実行する人々(学芸員や修復士)の公私入り乱れた姿が描かれています。また完全なフィクションとして、芸術を自身のレゾン・デートル(生きがい)とする不思議な人物が登場します。

プロジェクトの発端

ここからこの物語は始まります。ルーヴル美術館の花形、絵画部門のディレクターであるオレリアンは、着任したばかりの新館長ダフネとともに、世界トップの美術館の現在の状況、財政的に危機的な局面の打開策をみつけるという重大な任務を負っています。「ルーヴル美術館は国の所有機関であり、毎年何百万人もの来館者があるが、予算の半分が公費で賄われている。この公的資金を減らしていく必要があり、これを実現していくための最善策として、いの一番に考えなくてはいけないのは、財政の主体性を美術館に委ねることであり、別の言い方をすれば、収益性を最大化することだった。」(20p)それを実現できるのがダフネだったのです。「彼女は美術館を魅力的で強力なブランドに変えた。」「デジタル課題に関する彼女の理解度、新たなコミュニケーション・ツールを適切に扱う能力は、業界を騒然とさせ、チケット収入はダイレクトに影響を受けた。」これはいうまでもなくソーシャルネットワークを駆使して、それまで美術館に来なかった人々を引き寄せることです。アメリカの世界的スター歌手がモナ・リザの前でパフォーマンスをする動画の配信、他のジャンルのアーティストとのコラボ等、パリ五輪開会式でフランスが見せた卓越した演出力で大勢の人を魅了するのです。さらには、もっと刺激的なイベントを、ということで、民間のコンサルティング会社に意見を求めたところ、“「ラ・ジョコンド」(フランスでは「モナ・リザ」ではなく「ラ・ジョコンド」と呼びます)の修復”という提案がなされます。集客にはこれ以上のサプライズはない、ということです。このように、人々が何を求めて美術館に来るのかということは二次的な問題となりました。これを一部の人々は大衆迎合であり、本来の美術館の役割をないがしろにすると批判します。またルーヴルの至宝はこの肖像画だけではありません。基本的に保守的な学芸員の心情をもつオレリアンは本心、大変な危険を冒してまでモナ・リザを修復することに抵抗がありましたが、彼の予想を裏切って、プロジェクトは委員会、文化大臣にも承認され、後は失敗を許されない計画を実行に移すのみとなり、彼の果てしない悩みと不安の日々が始まります。これから先、モナ・リザの修復の必要性、修復士の条件と選抜、修復の美学的また技術的な歴史と問題が断続的に多くの学芸員や美術史専門家の言葉で語られ、さらにはレオナルド・ダ・ヴィンチについて、また彼よりも知られていなくても当時の画家として重要であった周辺の画家についてと実に様々な美術史上のエピソードが語られていきます。1)

修復とは何か

タイトルにもあるように、この作品では修復そのものもテーマのひとつです。修復の定義とはどんなものでしょうか。作品中にも引用されるその理論が難解で有名な美学者のチェーザレ・ブランディによると「修復は、芸術作品を未来へと伝達することを目的として、芸術作品の物理的実体と、対極をなす美的および歴史的な二面性において芸術作品を認識する方法論的な瞬間を成り立たせる」2)(チェーザレ・ブランディ『修復の理論』32pより引用)のです。つまり、専門外の私のつたない理解でいえば、物質的には科学を基盤とする技術、そして抽象的には美的・歴史的な要素を理解する知性を必要とするようです。技術的な面はその専門家にのみ許される行為ですが、抽象的な面では、作品を美学的に、また歴史のコンテクストと時間の流れのなかで理解することなのでしょう。このような作品理解は実際には、一般の鑑賞者の力と関心をはるかに超えることです。というのは、オレリアンの「気落ち」(作品中の一章)にあるように、「絵画作品を理解する手がかりが失われつつあったということだ。描かれた主要テーマは聖俗どちらにしても、現代人の関心からはほど遠いところにあった。」「それはあたかも、この芸術、つまり彼自身の関わる芸術が、世界を説明する力をすこしずつ失っているかのようだった」(84/85p)からです。オレリアンはルネサンス期の画家の専門家なので、彼が親しい芸術は確かに過去に生まれたものであり、古い歴史の秩序によって描かれたものでした。今や人々は古い芸術作品の歴史の経過を経た美に関心ももたず、知ろうと言う気もない。恐らく大半の人は、別の期待をもって美術館に来るのでしょう。たとえば、古い皮を脱ぎ、生まれた時の姿のままの“新しいモナ・リザ”に出会うという体験…皮肉にも修復の意味することが認知されることなく、修復は現代人の期待に応えることができるという結果を生むようです。
[ここで、私の個人的な問いとなりますが、こんな疑問が浮かびました。科学が日進月歩で進化する社会における人間が、500歳を超えた美女に以前と変わらぬ愛と評価を持つことができるのでしょうか。]

画家(芸術家)と修復士

この作品で取り上げられる重要なもう一つの問題は、作品の生みの親である画家(芸術家)と修復士の関係です。特に、作品冒頭プロローグで語られる18世紀後半、パリで活躍した大修復士ロベール・ピコーの存在は、ただの技術者ではなくアーティストとして仕事をするフィレンツェ人修復士ガエタノの姿に投影されているようです。実際、文字通り身を削り、モナ・リザとの対話によってのみ、適切な作業を施す手がかりを直感的に把握しながら修復に没頭するガエタノは、大理石の中にいる彫刻を掘り起こし解放するのだと言ったミケランジェロの言葉を思い起こさせます。オレリアンの先輩学芸員のベルトランは、自らの授業で学生たちに画家と修復士の関係を解説します。「生命の息吹を与える者と、命を引き延ばし、[中略]永遠の命をさずける者と……一方はすぐに、もう一方が同等であると思うでしょう……」(120p)このような修復に関する議論は、一般の美術愛好家にどれだけ知られているのかはわかりませんが、修復そのものがとても重要で困難を伴う作業であることは想像にかたくありません。あらためて修復を行うガエタノの描写を読むことによって、この作業が技術だけではなく、むしろ芸術の真髄を感じるという感受性を必須とすることを知ることができます。そうでなければ全体の調和とメッセージ性という重要な要素が作品から失われてしまうでしょう。

修復については、作品中に非常に専門的な説明や議論が登場しますがいささか難解です。一方でこの小説のおもしろさはもっと別の、ロマネスクな部分、フィクションとしての物語のエピソードにもあふれています。

人物(女性たち)

主な登場人物というと、前述のルーヴル美術館館長ダフネと絵画部門ディレクター・学芸員のオレリアン、彼の妻クレール、修復士ガエタノと彼の愛人ジョゼッピーナとルクレツィア、そしてオメロです。彼らについては、モデルが存在するとも憶測できますが、とりあえずフィクションであり、それぞれの外観、精神や感情的な面が細かく描写されています。私の個人的感想としては、作者サン・ブリスの描く女性はほとんどみなミューズのように美しく、圧倒的な印象を与えます。それは単に美しいというだけではありません。館長のダフネは、「背が高く肩幅もあった。丸くて幅の広い特徴的な顔立ちは肩までかかる銀髪で囲まれ――[中略]長くて彫刻のような鼻はとてもシックで、額は高く膨らみを持ち、緑がかったグレーの明るい目は率直で少し間隔が空いていた。」そして「世間にみせる永遠の微笑」の持ち主です。それが何よりも彼女が誰に対しても安心を与える説得力のあるカリスマ性となっています。オレリアンに美に対する感受性を毎日の生活の中で教育した彼の母はその完璧主義で、美については妥協を許さないことを彼に教えました。次に語られるのはオレリアンの伴侶クレールです。「彼女の気高く自信に溢れた姿はトートバックを持ち歩く俯いた人々とは一線を画していた。[中略]クレールは歳を重ねるごとに独特の美しさが増した、五十代の綺麗な女性だった。彼女の顔はこれまでの歳月ではなく、今の年齢に合わせて造られていて、鋭く彫りの深い顔立ちは和らぎ、目鼻立ちを調和させ、それまで競合していた様々な特徴―大きな口、猫目、二角帽のような眉毛―が今では完璧な場所に収まり、唇はややふっくらし、まぶたがわずかに官能的に垂れ下がって表情は優しくなり、しとやかで温厚な気だてにかわっていた。」(61p)その彼女は30年も前には、黄色いプリーツワンピースを着て「水仙の黄色い花びら」のように可憐でした。他方でガエタノがひきつれている2人の女性は、陰と陽のような対局のタイプの、とはいえ補完しあう一組のミューズとして修復士を支えます。少し人工的な印象の美しさのジョゼッピーナは茶色い髪で、「彼女は四十歳くらいか、あるいはもう少しいっていたかもしれないが想像するのは難しかった。自分と人類の運命を無視することを決めたかのような、時間の流れを欺こうとする彼女の努力を彼は素晴らしいと感じた。」(140p)ルクレツィアといえば、「パルミジャニーノの描く取っ手つきアンフォのような軽やかさを持ち、白鳥の首、高い頬骨、華奢な手首、狭い肩をし、ポリュクレイトスの彫刻で見られるのと同じ、斜めに傾くエレガントな腰つきをしている」(245p)のです。こんな風にオレリアンの視線で描かれる女性たちと比べて、男性のオレリアン自身は、非常に控えめな描写しか与えられていません。見た目はエリート学芸員にふさわしくスマートな着こなしをしていますが、性格的にはダフネとは正反対の地味なタイプで、妻からは優柔不断とよばれています。(この人物はなんとなく作者がモデルかなという気がします。)どんな女性にも敬意をもち、その美しさを見出す、いささか少年のような一面をもつオレリアンは、最もモナ・リザの美を感じ、理解することができる人のひとりなのであり、修復後のモナ・リザの姿を誰よりも恐れと期待をもって待っている人なのでしょう。
最後に最も重要な人物をお知らせしておきます。この登場人物はこの作品に必要不可欠であると作者もあるインタビューで言っています。

オメロ

他の登場人物が非常に現実的にストーリーに結びついているのとは逆に、オメロという人物は、恐らく完全なフィクションで、この現実のカオスのようなストーリーにおとぎ話のような側面を与えています。ブラジル人の父とモロッコ系フランス人の母の間に生まれたオメロは出生直後に父親に母とともに捨てられます。成人になるとともに訪れた母の死後、穏やかな性格と真面目さを買われて家政夫の仕事につき雇い主の優しい人々に囲まれて愛情を知り、その後は偶然にルーヴル美術館内の清掃員の仕事を得ます。美術館の深夜の清掃時に、たったひとりで清掃車にまたがり、ウォ―クマンを通して音楽に浸りながらギリシャ彫刻の間を駆け抜ける彼のパフォーマンス(ダンス)は神話の世界のフォーンを思い浮かべさせます。芸術に独りで向き合い、感性だけでうけとめ、それだけを生きるエネルギーとして過ごすオメロの姿は美を享受することの最もシンプルで原初的なあり方を描きだしているようです。

美を巡り、古代から現在まで、限りなく多くの議論、理論、省察が行われてきたことは人間、文明の歴史そのものであると言えるでしょう。そして、21世紀の今、現代の人々が見失いかけていると思われつつある、美ということの理解を考察させているようにも思えるこの小説を読むと、実は私たちは日常のどこにでも美を見出すことができることに気づかされます。ただそれに気づくにはどのような心の在り方、美と向き合う心が必要なのか、そして特に、既にそこにあると人が信じている時、人は本当にそれを見ているのだろうか。そんなことも考えさせられます。専門的な内容だけでなく、人物や、パリやトスカーナの美しさの描かれ方も、色彩を駆使し、美術史的な比喩を多用する文体は美術ファンにはとても魅力的と思えます。『モナ・リザのニスを剥ぐ』は、作者のイメージに溢れる美にまつわる考察と物語に身をまかせながら豊かな時間を過ごす読書を楽しんでいただける作品です。

作者ポール・サン・ブリスについて

この第一作小説の出版を機に、一挙にメジャーな存在となったポール・サン・ブリスは1983年生まれのパリ在住、映像作家、アートディレクターです。他にあまり多くの情報がなく残念なのですが、彼の家族の歴史はそれを補って余りあります。この小説の真の主人公「モナ・リザ」の画家、レオナルド・ダ・ヴィンチはその最晩年をフランスで過ごしました。16世紀前半のフランス王フランソワ1世がアンボワーズにある私邸クロ・リュセ城に彼を招き、画家は「聖アンナと聖母子」、「洗礼者聖ヨハネ」と未完成の「モナ・リザ」を携えてきました。1519年に亡くなるまで「モナ・リザ」に筆を加えていたと言われています。その後クロ・リュセ城は歴史の荒波を潜り抜け、1855年にサン・ブリス家に買い取られた後、1954年から一般にも公開されています。現在はIBMが資金・技術を投じてレオナルドの発明のレプリカを展示、城内のレオナルドの部屋も見学できる「レオナルド・ダ・ヴィンチパーク」となっています。2000年に「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」とともに世界遺産に認定されました。ポール・サン・ブリスはその一家の子としてクロ・リュセ城で生まれ育ったのです。彼の作品にはその影響が見事に結集しています。『モナ・リザのニスを剥ぐ』は2023年1月のフィリップ・レ社からの出版とともにオランジュ文学賞、ムーリス文学賞をはじめ20を超える文学賞を受賞しました。

・本文中の括弧内ページ数は、邦訳書よりの引用箇所を示す。

 一覧に戻る