フランス文学の愉しみ

No 19仮想と本物、どちらがあなたの真実か?

異常アノマリー』 エルヴェ・ル・テリエ作/加藤かおり訳/早川書房

ゴンクール賞史上初のエンターテイメント小説

2020年はコロナ禍始まりの年でした。未曾有のパンデミックは、一般人が想像さえしたこともなかった変化を、生活の全てのレベルにもたらしました。フランス出版業界もご多分にもれず大変な混乱に陥りました。多くの書店の経営が困難になり、政府が救済策をだすことにもなりましたが、それでも大ヒットしたのがこの作品『異常アノマリー』です。まさに“異常”なまでに。

もちろん2020年度のゴンクール賞受賞という快挙もありましたが、11月30日の受賞発表前から大評判になりメディアで取り上げられました。日本でも今年2月の邦訳刊行以来、どんどん人気が上昇しているようです。なぜなら、読んでいて本当に面白いと思わせるからです。それなりの厚さ(邦訳本407ページ)ですが、そして話もかなり込み入り、登場人物も多いのですが、どんどん読めます。その理由のひとつは、この作品の構成がシンプルで、順序だっていることだと思えます。にもかかわらず、何がおこるかがわからない期待を損なうことがありません。そこがすごいのです。

今回は最高の楽しみを読者に失わせない配慮をしつつ、著者自身がinclassable (カテゴリー分類のできない)と呼ぶところの作品のご紹介を試みようと思います。

小説の骨組み

上に述べたように、『異常アノマリー』は一見時系列に3部構成であり、それぞれの章のタイトルに以下のような日付がはいっています。

第一部2021年3月から6月まで (p9~p158)

第二部2021年6月24日から26日まで (p159~p258)

第三部2021年6月27日以降 (p259~p407)

第一部では8人の登場人物が現れますが、そのうち7人は2021年3月にある一機の航空旅客機に同乗していたことが(第二部で)判明します。それ以外にもこれから起きる「異常」な事件に関係する人々について語られます。彼らは性別、年齢、国籍、人種、職業が様々に異なり、各人が別々のエピソードとして描かれます。

最初はプロの殺し屋です。語り口もハードボイルド調で、まるで ”ポラー”(フランスの推理サスペンス小説)でおなじみの文体です。次はまさにル・テリエ自身のそれを思わせる売れない翻訳家兼作家の日常が語られ、さらに2021年4月の彼の行動が語られています。それから、壮年の建築家でずっと年の若い女性に恋をしている男とその女性、突然末期のガンを患っていると告げられた男性、エールフランスのパリ-ニューヨーク便の機長が遭遇する超乱気流と243名の乗員の運命、ペットのカエルを愛する幼い女の子とその家族、病気の妹のために心ならずも悪徳な大手製薬会社の事案を引き受ける敏腕な若い黒人女性弁護士、突然の人気爆発で世界的スターになったマイノリティーのメッセージを歌うナイジェリア出身の人気ポップ歌手、20年前に自ら開発したトップ・シークレットのシステムのために愛の告白の直前に当局に呼び出される確率論研究者等々…これらの多種多彩な登場人物が、それぞれのエピソードにふさわしい文体、ポラー、純文学、詩、恋愛小説、社会派の小説、アメリカの弁護士もの、近未来(SF)小説でおなじみの語り口で描かれていきます。

ただそれぞれのストーリーが入り乱れる中、現在進行中でたんたんと描かれるのは、パリ-ニューヨーク便のコックピット内で繰り広げられる操縦士たちと管制塔の緊迫した、しかも理解不能な謎めいたやり取りであり、読者は知らず知らずのうちにこの小説のメインの事件の核心に導かれていることを感じ始めるでしょう。

これだけの多彩な登場人物を描くことについて、著者自身がその理由を述べています。とにかく様々なジャンルの小説を融合したような作品を、多くの人物を登場させることで実現したかったそうです。

読者にとっては、少し気が散るとはいえ、それぞれが関心をひくテーマを含んでいるエピソードを次々と読むこと、それが謎と謎解きに繋がっていることを感じることで、どうしようもなく先を読みたくなるようです。

そして「異常」な事実が判明します。2021年3月10日にパリを飛び立ち、大乱気流に巻き込まれて遭難しかけた後、ニューヨークに到着したはずのボーイング787、エールフランス006便が、なんと2021年6月24日に同じ時間、同じ航路でアメリカの上空に現れたのです。しかも同じ乗務員、乗客をのせて。ケネディー空港の管制塔はこの常軌を逸した事態に気が付き、他の空港へとこの飛行機を強制的に誘導し着陸させます。当の飛行機の乗務員も乗客もこの異常事態を知るよしもありません。同時に、先の3月の便でニューヨークに到着した乗務員と乗客たちは、それぞれその後の人生を送って過ごしているのです。

第二部では、それぞれのエピソードの最終行で予告される、登場人物たちに起きる共通の展開の続きが語られます。

この第二部では事件の起きた当日からの3日間の出来事が語られています。その内容は、謎の究明と問題への対処法の模索です。この第二部には非常に多くの政府、軍関係者、宗教関係者、しかも実在の登場人物も登場しますが、注目に値するのはいくつのキーワードで示される主題についての議論と、科学的事項の細部(私にはあいにく検証できませんが)の記述です。この第二部を読んだ限りでも、著者の細部に対するこだわり、主題を扱うにあたっての倫理的、哲学的配慮が感じられます。難しそうに聞こえますが、実に軽妙な会話が、ユーモアたっぷりに交わされますので、大丈夫です。そこらへんがとても楽しいのです。少し追いついていくのが難しいところも、登場人物がそう言っていますのでクリアできます。

そして最後の第三部では、この事件の当事者たちにとって、最も難しい問題を扱っています。


これから先は、どうしてもこの作品の核心となる内容にふれることになりますので、先に小説を読んでしまっていない方にはおすすめできないかもしれません。ご注意ください。


それはもはや、なぜこのような事象が起きたかということではなく、3月と6月の飛行機に乗っていた人々、すなわち全く同一の肉体と精神をもつ2人ずつの個人が対面するということです。

これほど衝撃的なことが、本人にとっても、家族にとっても、(そして彼らの環境にいる人々にとっても)あるのでしょうか。ただの他人の空似でも、一卵性双生児の出現でもなく、誕生からその日までの、同じ歴史をもつ二人の同一の個人が、二人とも別々の人生を歩まなければならなくなるということです。みなさんはこのような事態が招く問題というものを想像したことがあるでしょうか。

ひどく突飛な想像とも思えますが、実はこのようなことが起きえるという仮説は、既に現在の科学の進歩の状況ではありえるようです。その予測が、この異常事態の説明の可能性として、第二部で論じられているのです。そしてそのキーワードが、「シミュレーション」です。科学的な説明は本文の方を読まれるとよいと思いますが、ようするに、今現在現実に存在していると思われている世界が、じつは「シミュレーション」なのであって、例えば1000人の同じ人間がいたらそのうち999人は”仮想”の脳であり、一人だけが”本物”ということになりうるというような考え方です。このような科学的説明はもちろん興味深いものですが、この作品の第三部においてはもう重要ではありません。なぜなら、同じ”私”が二人いるのは、事実(仮に仮想であっても)なのであり、”私”にとって人生は一つではなくなってしまうからです。

それでは、もしあなたに子どもがいて、その子どもは一人だけなのに、たまたま二人になってしまったあなたは、どうしますか。あなたは3月まで自分が癌であることを知らなかったのに、6月にはもう一人はすでに死にかけているとしたら。愛する人がいて、その人は一人だけなのに、自分は二人いる。ひょっとしたらあなたは死んでしまっているかもしれない。 たった3ヶ月でも人生は時として大きく変わります。変わらなかったとしても、既に持っていたものを、自分と完全に同じ権利をもつもう一人の”私”とどう分け合えるのだろうか、分け合えばよいのだろうか…

登場人物たちはそれぞれの答えを見つけ出さなければなりません。それほど速く決断がつくものなのかはわかりませんが、第三部は彼らの決断と行動を語っています。

極上のエンターテイメントとして大人気となったこの小説を、ストーリーやスタイルの奇抜さ、語り口のおもしろさにつられてどんどん読み進めてきた読者は、ここに至って、この問題が他人の話ではないのではないかと気づかれるのではないでしょうか。

エルヴェ・ル・テリエと『異常アノマリー』創作の意図

著者エルヴェ・ル・テリエは『異常アノマリー』が2020年8月に出版されて以来、そして同年11月30日の同作のゴンクール賞受賞の後さらに、多くのインタビューに答えてきました。読者側の最も関心が集中するのは、当然「どうしてこの作品を思いついたのか」ということです。

彼の答えはまず、最初に二つの目的があった。すなわち、作品の”主題”、そしてそれを扱うための小説の”形”です。

作品の”主題”(キーワード)として、まず、「シミュレーション」、別の言葉で言えば「複製(コピー)」がありました。それは人間や、物体だけでなく、この私たちの生きる世界そのものにおよぶものなのですが、単純に言えば、「私が二人いたらどうするか」ということです。そのために、作者は作品の舞台を発表時(2020年)の直近の未来として2021年、一年後に想定しました。今まさに起こり得ることという条件です。そうすると、私たちが考えなければならないのは「今、何が本当に、何よりも重要なことなのか」であり、「自分の愛する人たちのために、自分をどれだけ犠牲にできるか」、「どうしたら、もう一人の自分よりもより本当の自分でいられるのか」を自問せざるを得なくなるということです。

そこで、その問題を扱う小説を創作するという”形”、方法論になります。上記にも記したように、彼は大勢の登場人物を用意します。それは、多くの個別の運命を想定することであり、それだけ多くの省察が必要になります。それぞれの登場人物がどのようにこの事態に対処するか、自分だったらどうするかということを考えなければなりません。この主題を思いついた時、作者自身も答えをもっていなかった、そして作家として彼は読者にこの問題を提案し、考えて欲しかったと言っています。

ではそのために、作者がこの「分類できない」小説作品、「異常」な事態を想定したのはどのような文学的意図があったのでしょうか。

ここで、エルヴェ・ル・テリエという作家についてお話をしましょう。

作家 エルヴェ・ル・テリエ

エルヴェ・ル・テリエは、大学では数学を学び、パリ・ジャーナリスト養成学校卒業、言語学博士号という資格を持っています。1991年に第一作を発表して以来、非常に多くの作品、特に 「制約のある文学」を数多く手がけています。レイモン・クノーを創始者とする「ウリポULIPO運動」の実践であるこの文学は、執筆に際して様々な制約(例=アルファベット中にある特定の文字を使用しない)を課し、潜在的な文学を発明、創造するという志に基いていますが、その形にはほとんど前提とする拘束はありません。簡単に言えば、実験的作品を創作することです。また別の特徴として、ウリポの作品にはいつもユーモアとある種の軽さがあります。というのは、この実験がゲームともみなされているからでしょう。エルヴェ・ル・テリエは1992年にこのグループのメンバーに選ばれ、その後も活動を実践し、2019年に第4代代表に就任しています。

そして今回も、主題を扱うにあたってどのように小説世界を構築するかが、彼にとっての一つの試みの機会であったのです。複数の文学ジャンルのスタイルを持った作品、しかもそのストーリーに、”三つ編み”よりももっと複雑なミサンガのように絡み合っている構造をもたせたと言っています。一方でこの作品には文体だけでなく、実に様々な他の作品への目配せが見られます。設定については、文学ではありませんが、多くの読者が1990年代の大ヒット映画シリーズ『マトリックス』を思い出すでしょう。また『異常アノマリー』の前年に発表され、このコラムでも取り上げたマルク・デュガンの近未来小説『透明性』とは多くの共通点が見受けられます。さらに、作品中でデカルトの『方法序説』の命題をとりあげ、「〈われ思う、ゆえにわれあり〉は時代遅れで、むしろ〈われ思う、ゆえにわれはほぼ確実にプログラムなり〉」とパロディにしています(しかし厳密な意味ではどれも同じ設定ではありません)。これらはごく一部の例であり、国、時代を問わない多くの作品に対する目配せ、いわば「シミュレーション」が作品にちりばめられていて、作者の博学ぶりに圧倒されます。多くの登場人物によって描かれる世界は、バルザックの人間喜劇を思わせます。*

しかしながら、彼が秘密におこなった全ての文学的試みは、作者にとっての実験、「ゲーム」なのであり、読者はその解明をする必要もなく、楽しくスイスイと最後まで読めるように配慮していると明言もしています。だからこそ、そこにエルヴェ・ル・テリエの語り手としての熟練と才能、博学が証明されています。彼自身が言っています。作品は作者が思ったとおりの本になるのではなく、読者が読んだその本を読者が良いかどうかを判断するのです、と。**

終わりに

面白さにつられて、あまり深く考えることもなく一気読みをした私が、読後に我に返って気が付いたことは、作者自身はインタビューで口にはしていなかったことです。でも、恐らく作者が意識していたことと思います。

それは、この作品の背後には、フランスの文学史において最も重要なトポス(命題)がひそんでいるということです。エンターテインメントでたっぷり読者を楽しませた作者の巧みさは、うっかりするとこの点を見逃させたかもしれません。

そのトポスとは、17世紀のフランスの思想家パスカルの『パンセ』にある「気晴らしについて」です。人が営む活動は全て、「気晴らし(divertissement仏語=entertainement英語)」でしかない。それは、みずからが死すべき存在であることを直視できない人間がその自分という存在の根本的な意味を自問することを避けるためだけの行為でしかないということです。『異常アノマリー』というエンターテイメントに夢中になった読者は、問題の解決に伴う科学、倫理、哲学的側面の考察に導かれた後に、実は本質的な問題に対峙せざるを得なくなるというシェマ(図式)がそこに見えてくるのです。そして、この二人の自己の対立の問題は、己の敵は己であるというメランコリーの状態、すなわち人間の究極の問題に直面することの難しさとその答えの希求を示しているかのようです。それこそが、仮想の脳でも人間の尊厳として残される唯一の営みであるかのように。かなり悲観的な様相を帯びがちな最終章ですが、それが救われるのは、ウリポの特徴でもあるユーモアと軽さがあるからなのです。

この点に気づいた時に、私はエルヴェ・ル・テリエの『異常アノマリー』という新しい実験的な作品は、必ずしも未来に向かう人間の知性の在り方や生き方を模索することが目的なのではなく、むしろ、今の人間に人間本来の根本的な問題を現代においても問いただしていくことを可能にする文学なのではないかと思いました。

読者のみなさんのご感想を知りたいと思います。

それにしても、精神はともかく、同じ魂が二つあるということは、ありうるのでしょうか。


この『フランス文学の愉しみ』の第一回をご拝読いただけていない読者の方へのメッセージです。実はエルヴェ・ル・テリエが4代目代表を務める文学運動グループ、ウリポの創始者レイモン・クノーの「はまむぎ」が1933年度のゴンクール賞の受賞を逃したために、パリ・ドゥマゴ賞が急遽創設され、クノーがその第一回受賞者となった経緯があります。その87年後に、ル・テリエがゴンクール賞を見事に射止めたことは、まさに感慨の深い快挙です。詳しくはエッセイ第一回をご高覧ください。

https://www.bunkamura.co.jp/bungaku/essays/tanoshimi/book1.html

フランスの豊かな文学作品を日本の皆様にお届けするためにアンスティチュ・フラセ日本が2008年にスタートさせたフランス語文学とバンド・デシネの祭典『読書の秋』。15回目となる本年『読書の秋2022』は、10月20日から11月23日までの一ヶ月間、日本全国でさまざまなイベントが開催されます。
プログラムは以下のリンクからご覧いただけます。是非お越しください。

https://www.institutfrancais.jp/blog/2022/10/09/fa2022/

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