フランス文学の愉しみ

No 17「普通でない」のは狂気なのか?「他の人と同じ」なのが幸せなのか?

『狂女たちの舞踏会』 ヴィクトリア・マス作/永田千奈訳/早川書房

19世紀末のパリに生きる最もマージナルな女性たちの姿を描く絵巻

最近私の職場で女性の問題に関わるフランスの著作をまとめたパンフレット*を作成しました。私も作品について候補作の提案を求められたのですが、考えてみると、実際、ほとんどの文学作品は多かれ少なかれ女性(だけではありませんが)の社会における存在としての問題を描きだしていることを実感しました。主人公が女性であればなおさらです。文学作品の真髄はそこにあるとも言えます。そして、今回取り上げる作品、『狂女たちの舞踏会』ももちろん例外ではありません。
とはいえ、私がこの作品に注目したのは、多分多くの読者と同じように、少し詩的なタイトルと、それが想像させる内容に惹かれたと言っていいでしょう。(ではなぜこのタイトルになったのかということを後で考えることにします。)

一言でいうと、非常に読みやすく、一気に読了してしまう面白さをもった作品です。扱われている主題(超自然的能力)などにこだわりがなければ、誰でもストーリーを楽しみながら先を知りたいとページをめくるでしょう。その内容を細かく紹介すると未読の方には残念ですので、今回は少し作品の形と周辺について、知っているとより興味をもてるような情報を作者ヴィクトリア・マスの証言などを交えてご紹介します。

物語の舞台は1885年2月から3月のパリです。健康で、裕福なブルジョワ家庭の一人娘、ウージェニーは活発で機知にあふれたうら若い女性ですが、人知れず悩みを抱えていました。彼女には実は亡くなった人が見えて、話もできるという秘密があるのです。このような能力は、当時の社会では決して受け入れられることではないので、彼女は異常者扱いをされることを恐れていました。しかし、思いがけないことから、彼女は家族の手でサルペトリエール病院に突然追いやられ、社会と断絶されて人間の尊厳に反する不当な扱いをされている女性たちの現実を知り、自らも彼女たちと同じ境遇に陥ります。物語は彼女と病院に生きる人々との交わりと彼女たちの人生の行方を語るものです。

小説の場

『狂女たちの舞踏会』の舞台は、非常に短い“時”と特定の“場所”、すなわち1885年3月の、パリ13区にあるサルペトリエール病院です。現在も総合病院として活躍していますが、最初の建造が17世紀に遡るこの療養所/病院の歴史的な建物は、実に壮大で、美しい姿を保っています。作者マスはまさにこの場所を初めて訪れた時に小説創作のインスピレーションを得たと言っています。華やかというよりは、重苦しさや何か不安にさせるような雰囲気が印象的であったそうです。実際、そこにはフランス革命前夜には一万人の患者と300人の囚人(そのほとんどが逮捕された元街娼たち)が収容されていましたが、医学的な治療は行われていませんでした。大革命時には収容者の一部が虐殺される悲劇があり、19世紀初頭になって精神科の研究が医師ピネルらによって進められました。作者がそこを訪れたのは、19世紀の終わりに、当時の精神科医長であったシャルコー医師が年に一度入院している「ヒステリー」患者の女性たち(当時は女性専門の病院でした)、すなわち「狂女」たちの舞踏会を、パリの名士やブルジョワ層の一般人を招いて行っていたことを知ったからです。マスは偶然であったように言いますが、小説の題材を探していた時期だったので、何かを求めて行ったのでしょう。この非常に特殊な場所において、物語はほとんどひと月にも満たない期間に始まり終わります。
サルペトリエール病院を背景とすることに決めたあと、作者はタイプ別の登場人物のギャラリーを決定しました。

登場人物

物語の当時、病院に収容されていたのは、元街娼であったり、なんらかの疾患を持って普通ではないという診断を受けた女性、さらには家族から不都合な存在として厄介払いをされた、時には主人公のように正常な女性たちです。おびただしい人数ですが、医者や看護婦、その他の職員も含めてほとんど個人としては登場せず、主要な人物はごくわずかです。さらに、彼女たちの家族が数名加わります。
主人公ウージェニーは公証人の父を持ち裕福な家柄もよい家庭に育った19歳。両親、テオフィルという兄ひとりと祖母とともに暮らしていました。教養も高く知性的な女性です。父は厳格で、母はその陰の存在であり、優しい祖母に慈しまれていますが、兄とはあまり近くはありません。彼女は小説の冒頭で、亡霊が見えると言ったことから、実の父と兄に騙されてサルペトリエール病院に強制的に入院させられてしまいます。
もうひとりの主人公はジュヌヴィエーヴ。いわば看護婦長で、収容者たちと看護婦をとりしまり、シャルコー医師を尊敬し、絶対服従です。とても冷静で理知的な人物です。常に科学的な発想を心掛けていながら患者の心配もする、主人公や患者と医者の間に立つ存在として、この小説では、ストーリーが彼女の視線で語られる部分が多いのです。
そして、患者のルイーズ。まだ非常に若く、貧しい境遇で養父から性的虐待をうけ、癲癇の発作にしばしば襲われ、ほとんど個性を感じさせない弱い女性です。
そのほかに、テレーズという年配の元街娼が、人生に対する諦観と深い哀愁を感じさせます。
医者としては、精神医学史においてヒステリー研究で有名なシャルコー医師、アシスタントのジョセフ・ババンスキー(実在の人物)。科学者として熱心に患者に接しますが、患者に共感をもつことはありません。(彼らが目指す医学とはなんのためにあるのでしょうか。)

困難な状況に生きる女性の登場人物たちの心理が詳細に描かれています。裕福で幸せに育ったウージェニーは、それでも男性の付属的な存在のように扱われ、自分の意志が尊重されない不自由さに悩んでいます。そして、病院に家族によって強制的に収容されると、自分とは比べ物にならないような悲惨な人生を送っている女性たちの姿を知ります。その彼女よりもさらに複雑な心理的ショックと価値観の転覆を生きるのはジュヌヴィエーヴです。ふたりの女性主人公の描写は、その外見も心理も非常に丁寧で、納得のできるものです。ルイーズという患者については、病院にいる全ての患者たちの不幸を体現するような人物像となっています。それぞれの女性が、他の副次的な人物も含めて、当時の女性の運命を物語るようです。名前さえも与えられていないウージェニーの祖母や看護婦の姿も、ひとつの典型的な例として理解することができます。(そして主人公の母親が全く言及されていないことも興味をひきます。)

背景のコンテクスト

物語全体の展開において、入院患者たちの細かい描写によってこの病院にいるさまざまな困難な環境から集まってきている女性が描かれ、一方でブルジョワといわれる社会の描写もパリの景色とともにちりばめられています。彼らは一見別々の世界にいるようで、その実同じ社会の表と裏でもあるのです。格差の上に作りあげられた社会階層とその秩序の問題(邪魔なものはマージナルとして切り捨てる)、男性と女性の尊厳の不平等(女という性は男という性よりも劣っているという前提)、産業革命時の科学信奉の中での宗教的価値観の絶対性の問題、医学(科学)への貢献と人間の尊厳の尊重の(非)両立性、その全てが矛盾をはらみながら社会に共存している現状に人々は行き詰っている様相を示しています。当時の人々は、トラウマを抱えながら生きることの困難さからか、スピリティスム(交霊術)という全く別の世界観を見出そうとしたこともあるようです。**まさに世紀末と呼ばれる状況が小説の背景を彩っています。作者ヴィクトリア・マスは、このような作品の構造を、ひとつひとつのシーンの展開や、語られるストーリーの視点の変化によって、だれることのないテンポをもって登場人物たちにある日付まで一気に語らせています。その日付こそが、タイトルにある『狂女たちの舞踏会』の日、1885年3月18日です。つまりこの物語の大団円です。

この作品を読了した後、読者はどのような感想を持つのでしょうか。フランスでは、『狂女たちの舞踏会』は2019年に発表されるとただちに注目を集め、3つの文学賞を受賞し、同年11月には「高校生が選ぶルノードー文学賞」を受賞しました。すなわち青少年に大きな支持を得たのであり、納得ができる理由も自明と思います。一方で私の個人的な感想はというと、もちろん楽しめる、多くを語る作品であると思うのですが、少しはずれた疑問として心に浮かんだのは、登場人物たちにとっての幸せとは何であったのかということです。ウージェニー以外の患者たちには完全に人間としての権利と尊厳を享受する、勝ち取ることは思いもつかなかったのではないでしょうか。それは非現実的であるとともに、理解をこえるものでもあったでしょう。ですから、この問題は物語の最後を待つまでもなく、最初から訴えられていることであると思います。そして、男性、女性、身分の違いもなく平等に語りかけようとする霊たちに象徴されているとも思います。

最後に作者ヴィクトリア・マスのご紹介をします。パリ近郊のシェスネー出身の1987年生まれ。パリ大学ソルボンヌ校で文学の勉強をした後、映像関係の仕事に従事しました。2019年に小説第一作『狂女たちの舞踏会』を発表し、同年にプルミエール・プリュム、スタニスラス、BPEといった文学賞、そして上述した「高校生が選ぶルノードー文学賞」を受賞しました。受賞時に30歳を超えたばかりであった彼女については、まだ多くの情報はありませんが、当時に多くのインタビューを受けた際に何度も語っていることは、この作品には映画の仕事に従事した経験が生かされているということです。作品のプロットの構成や登場人物の設定、資料調査から執筆の順序等ですが、それを意識して作品を読み直すと、映像的な効果に適した描写が多く見受けられます。実はもともと作家になろうと思って、以前にもいくつもの原稿(未発表)を書いたらしいのですが、それは現在の小説の傾向である自伝的要素の濃い一人称小説ばかりで、全くうまくいかなかったと言います。そこで、ある時、「私」で自分を語らず、三人称で他者について語ることにし、それが今回の作品となったのです。資料調査から始めて9ヵ月で書き上げました。ですからこの作品は、実在の医師たちが現れても全く「フィクション」であると明言します。また、あるインタビューにおいて興味深い発言をしています。精神医学史においては偉人である医師シャルコーについて、小説中の描写は良いイメージを与えないので文句を言ってくる人もいたらしいのですが、彼女によるとそのような意図はなかったのです。事実はタイトルにある実際に行われていた一般人を招いた年に一度の舞踏会において、またその準備の期間、患者たちは一所懸命、心をこめて衣装を自ら準備し、夜会では心をずっと穏やかにして過ごしていたのであり、作品中でもそのように描かれています。

「患者たちが二列に並んでホールに入ってきた。人々はやせて、ゆがんだ、見るからに異常な姿を思い描いていたが、女性患者たちはみな落ち着き、「ふつう」に見えた。もっと悪趣味で、派手派手しい恰好をしているかと思っていたが、舞台女優のように堂々としている。それぞれが乳しぼり女や、侯爵夫人、農婦、ピエロ、銃士、コロンビーヌ、騎士、手品師、トゥルバドール、船乗り、王妃などに扮している。病院中の患者たちが一堂に会している。ヒステリー患者もてんかん患者もおり、年齢も様々だ。彼女たちは魅力にあふれていた。[…]だが、患者たちは驚くほど優美だった。」 (本書引用207p-208p)

一般人と患者が同じ場所で触れ合うことによる治療的効果をシャルコーが意図して行事を開催したとも指摘しています。つまり見世物にするということではなく、医学的考察によるものであるということです。とはいえ、結果的には見世物として世間には受け取られ、自らの研究をアピールするシャルコーのパフォーマンスであったことも事実でしょう。 いずれにせよ、作者にとって「狂女たちの舞踏会」は当時の社会状況を象徴するような寓意的なものであるとともに、人々の本当の姿を描いているシーンなのではないでしょうか。

ほぼ完全なフィクションでありながら、物語の設定の時代の絵巻に、現代を生きる読者の心の現実にせまるものをファンタジーの要素を交えて映しこむ手法を巧みに成功させたヴィクトリア・マスの作品は、フランスではただちに映画化されました。***

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