フランス文学の愉しみ

No 1010歳の少女のただ一つの望みは弟の笑顔

『本当の人生』
アドリーヌ・デュドネ著/藤田真利子訳/東京創元社

すべての読者のための、現代のおとぎ話

前回の『三つ編み』は著者レティシア・コロンバニの処女小説でありながら、2017年に数多くの文学賞を受賞しました。今回ご紹介する『本当の人生』も、著者アドリーヌ・デュドネの処女小説であり、2018年にフナック小説大賞と高校生によるルノードー賞をはじめ多くの文学賞に輝きました。このように、女性の新しい作家の活躍が目覚ましい作今ですが、今回は近年絶大に若い世代の支持を受けた作品をご紹介する機会に恵まれました。

この小説は10歳の少女とその家族-父、母、弟という核家族-がストーリーの中心にある、あまり登場人物の多くないシンプルな構成の作品です。比較的短く、(三つのストーリーが同時進行する『三つ編み』と違って)ひとつだけの物語が一直線に、主人公の10歳から15歳までの人生を語っていきます。

まず物語の冒頭の数行が、この小説の世界観を現しています。
「家には部屋が三つあった。わたしの部屋、弟のジルの部屋、両親の部屋、そして死体の部屋だ。」この最後の部屋は、実は狩猟家の父が獲物を剥製にして保存している部屋で、「父はわたしたちが死体の部屋に入るのを禁じていた」と説明されます。お分かりのように、この書きだしは死体の部屋が『青髭』の部屋であることを思い起こさせ、この作品が子どもの成長を語る一種の「おとぎ話」であることを暗示しています。そして、おとぎ話がそうであるように、本当に一気に読ませる作品です。作品の世界に足を一歩踏み込むとほとんどの人があっと言う間に読み終えるでしょう。

先にストーリーを手短にご紹介します。
主人公の「わたし」は6歳の幼い弟を”母”のように愛していますが、父は狩猟とテレビとウイスキーにしか興味がない粗野な男で、実の母はその父にほとんど隷属している、父への恐れで満たされた、一言でいえば「アメーバ」のような存在です。すなわち両親の子どもに対する愛情がこの家庭には欠落しているのです。
その夏、いつものように子どもたちが待っていたアイスクリーム売りの車が回ってくると、「わたし」が注文をし、その直後にアイスクリーム売りのおじさんに起きた悲劇が、この姉弟の運命に決定的な一撃を与えます。それ以降、事故を目前で見た弟はトラウマのために感情を失くしたようになり、死体の部屋に引きこもるようになるのです。姉は責任を感じ、弟がかつてのような微笑を取り戻すためには何でもすることを誓います。そして、「わたし」が物理学についての類まれな才能を持っていることがわかると、優秀な量子物理学者のもとへ個人授業を秘密で受けるために通うことになり、あの事件が起きた時まで戻って悲劇が起きることを妨げるために、タイムマシーンを発明することに熱中します。一方で、かつて「わたし」がかわいがっていた弟は、あの夏の事件の後、小動物のシリアルキラーになり、近所の小動物だけでなく、母が溺愛するヤギまで殺し、父に射撃練習に連れて行かれるようになります。深く失望する姉はそれでも、偶然から出会った「羽」と「チャンピオン」と呼ばれる赤ん坊のいる若い夫婦、また授業に通った物理学者と謎めいたその妻たちとの関係を通して、自分の家庭だけでは知ることができなかったことも、成長の過程として経験します。ただ、変わらないのは「わたし」の家庭であり、ある日娘の成長を厭う父が、他の狩猟ファンの親子たちとの恐ろしいゲームに、姉と弟を連れだすのです…極限状態に追い込まれた主人公とその母と弟が迎えるストーリーの終末は、常軌を逸したものです。読者はいたたまれない気持ちになっても当然なのですが、なぜか最後のページでは爽快感や安堵感さえ覚えます。そこにいたるまでの恐怖に彩られたサスペンスを突き抜けた、そこはかとない平穏1と、「人生の第二部」、そしてなによりも弟の微笑みを取り戻す希望が語られているからでしょうか。

おとぎ話というのは、普遍性にもとづいた人間の現実の姿が、ファンタジーの形式で語られているものです。ですから、しばしば登場人物に名前がついていなかったり、あだ名だけで呼ばれたりもします。この作品でも主人公の具体的な描写はなく(対して、家族のそれは具体的です)名前もなく、読者は自然と主人公への自己投影に導かれます。また子どものたちが日常の中で抱く夢や恐れもさまざまな小道具(剥製、動物、壊れた車、量子力学、森、お面をつけた顔のない女性、優しい王子様、だぼだぼなセーター2等々)とともに繰り広げられます。きっと主人公のように、両親が実は自分を破壊してしまう存在なのではないかと思うことは、誰にでもあることではないでしょうか。自分を守ってくれていない(と思える)親は、自分を愛していないのではないかとも。まさにこのような主人公の心理に、子どもの、そして思春期の子どもたちが持つ不安が描かれています。しかし、この恐れは単に象徴的なものだけなのではありません。そこにこの小説の非常に今日的な主題が表れています。それは子どもたちの家庭における受難です。主人公の少女の父親は、まさしく虐待と言うしかない態度で、子どもと妻に接します。彼は自分の支配力を確かめるかのように妻と子どもを脅し、特に妻と娘には女性であることが劣った存在であるかのような発言と暴力を繰り返します。母と「わたし」は父の獲物であり、父は獲物を捕らえる方。実際、現在の社会においても、弱いとみなされるものが獲物となり、強い者は獲物を追う立場になることが、当たりまえという発想は未だに根強く残っています。時代遅れのようでも、このような偏見から起こる悲劇は無くなるには程遠いのが現状でしょう。子どもが、問題のある両親の家庭で虐待をうけることも現代社会の大きな問題として取り上げられています。そして、このような局面は、前回の『三つ編み』にも見られたように、この小説の扱う最も大きな問題でもあるのです。「わたし」はではどのようにこの問題にたちむかっているのでしょうか。

鍵となるのは、この主人公「わたし」の子どもらしい純心さと、すばらしい知性と、自分の運命に対する«自由»を求める意志とエネルギーでしょう。彼女は愛する人々との絆も絶対にあきらめようとはしません。どんな恐れも乗り越え3、自分の「人生の第二部」、恐らく『本当の人生』を手に入れることを成し遂げたのです。(もちろん、おとぎ話と同じで、その後彼女の人生がどうなったのかは分かりません。その後はまた別の物語です。)とにかくこのようなエネルギーを持っているのは、誰なのか。全ての子どもにあるものなのかは分からなくても、どの子もそのようなエネルギーを持ちたいと思わなかったでしょうか。だからこそ、昔子どもだった読者も、この作品を読んで、思い出すことや、思い巡らすことが多くあると思われるのです。

この作品の著者アデリーヌ・デュドネは、1982年生まれのフランス語を母国語とするブリュッセル在住のベルギー人です。この作品の前に2017年と2018年に中篇小説3作を発表しています。演劇を学びながらも役者にならず、子どもができて、映画の制作アシスタントなどをしていたそうです。その後2018年に自作の戯曲Bonobo Moussakaを書いて、自演(一人芝居)しています。『本当の人生』は2018年の発表とともに、多くの文学賞にノミネートされ、受賞しました。本人の証言では、30歳を過ぎたときに、テロなどが原因で我が子の未来が不安になりそのパニックに悩まされたあと、執筆と演じることで自分を癒すことができたそうです。ひょっとすると、10歳の「わたし」は、アデリーヌ・デュドネが自分を勇気づけるために、愛する子どもたち(小説が捧げられています)のために、自分の中に見つけたアルター・エゴだったのかもしれませんね。

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