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展覧会紹介
コラム
ジョン・エヴァレット・ミレイ展
  展示会紹介
ロンドンの不満分子
 

 
イギリスは伝統を重んずる保守的な国というイメージがある反面、ときとして斬新なアイデアをもった若者を輩出する。史上最年少の11歳でロイヤル・アカデミー(王立美術学校)に入学するなど、幼くして天才の誉れが高かったジョン・エヴァレット・ミレイ(1829−1896年)の場合がそうであった。1848年、19歳のとき、硬直したイギリス画壇に反旗を翻すべく、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント等六人の若い仲間たちと共に「ラファエル前派兄弟団」という結社を立ち上げるのである。彼らはルネサンスの巨匠ラファエロを美の規範とするアカデミーに反発し、ルネサンス以前の画家たちの純真な制作態度に立ち返ろうという運動を起こした。それはまた、イギリス美術に、実り多き新時代を出現させることともなったのである。
 
オフィーリアよ、永遠に…
 
 

 
なかでも《オフィーリア》(1851−52年)は、ミレイの名声を確固たるものとした記念碑的な作品である。オフィーリアとはシェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場する悲劇のヒロインの名前。恋人ハムレットに父親を殺されて正気を失い、小川で溺死する死の劇的な瞬間を、ミレイは緻密な細部描写と絢爛な色彩のうちに鋭く捉え、絵画作品として彼女を永遠のものとしたのである。モデルはラファエル前派の画家仲間ロセティの恋人エリザベス・シダル。ミレイは彼女に浴槽で何時間もこのポーズをとらせて作品を完成させたのだが、彼女はこのために風邪を引き、訴訟沙汰になったといわれている。
 この作品はまた、イギリスの美しい田園の描写としても興味深い。背景となっている自然はサリー州ホッグスミル川沿いで写生されたもので、ノバラなど自生する様々な植物が豪華なステージを作り出し、ドラマチックな死を演出している。そしてそれはまた、園芸好きのイギリス人気質を髣髴とさせる。
 なお、英国留学中の夏目漱石はこの作品の現物を見ている。その体験が文豪にインスピレーションを与え、後に小説『草枕』が生み出されたのである。
 
醜い聖母
  若い画家の大胆な試みは、理解されないこともあった。ミレイによる初の本格的宗教画である《両親の家のキリスト》(1849-50年)の場合がそうだった。描かれているのは大工である父ヨセフの仕事場で、幼いイエスが手に釘を刺してしまう場面(これはのちの磔刑を予兆している)。そもそも宗教画という主題を選ぶこと自体に、「ラファエル前派」の復古主義的な姿勢が表れているのだが、聖なる人物の姿においても追求されたリアリティは生々しく、作品の発表時に酷評されることとなった。なかでも、予兆に苦悶する憔悴しきった聖母マリアの表情は、その心模様が虚飾なく素直に表現されたものだが、「醜い」として大きな議論を生んだのである。
 しかしここには、圧倒的なスケールと徹底的なリアリズムにより大胆かつ繊細に描き出すミレイの抜きん出た手腕が、極めてよく発揮されており、ミレイの傑作のひとつに数えられている。
 
新たな美の探究
 
 

 
ラファエル前派の美学が次第に人々に受け入れられるようになった1850年代半ばになって、ミレイの芸術は劇的な転換期を迎える。主題を文学作品などに求めることから離れ、また特に風景描写に見られた明快で緻密な表現を退けるようになったのである。それは絵画の主題としては難解な場合もあるが、作品それ自体として完結しているような、自立性のあるものを追究するもので、のちにホイッスラー等がイギリスで展開する「芸術のための芸術」の到来を予告するものでもあった。ミレイの研究では「唯美主義」という言葉が使われる。
  例えば、1868年描いた《姉妹》。自らの三人の娘を描いたこの作品は、のちにパリ万博に出品され高い評価を得る作品だが、娘がモデルになっているという主題的な見地からよりも、特定の場所を思わせない設定における統一された色彩と調和の取れた構図に、ミレイの高い美意識が実現されている。また美しい夕暮れの中に尼僧を描いた名作《安息の谷間》(1858年)にも、同様の美学が息づいている。
 
古の巨匠を意識して
 
 

 
1870年代、画家としての地位を確立していく中で、画面は大きくなり、勢いはあるが荒削りな筆致が多く見られる点は、初期の自らの様式に対する反動という面もあった。しかしそれはむしろ、ティツィアーノ、ベラスケス、レンブラント等に代表される過去の大画家が築き上げた伝統に、自らを重ね合わせていたことを物語っている。
 その中でミレイは、物語性を感じさせる主題をもつ作品においても、観る者がそれをある程度自由に解釈できるような作品を生み出していった。例えば、横幅2メートル以上にも及ぶ大作《北西航路》(1874年)の場合、船舶内の情景という、一見個人的な主題を描いたようにも見える。しかし、ここには危険な北西航路の開拓という国家的な大きな主題が隠されており、その物語を知っているイギリス人には、奥深く重い主題として映るのであるが、そのような構図こそ極めてイギリス的であり、ミレイ的といえるかもしれない。
 
イギリス社会を写す肖像
 
 

 
画家としての名声が上がるにつれ肖像画の注文が増え、1870年代以降はイギリスの政治家や詩人、小説家、実業家、また貴族といった上流階級の名士の肖像画を数多く手がけており、重要な収入源でもあった。ここでもミレイは天賦の才能を発揮し、ヴァン・ダイクの名作に匹敵する肖像画の名作を描いている。
 一方、ファンシー・ピクチャーと呼ばれる風俗画の一種も、ミレイの得意とするところだった。これは愛らしい子供や若い女性を、ときに花や小鳥などを伴わせて情緒的に、甘美に描いたもの。もともと18世紀後半に流行したものだが、ミレイは父親になったのをきっかけにこの分野に再び光を当て、8人いた自らの子供をモデルに多くのファンシー・ピクチャーを制作した。これはある意味では、「芸術のための芸術」という美意識の庶民バージョンという面もあり、多くの人に支持され需要があったという点では、そのようなイメージを求めた当時のイギリス社会の反映であるといっていいだろう。
   
  ミレイは他に多くの風景画も描き、生涯を通じてその画才を発揮した。またイギリス本国だけでなく、汎ヨーロッパ的に名声を博した画家でもあり、ゴッホからも賞賛されていた。もっとも、日本では《オフィーリア》に代表されるラファエル前派の画家としての部分だけが強調されて紹介されている。たしかに晩年は、イギリス美術家の重鎮として、新しいものを生み出す側にはいなかったものの、そのゆるぎない才能は衰えることなく、多くの名作を世に送り出したのである。
 本展はロンドン、アムステルダムに続いて会される国際巡回展であり、日本で初めて開催される本格的なミレイ展として、この天才画家の画業の全体像を知る絶好の機会となることだろう。
 
Bunkamuraザ・ミュージアム学芸員 宮澤政男


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