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国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展 | Bunkamuraザ・ミュージアム | 2012年8月4日(土)-10月8日(月・祝)

代表的な作品の紹介

《休息―妻ヴェーラ・レーピナの肖像》

レーピンの妻ヴェーラ・レーピナ(1855-1917)は、彼が美術アカデミーの学生であったときの下宿先の建築家アレクセイ・シェフツォーワの娘で、ふたりは1872年に結婚し、一男三女を授かった。
この作品は肘掛椅子でまどろむ妻を正面から描いているが、素早い鉛筆線で写生された習作(本展出品作)と比べると、正面性が強められ衣装が華やかになっている。私的な作品というよりも、展覧会用の作品としての描かれた可能性が高い。喪章であろうか、ヴェーラの右腕には黒いリボンが巻かれ、それは習作にも確認できる。

《皇女ソフィヤ》

ソフィヤは1682年に同母弟フョードル3世の崩御にともない、幼くして即位した同母弟イワン5世とその共同統治者の異母弟ピョートル(後のピョートル1世)の摂政になったが、数年後ピョートルはソフィヤを修道院に幽閉する。作品名とは異なり史実では9年後の1698年、銃兵隊がソフィヤを擁して暴動を起こしたが鎮圧され、反乱者は厳しく処刑され、彼女の僧坊の窓にはその遺体が吊るされた。作品にはそれに激怒する様子が描かれている。翌月ソフィヤは剃髪出家させられて修道尼となり、6年後に他界した。
この作品に着手するにあたって、レーピンはモスクワのクレムリン武器庫に保管されていた歴史資料を調査し、史跡を訪れ、祖国の歴史をリアリズムで描くことを試みた。彼がこの主題を選択した背景には、トルコから南スラヴを解放することを目的とした露土戦争(1877-78)によるナショナリズムの高揚があり、《皇女ソフィヤ》はピョートル1世以来の西欧化に対する反抗の象徴であった。

愛情あふれる肖像画

この作品は発表と同時に美術界の論争の的となった。同時代の人々にとって、主人公の運命は、数年前に起きた人民主義者ナロードニキによる皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件を思い起こさせるものだった。作品の右側に棺に横たわる皇帝の写真を置き、流刑囚の背後には、受難者としての彼の人生を象徴するキリストの磔刑を描いた作品の複製版画、そしてナロードニキ運動の精神的な支えであった詩人の肖像を掲げている。そしてこの一風変わった作品のタイトルは、主人公の帰還がいかに不意を突くものであったかを強調している。
絵に描かれているのは誰か、どんな気持ちで家に入ってきたのか、描かれている他の人物は彼にとって誰にあたるのか。ここで重要なのは、男の姿が漂わせる、生家に帰ってきた人間の居心地の悪さである。「思いがけずに早く帰ってきた」者の姿を描くことで、レーピンは人間の存在の正当性と、ある人生の意味についての問題を提起しているのである。

《作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像》

レーピンがムソルグスキーを知ったのは、美術アカデミーの給費生として西ヨーロッパに出発する前、1870年代初めである。レーピンはその頃からこの作曲家の肖像画を描くことを考えていたが、実現したのは1881年のことであった。ぼさぼさの髪、くしゃくしゃの鬚、目の周りの隈、アルコール依存症をうかがわせる容貌など、レーピンの描写には僅かな潤色も無い。
 この肖像画は入院先の病室で描かれたが、ムソルグスキーはその約10日後に亡くなった。ムソルグスキーが亡くなったことを知ったレーピンは、肖像画に対してトレチャコフから受け取った400ルーブルを、美術界・音楽界のオピニオンリーダーであった批評家スターソフに託し、ムソルグスキーの葬儀などに当てるように提案した。

国立トレチャコフ美術館の紹介

国立トレチャコフ美術館は、紡績工業で財を成したパーヴェル・トレチャコフ(1832-98)によって創設された美術館である。
1874年、トレチャコフは自宅の隣に画廊を設立、コレクションを一般公開し人気を博した。トレチャコフはロシア美術を代表するようなコレクションを築くことを目指し、彼の個人的な趣味ではなく、その時代を反映している作品を購入した。また、レーピンを含む多くの画家に絵の制作を依頼するなど、同時代の芸術家を支援している。同じく美術収集家であった弟セルゲイが1882年に亡くなると、そのコレクションを合わせてモスクワ市に寄贈することを決意、その後このコレクションが1893年にパーヴェルとセルゲイ・トレチャコフ・モスクワ市立美術館として正式に再公開されたのである。パーヴェル・トレチャコフは、1898年になくなるまで美術館の監督官を務めることになる。

20世紀初頭には、古代ロシア建築様式の美しいファサードが画家ワスネツォフによって設計され、トレチャコフの邸宅を含む美術館の建物が建て替えられた。
また、ロシア革命後の1918年に国立トレチャコフ美術館と改名。海外作品はプーシキン美術館とエルミタージュ美術館に移管され、トレチャコフ美術館はロシア美術だけを扱うようになる。その後も作品の収集を続け、1980年代に新設された新トレチャコフ美術館のコレクションを合わせると、現在美術館には中世のイコンに始まる10万点を超える作品が所蔵されている。