フランス文学の愉しみ

No 9フランスでベストセラーのフェミニスト小説

『三つ編み』
レティシア・コロンバニ著/齋藤可津子訳/早川書房

三つの物語に込められた彼女たちの戦い

フランスで30万部本が売れると既にベストセラ-トップ10の域にはいります。2017年5月に発表されて以来2年半で100万部を売った(2018年度は41万部強)という小説は、いささか「大衆向け」と称される作品でもめったにありません。(有名な文学賞を取っているからといって、トップ10には入らないようです。)
ですので、フランスにおいて、今回の作品『三つ編み』がどれほどよく読まれているかということ、すなわち読者の共感を得ているということ、は想像に難くありません。

『三つ編み』というタイトルは、表紙の女性の姿が示すように、女性の髪の三つ編みを示します。この作品の主人公の一人が娘の髪を毎朝編むと書かれていますが、このタイトルは、作品の最後には読者にとって象徴的な意味となって理解されるのです。

ではこの作品はどのような内容で、なぜそれほど読者の興味をそそり、支持を得ているのかということを今回の話題にしてみましょう。

最初に、作者であるレティシア・コロンバニを簡単にご紹介します。コロンバ二は、すでに映画監督であり、脚本家であり、女優でもある43歳。フランス・パリで活躍していましたが、2017年に処女小説『三つ編み』を発表し、それが一挙にベストセラーとなる快挙を果たしました。この作品だけで七つの文学賞を受賞し、今年も小説第二作を発表しました。彼女の発言は、作品とともに、「フェミニスト」と呼ばれる女性の社会における尊厳と生存状況の改善を訴えるものとして多くのメディアによって報じられています。

主な登場人物は三人の女性、というより、三つの話の主人公がそれぞれ女性なのです。

初めのエピソ-ドはインド人の不可触民(ダリッド)であるスミタです。夫と娘のラリータと三人暮らしですが、彼らにはカーストによって定められた、他人の糞便を素手で汲み取り清掃する仕事のみしか与えられません。当然、学校に行くなどということは問題外。これはヒンドゥー教ではダルマと呼ばれる、前世から受け継がれてきた義務であり、逃れることはできません。このような差別が まだまだ社会に染み付いたまま、現代においてもその国の憲法に反して、恐ろしい現実として多くの人々を苦しめています。特に女性に対する虐待は想像を絶するものがあり、それだけを読むと、酷く暗い小説に思えます。しかし、スミタはこの状況を打開し、自分の娘に教育をさずけ、自分たちとは全く違う未来を与えようとします。彼女は、それは何十日もかかる、他の都市への命をかけた逃亡を果たすという試練を乗り越えなければ実現できないとわかっていますが、幼い娘とともに、夫を残してその旅にでます。

二つめのエピソ-ドはイタリアの20歳の女性、ジュリアの物語です。彼女は父親の経営する曽祖父が築いた毛髪加工会社で父と職人とともに働いています。彼女の楽しみは図書館の本を借りて読書をすることですが、自分の仕事と家族の営む工場を誇りに思っています。職人たちはみな家族も同然の人々です。今までは全て父任せで、一介の職人として仕事をし、自分の運命に対しても何か特別な目的があるわけでもなく日々を過ごしていましたが、父の突然の事故をきっかけに生活が急変します。工場が経営危機に陥っていて、破産寸前であることが発覚し、知り合ったばかりの、インド人でありシク教徒のカマルとの恋も諦めなければならないかという決断に迫られます。財産のある男性とお金のための結婚を家族に求められたからです。ところが、難民であるカマルが、彼女に思ってもみなかった提案をして、彼女と工場の窮状を救おうとします。今日でもひどく因習的で、男性上位のシシリアで、外国人のカマルの提案どおりに工場を救うことが、若い女性のジュリアに本当にできるのでしょうか。

三番目のエピソードの主人公はサラです。サラはカナダのモントリオール(フランス語圏)にある優秀な弁護士事務所で、次期トップの座をねらう、自他ともに認める辣腕弁護士です。三人の子どもたちを育てるシングルマザーで、既に2度離婚を経験しています。彼女の日常はまさにスーパーウーマンでなければこなせないような、仕事と育児の両方を完璧にこなす、人間離れした彼女の有能ぶりと努力の賜物です。とはいえ、彼女の心は子どもたちのそばにいてやれないことへの罪悪感でいつも一杯です。弁護士事務所では、同僚の間で非常に激しい競争があり、それは、男性と女性の間だけでなく、本来信頼関係にあっても良いはずの女性同士でもかわりません。ミスの許されない司法に関わる仕事であるだけでなく、出世と保身のためにも、一瞬も気をゆるめることはできません。子どもがいるというだけでなく、健康に問題があるということさえも、ひたすら汚点のように隠していかなければなりません。それなのにサラは後一歩で事務所のトップにという時に、重い病に侵されていることを事務所の同僚に知られてしまい、全てが音をたてて崩れるがごとくあっというまに無に帰してしまいます。命が脅かされるだけでなく、彼女が築き上げてきたことが全部、仲間の裏切りによって崩れ去るのを見ることは、彼女を無気力にさせるのでしょうか。それとも子どもたちの将来を守らなければならないという意識が、彼女に明日に向かうという勇気を奮い起させるのでしょうか。

三つのエピソードは、はじめは何の脈絡もなく、それぞれ違う三つの大陸、三つの文化、三つの宗教のもとに生まれ、生活する女性を描き始めます。スミタは非常に古い(アルカイックな)、そしてジュリアは伝統的で父長制の、そしてサラはまさに現代的な社会で生活を送っています。その主人公たちの日常は、特にインド人のスミタについては、日本人にはほとんどよく知られていないものです。その他の二人の生活も、一般的な日本人女性にはあまりない様子とはいえ、どうにかこうにか想像はつくのではないでしょうか。それは、作者本人が携わっている映画によって、今では実際には知らなくても見たことがある情景にある人々のストーリーなのです。ひとつひとつの物語はそれぞれ入念に調査された背景の中で描かれていて、その物語がそれぞれサスペンスをもち、何度もよいリズムとタイミングで休止され、他の物語が語られるのを待ってまた話が続きます。このまるで三つ編みを編むような手法により読者を引っ張っていくのは、作者が脚本家であるという経験がなせる技と言えるでしょう。また、この作品は単なるサスペンスだけでなく、たとえば日本の読者には多くの未知の世界の発見をもたらします。「世界の女性たちは、これほど厳しく、しかも不条理な状況を生きているのか」という驚きが、当然読者の心を揺さぶり、女性が現在の社会で生きる状況について再考させます。そして心理描写は比較的スタンダードで、納得しやすいものです。普遍的だからでしょうか。なによりも、読後を心地よいものにするのは、作者自身ものべているように、主人公たちが最終的に見せるポジティブな姿勢です。彼女たちは逆境にあっても諦めず、希望をもって少しでも自分で運命を良い方に導こうとするのです。なかには、主人公の困難な人生と苦悩に、自分との共通点を見出す人も多くいるでしょう。このようなストーリーは、多くの読者の好感を得ることができます。

唐突とは思いますが、ここで私の疑問について考えて見ました。なぜ、主人公はみな外国人でフランス人ではないのでしょうか。つまり、フランスでの事情(彼女自身の事情)は語られないのでしょうか。コロンバニ自身の言葉によると、彼女はこの作品を最初に思いついたのは、親友ががんになり、その時彼女が鬘を必要とし、その時、鬘はインド人毛のイタリア製であることを知った時ということです。この話を皆に知らせなければならないと思ったと。しかしながら、そのストーリーを映画にすることはなく、彼女は初めての小説という形で発表したのです。その理由については、「映画は、制作費、スポンサー、撮影の場所、役者の事情といった拘束が多く、文学ほどに創作の自由がないから」でした。確かに文学はより自由にストーリーを構想することが出来るかも知れません。しかし、なぜ三つの大陸にこだわるのか、フランスはイタリアと近いからだめだったのか。その点が私にはよく納得できません。サラの状況が一番自分のと近いという作者は、自分自身の経験を書くことに躊躇があったのかもしれません。このような質問があったら作者はどう答えるのかに興味があります。

それではこの作品にこめられた、作者の描きたかった女性の姿とは何であったのか。すなわち彼女たちの勇気ある行動の意味は何なのでしょうか。その点については、少し深く考えてみる価値があるようです。この作品に描かれた女性たちはみな「社会に与えられた運命を生きてきた、与えられた役割の中に閉じ込められていた」と作者は表現しています。スミタの問題は、不可触民であり、しかも女性であるということです。それは生きるか死ぬかの問題にも繋がります。ジュリアは、因習的なシシリアに生まれた女性であるということであり、他の人々のために、愛する人との生活を諦めるというのが犠牲です。それでは、自分の意思で弁護士になり、離婚をしたサラさえもそうなのでしょうか。小説の中で語られるのは、彼女がシングルマザーであるため母親と弁護士の両方をこなし、病気になったら組織から排除され、死ぬかもしれないという時に信頼できる相手もいないということのようです。それぞれ、生きる道の不自由さということでは、多かれ少なかれ女性であることが大きな影響を与えていますが、彼女たちは窮状を脱出するために何をするべきだったのでしょうか。

それは、パトリス・フランセスキ1が述べているように、どのような人生にするかということを自分で選ぶということなのです。すなわち、自分の運命は自分自身で築くということです。つい最近まで、このような考え方は、日本のような伝統文化の国ではあまりなじみのないものでした。その決断がたとえ社会の通念にはそぐわないものでも、社会に逆らうのが非常に困難であっても、自分の求める人生のためにつらぬく、というのは窮地にある時にはなおさら難しいことです。しかし窮地にあってこそ、そのような決断をする状況に立たされるのかもしれません。そこから、諦めずに、自分の望む世界を築こうとする、もしくは少しでも近づこうとするポジティブな姿が、「希望」を予感させる最終部とともに読者の共感を呼ぶのでしょう。

フランスのある人気TV番組On n’est pas couché2に、レティシア・コロンバニが招待された時のことです。一人の別のゲストがコメントを求められたところ、彼は、『三つ編み』の登場人物はドストエフスキーの小説におけるような複雑さを持たず、一般的な女性の心理を書いた特別なところのない、読者層の大半を占める女性読者に気に入られるように書かれた作品だとコメントしました。これに対し、コロンバ二は、この作品は病気に侵された友人のために書いたのだと反論しますが、男性の登場人物の存在がいささか希薄という感じは否めません。スミタの夫は、最後に妻と娘に去られるのですが、娘が学校に行くことについては、スミタに賛同し、応援しています。ジュリアの恋人となるカマルは、伝統的なタイプなのか、物静かで余計なおしゃべりはしないかわりに、ジュリアを窮地から救おうと尽くします。サラの家での(幼い二人の息子以外)唯一の男性は、子守りの「マジック・ロン」です。彼の評価はとても高いのですが、ほとんど登場することもなく、わずかに一回その存在が告げられるだけです。明確なのは、この男性の登場人物たちは、いずれも常に女性主人公たちの視線を通して描かれており、彼ら自身がその内側から描かれることがないということです。二次的な登場人物であることは明らかであり、掘り下げもされていないので、作品に深みを与える役割ももちません。これが『三つ編み』における、作者にとって、西欧社会における男性の姿なのでしょうか。男性読者には訴えるものがないといった先のゲストの言葉もうなずけなくもないのです。3

それでも、『三つ編み』は大好評を博し、多くの読者の支持を得ているのは、この小説の読みやすさと問題提起の力にあると私には思われます。通俗性に陥らず、女性の社会的状況を率直に訴える誠実さをもっている作品にさまざまな国の読者が賞賛を与えるのでしょう。

最後に、私見ではありますが、日本の読者にも好意的に受け入れられた理由がひとつ他にもあると思います。それは、三人の主人公がそれぞれ、自分の人生と運命を自分で築くということだけでなく、むしろ、家族(我が子や家族同然の存在)を守るために戦うという姿勢、家族愛に読者は説得力を感じるのではないでしょうか。スミタは全身全霊で娘の将来のために命をかけ、ジュリアは自分の人生だけでなく、工場で働いてくれていた仲間の職人たちの生活を守ることを最重要視し、サラは三人の我が子を守り育てることに使命を感じて生きる希望を取り戻そうとするのです。時にして、ひとりよがりとみなされがちなフランスの文学作品が、多くの日本の一般読者の共感を得る時には、そこに、このような他者との繋がり-「三つ編み」に象徴されるような-が描かれているように思われます。

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