Bunka祭(ぶんかさい)2021

マエストロのプレジール~仔牛のポワレ、パレット仕立て~

 駅の窓からは、すっかり色づいた街路樹が見えた。
 週末のターミナル駅の改札口付近は賑やかで、映画や美術展、演奏会など沿線の催しのポスターと、ひとであふれている。
 ホームに電車が入ってくるのが見えて、僕はコートのポケットにひそめた小箱をそっと握った。つややかなリボンをかけた小箱の角が手のひらをつつき、僕に勇気をくれる。
 待ち合わせの時間まであと数分。
 どんな雑踏の中でも、織絵さんをすぐに見つける自信が、僕にはある。改札にひしめくひとの中でも、彼女のまわりだけ景色がくっきりとするように、目を惹くのだ。ほら、あんなふうに。
 織絵さんは改札を出てようやく僕を見つけると、苗木のようにしなやかな手を左右に振った。コートの下にのぞく黒いワンピースは植物柄で、蔓模様に散らばる赤い実が鮮やかだ。
「山吹くん、早かったんだね」
「いや、今来たとこ」
 本当は気合を入れすぎて、三十分も前に着いてしまったのだが。
 僕は今日という日を、できれば僕たちの記念日に、加えたいと思っている。
 そのために一日の行動計画も入念に練ってきた。この二年半に二人で訪れた思い出の場所を回るつもりだ。初めて一緒に出かけた映画館を皮切りに、一年目の記念日を祝ったカフェ、毎年クリスマスプレゼントを選び合うブックストア。少しずつ思い出をなぞり、最後に二年目の記念日に訪れたレストランへ。そこで指輪を贈るつもりで、席も予約してある。
 だけどこれは、あくまでもサプライズにしたい。その方が、僕の本気が伝わる気がして。だから、誕生日でも記念日でもない、今日なのだ。
 彼女には、出かけよう、とだけ伝えてある。
「織絵さん、今日の行き先なんだけど」
「その件ね、いいものがあるの。なんと招待券」
 じゃん、と効果音付きで、彼女がバッグからチケットを取り出した。
「同僚にもらったの。取引先からいただいたんだけど、彼女はもう観たからって」
「美術展?」
 フランスで活躍した画家たちの展覧会らしい。改札口にもポスターが貼られていて、教科書で見たような絵がいくつか並んでいた。
「今まで一緒に行ったことないけど、山吹くんも美術は好きだって言ってたよね?」
「……そうだね、あまり詳しくはないけど」
 あまりどころか、美術なんてまるでわからない。織絵さんはいつも友人と美術展に出かけていたから、勢いでついた小さな嘘なんて、すっかり忘れていた。大昔に授業で習ったことを必死に思い返してみるが、ポスターの絵さえ、どこかで見たなと思うくらいだ。このままでは一発でぼろが出るだろう。よりにもよって今日、嘘がバレて信用を失うのは避けたい。
 僕より二つ上の織絵さんは趣味の幅も広くて、大抵のことは僕よりよく知っている。彼女に見合うように、この二年半、努力を重ねてきた。美術展くらいで水の泡にはしたくない。
 コートの上から小箱をぎゅっと握りしめて、ささやかな抵抗を試みる。
「今日は映画なんてどうかと思ったんだけど」
「観たい絵画があるの。だめかな?」
 織絵さんはおとなしく穏やかだが、芯の強いひとだ。口調はやわらかいのに主張は曲げない。それがよいところでもあるのだが。ここは僕が折れるしかなさそうだ。
 考えようによっては、チャンスかもしれない。
 彼女の観たい絵の前で、指輪を渡してはどうだろう。好きな絵の前でのプロポーズなんて、生涯忘れ得ない一場面になるんじゃないだろうか。舞台装置としては悪くない。
 行こうか、と言うと織絵さんは、とろけるような笑顔を見せた。
 僕は美術館までの経路を調べるふりをして展覧会のサイトを開き、見どころや主な出展作品、画家をざっと確認した。織絵さんのお目当てはどんな絵だろう。裸婦だったら気まずいなと心配もしつつ、彼女が楽しげに語る美術の話に、細心の注意を払いながら相槌を打った。
 お目当ては、マティスらしい。

 人気の展覧会らしく、美術館のチケット売り場には、列ができていた。招待券を持つ僕らはそのまま入口付近に進み、織絵さんは慣れたようすでコインロッカーにコートと鞄を押し込んだ。
 僕もつられてコートを脱ぎかけ、小箱のことを思い出して、鞄だけを預けた。他のポケットでは、不自然な凹凸ができてしまう。そんな不格好なネタバレをするわけにはいかない。
 展示室入口の手前には、音声ガイドの貸出受付があった。解説や見どころ、ちょっとしたエピソードを教えてもらえる格好のアイテムらしい。渡りに船とはこのことだ。これなら僕も織絵さんと同じ話題で話すことができる。躊躇なく受付に向かった僕の袖を、彼女が引いた。
「今日はガイドはいいよ」
 そのまま彼女は展示室に向かう。僕は音声ガイドに後ろ髪を引かれつつ、展示室に足を踏み入れた。小さな嘘をつき通すには、かなりの努力と工夫が必要そうだ。
 美術館なんて、中学の頃に課題で訪れて以来だ。教会や神殿、お寺にも似た独特の静けさが、あの頃は苦手だった。背筋の伸びるような静けさに、緊張を覚えたからだろうか。
 でも今は不思議と、心地よささえ感じる。暖房が効いているせいだけではないだろう。
 この独特の静けさの中に、なにかが濃密に含まれている気がした。
 ゆるやかなひとの流れは、一定の速度を保って絵の前を動いていく。モネやルノワール、セザンヌにボナール、ユトリロ、マティス、ピカソ。有名画家の絵にはひとが集まり、流れはひときわゆっくりになる。
 織絵さんはその列から早々に離れ、ひとの隙間を縫って、展示順にかかわらず、間近で観られる絵を渡り歩いた。暖房のよく効いた室内を端から端まで、ウォーキングでもするみたいに。
 絵を見つめる彼女の目はきらきらと輝いていた。
 気に入った絵の前では、時間を忘れて、いつまでも眺めている。僕はその隙に、ポケットに隠したスマートフォンで画家の情報を調べたり、ソファに置かれた図録の解説を読んだりして、小さな嘘を、嘘から出たまことにできないかと、悪あがきを続けた。
 不意に投げかけられる織絵さんのひとことに、それらしく受け答えできるよう、神経を研ぎ澄まして。
「モネの『睡蓮』て聞いたときに思い浮かべる作品て、ひとりひとり違うんじゃないかな」
「二百作くらいあるからね。同じ題材で一日のうちの違う時間帯の光を描いたんでしょう。広大な庭に植える植物や位置も自分で選んだというし、モネって研究熱心だよね。浮世絵好きが高じて、日本風の太鼓橋まで作ったらしい」
「そう、広重の名所江戸百景『亀戸天神境内』がモデルって言われてる。山吹くん、すごく詳しいんだね」
 織絵さんの反応がうれしい反面、欺いているようでもあって、こめかみにじっとり汗がにじんだ。ずっとコートを羽織ったままの暑さのせいなのか、やましさからなのか、よくわからない。
 暑さで朦朧としているせいではないと思うが、絵は、じっくり向き合ってみると静かに、だけどものすごく饒舌に、なにかを語りかけてくる気がした。
 白い蒸気をもうもう吐き出す蒸気機関車の絵は、走行音や冷たい空気さえ感じるようで、見ているだけで手がかじかみそうだったし、晴れやかな朝の河畔の絵からは、穏やかな水音や鳥のさえずりが聞こえてきそうで、その澄んだ空気を思わず胸いっぱいに吸い込んでいた。ここは室内なのに。
 残念なのは、この感じをうまく言葉にできないこと。絵の奥に秘められたなにかがあると感じつつ、僕はただその前に佇むことしかできない。
 だから、正しく感想を言い表そうとするとやっぱり、わからない、になってしまう。
 誰かが見つめた一瞬を、たくさんの窓から、ただ一緒に眺めているような気分になる。
 マティス、という名を見つけ、僕は背筋を正した。
 展示されているのは女性を描いた油絵やスケッチ、躍動感ある切り絵などだった。一枚通りすぎるたびに僕は舞台にあがる前のように緊張したが、織絵さんはどの絵も静かに鑑賞し終えた。
 やがて出口の表示を見つけると、織絵さんの顔色がさっと変わった。
「山吹くん、ちょっと戻ってもいい? ないの、マティスの作品」
「マティスならいくつか」
「あの作品がないの。見つけられなかった」
 織絵さんは足早に引き返し、マティスのある展示室をくまなく見て歩いたが、彼女の観たい絵はないという。監視員にたずねると、織絵さんの目当ての絵は、展示替えで、別な絵と入れ替えになったらしかった。
 がっくり肩を落とす彼女を慰めつつ、僕はコートのポケットに手を突っ込んで、小箱を確かめる。小箱の出番も、汗だくで鑑賞した甲斐もあまりなかったが、こればかりは仕方がない。
 予定変更だ。次の好機をつくるためにも、彼女の気持ちを上向かせるのが先決だ。そこから、レストランに出かけるうまい口実を見つければいい。
 ちょっとぶらぶらしてみようと織絵さんを促し、僕らは美術館をあとにした。

 駅へ向かう大通りの一部が、歩行者天国になっていた。なにかの催しらしく、露店が道に沿って立ち並び、活気あふれる声が飛び交っている。暮れはじめた景色に、ぽっと街灯がともった。
「マルシェの日みたいね」
 織絵さんが果物とジャムを並べる店に吸い寄せられる。近隣の生産者が定期的に開く、市場らしい。それぞれの店先には野菜や果物、パン、焼き菓子、ジャム、ワインなど、おいしそうなものが並び、どこからか肉の焼ける香りも漂ってきた。でも不思議なことに、近くに肉を焼く店はない。
 あたりを見回すと、光を撒いたような一角があるのに気づいた。
 フェンス状のイルミネーションに囲まれて、小さなサーカステントが六つばかり、石畳の広場の隅に並んでいる。
 くすんだ水色と生成色の縞模様をしたサーカステントが、光の粒に囲まれて夕空の下に佇むようすは、さながら夢の中か映画のワンシーンのようで、僕はしばしその風景に見惚れた。
 近づいてみると、光のフェンスの途切れたところに、黒板が据えられていた。
「ビストロつくし。期間限定開店中だって」
 織絵さんがメニューをのぞきこむ。あのいいにおいの出どころはここらしい。
「数量限定のスペシャリテって気になるね、山吹くん」
「限定なら、まだあるとは限らないよ」
 ここで道草を食うわけにはいかない。レストランの席は予約してあるし、時刻も迫っている。それを告げられないのがもどかしいが、もし伝えたらたちまち質問攻めだろう。サプライズが台無しになる。この場をさっさと離れようと、織絵さんを誘おうとしたが、もう遅かった。
 織絵さんはギャルソンを捕まえて、スペシャリテがどんな料理かをたずねていた。
 石畳の上を音もなく歩く彼の足取りと風貌に、僕は猫を思い浮かべた。
「本日のスペシャリテは、マエストロのプレジールでございます。お客さまに合わせて、その都度シェフがおつくりするので、どんなお料理かはできてみるまでわかりません。ですが、心にもおいしいお料理になるはずですよ」
 ギャルソンは、サーカステントの向こうへ目をやった。そこには黒塗りのキッチンカーが停まり、中で白い巨体が、右に左にせわしく動いているのが見えた。あれがシェフなのだろう。
「まだ開店したばかりなので、お好きなサーカステントをお選びいただけます」
 テントの入口はイルミネーションに飾られたままぴっちり閉まっているが、内装が少しずつ違うらしい。一番違うのは装飾品だと聞くと、織絵さんの目は、絵を観るときのように、きらきら光った。
「面白そうじゃない? テントも、お料理も」
 こうなったらもう、梃子でも動かないだろう。僕はどこか打ちひしがれながら、そして心の中で予約したレストランに必死に詫びながら、ギャルソンに向き合った。
「そのマエストロのプレジールって料理、二人分、お願いします」

 テント選びを織絵さんに任せ、僕は黒板の横で詫びの電話をかけた。呼び出しのほんの数コールの間に、織絵さんはもうテントを決めたようで、開いた入口から颯爽と中へ入っていくのが見えた。直前のキャンセルを心から詫びて電話を切ると、いつの間にかギャルソンがすぐ隣に立っていた。
「ご先約がおありでしたか」
「でも彼女には伝えていなかったので」
 せめてお楽しみいただけるとよいのですが、とギャルソンは僕をテントへ案内する。
 電話をコートのポケットにしまうと、小箱が手に当たった。
 この指輪の出番は、あるんだろうか。
 思い出の場所も、彼女の好きな絵も、予約したレストランも、僕が思い描いた理想の舞台は全部消えてしまった。
 百貨店でこの指輪を見かけたとき、自然と、結婚の二文字が思い浮かんだ。いつかはと頭の片隅にあった想いが、急にくっきり立ち顕れたように感じた。いつかのために、準備しておこうと。
 土台のデザインと好みの青い石を選べる指輪だった。しなやかな曲線を描いたシンプルな指輪がとても上品で、織絵さんによく似合いそうだった。色合いの違ういくつもの青い石を並べて、石言葉も教わりながら、彼女のための指輪を選ぶ。それはこれまでとこれからを考える時間でもあって、受け取りまでの一か月が長くも短くも感じられた。
 今週、できあがった指輪を見ると肚は決まり、いつかは今日しかないと強く思うようになった。
 だが、どうだろう。なにもかも思い通りにことが運ばない一日だ。プロポーズしたとして、それもうまくいかなかったら? 考えるほど気持ちが沈み、小さくため息がこぼれた。
 急にぴたりと足を止めたギャルソンが、僕を見ると、両手を組んで前に突き出した。
「どうぞご一緒に」
 そのまま頭の上に組んだ手を伸ばし、ギャルソンはゆっくりと左右に揺れる。促され、わけがわからないままに真似てみると、背中や首がばきぼきと音を立てて軋んだ。
「つくしのポーズ、と私どもは呼んでいます。体がほぐれると気持ちも少し上を向きます。その憂い、少しでも小さくなるといいですね」
 見れば、キッチンカーでもシェフがつくしのポーズで応えるように揺れていた。

 変わった店だという印象は、サーカステントの中をのぞき込むと、いっそう強くなった。
 ここは本当に、野外のテントなんだろうか、プチホテルの一室とか、映画のセットではなく?
 イルミネーションの光る入口から一歩足を踏み入れると、ふかふかした絨毯に驚いた。靴のまま踏むのが申し訳ないような毛足の長い濃紺の絨毯には、花かご模様が織られている。室内に並ぶ棚や椅子は見るからにアンティークだ。よく手入れされ、どれもはちみつをかけたようにつやつやしている。テントを支える中央のポールにはシャンデリアがきらめき、ところどころに置かれたスタンドライトや大小のランタンが、室内をあたたかく照らしている。円筒形のストーブには青い炎がゆらめき、その横のヴェルヴェットのソファで、織絵さんがすっかりくつろいでいた。
 とりわけ目を惹くのは、一枚の絵画だ。
 クラシカルな猫脚の棚の上で、ぱっと目を惹く赤が、どんな照明よりも、部屋を明るくしていた。織絵さんはうっとりと絵を見つめていた。
 描かれているのは、赤い室内に佇む二人の音楽家らしき女性たちだ。一人は小型のギターを、もう一人は楽譜を手にしている。傍らのテーブルには花や果物、菓子が置かれ、赤い背景には葉や花のような線と、アーチ模様が装飾的に描かれている。
 コートを掛け、少し迷いながら、小箱を鞄の中へ滑らせた。
 ほどなくギャルソンがやってきて、僕たちは白いクロスに覆われた楕円形のテーブルに着いた。
「旬のフルーツシャンパンです。洋梨の風味をお楽しみください」
 織絵さんが頼んでくれていたらしい。金色のシャンパンの中、三日月のような洋梨が、ほの白い肌に泡をまとってきらめいている。グラスに鼻を近づけた織絵さんが、いい香り、と呟いた。
 続いて並べられた皿には、どれから手をつけようか迷うほど、前菜が盛り付けられていた。
「左から、ごぼうのポタージュ、秋ナスのベニエ、芽キャベツとブロッコリーのソテー、ほうれん草とくるみのキッシュ、サーモンのテリーヌです。ごゆっくりお召しあがりください」
 ほどよく色づいたバゲットが二人の間に置かれるのをじりじりと待って、僕たちは乾杯した。
 洋梨とシャンパンを一緒に口に含むと、洋梨特有の魅惑的な香りがシャンパンの華やかさと重なり合って、極上の香水のように薫った。
 デミタスカップに入ったポタージュには、カリカリに揚げたごぼうの薄切りが添えられ、まろやかにごぼうの滋味があふれた。にんにくと唐辛子が効いた芽キャベツとブロッコリーは、歯応えもよく食欲をそそる。薄い衣のついた揚げナスは、表面はさっくり、中はとろりとして、スパイスの効いた塩で食べると異国の味がした。あたたかなキッシュからはほのかにチーズの香りが立ちのぼり、ほうれんそうの甘みとくるみの歯ざわりが、絶妙なバランスで口を満たした。いくらを添えたサーモンのテリーヌもいい。淡いオレンジ色のテリーヌは口の中でふわふわとほどけ、ぷちっと弾けるいくらの食感も楽しい。
「おいしいね」
「うん、おいしい」
 その言葉以外思いつかず、僕と織絵さんは、ひとことだけで会話した。この一皿で十分に満足しそうなほど魅入られて、言葉を忘れた僕たちは、料理を夢中で口に運んだ。
「おいしい食べ物飲み物に、すてきな作品。最高だね」
 織絵さんは、さっきの落ち込みぶりが想像できないほど上機嫌になり、食事の合間も、棚の上の絵をたびたび観ていた。あの絵がよほど気に入ったらしい。
「山吹くんはどう?」
 絵のことだと気づくまで、時間がかかった。
「いい絵だね」
「それだけ? さっきはあんなにいろいろ話してたのに」
 織絵さんは口を尖らせるようにして、先を促してくる。仕方なく視線を絵に移したが、話せることなんて思い浮かばない。この絵について調べようがないからだ。美術館と違って、作品名も画家もわからない。よく見ればどこかにサインがあるのかもしれないが、ここからは見えなかった。織絵さんにそんなつもりはないのだろうが、試されているようで、手のひらにじっとりと汗がにじむ。
 黙りこくる僕を、織絵さんがいぶかしげに見た。
 もしかすると彼女は、気づいているのだろうか。僕が虚勢を張っていることを。もし気づいているのだとしたら、さっさと謝ってしまった方がよいだろうか。取り繕う余地はあるだろうか。
 言うべきか。言わざるべきか。
 こめかみのあたりから、汗がつうと流れ落ちる。
「もしかして、山吹くんて、美術を」
「ごめん! わからないんだ」
 間髪を容れず僕は頭を下げた。
 今日は記念日なんかじゃなく、忘れたくても忘れられない、悲しい日になるのかもしれない。
「わからないんだ、絵のことなんて。美術館で話したのは、あの場で必死に調べたこと。ごめん。本当はなにもわからないんだ」
 織絵さんは、瞳をゆらして、視線を落とした。

「おや、なにかお口に合いませんでしたか?」
 テントの入口から、ギャルソンがするりと入ってきた。すっかり空になった皿を片付けてテーブルを整えると、小さく咳払いする。
「お待たせいたしました。本日のスペシャリテ、マエストロのプレジールは、巨匠のよろこびに思いを馳せた一皿。お料理は、仔牛のポワレ、パレット仕立てでございます。やわらかな仔牛肉を、色彩ゆたかなソースでお楽しみください」
 目にも鮮やかな一皿だ。
 皿の中央に並んだ数切れが、仔牛のポワレらしい。断面はきれいな薔薇色で、上部にはパン粉のようなものがまぶされている。その周囲を、絵の具を筆でぽってり置いたような、色とりどりのソースが囲んでいた。赤や黄緑、黄色、白、紫に濃茶。余白にはクレソンや青い小花が彩りを添えている。
 小さなローストビーフの塊を思わせる仔牛肉は、―ロ大に切り分けようとすると、ナイフがすんなり通った。最初の一口は、ソースをつけず、そのまま食べてみる。ほどよい弾力があって、とてもやわらかい。噛むたびにあふれてくる肉汁には癖がなくて、パン粉のさくさくと軽やかな歯ざわりになじみ、いつまでも味わっていたくなる。
 ソースをまとわせて食べると、味の印象がそれぞれに変わった。
 トマトの赤いソースは爽やかな酸味が肉の味わいを深めてくれ、黄緑のソースに混ざる砕いたピスタチオの風味はあっさりした肉にほどよいコクを加えてくれた。バターの香る黄色いソースや、ワインとチーズの香る白いソースは重厚感で、紫と濃茶のソースはベリーとバルサミコの個性的な甘みと酸味で、肉のうまみをぐっと前面に引き出してくれる。
 ギャルソンおすすめの赤ワイン、サン・テミリオンは重すぎず、果実感ある味わいが肉とソースの味わいをさらに深めて、体の奥底から深い満足感がしみじみと湧いてくる。
「おいしいね」
 織絵さんが小さく呟いた。
「うん、おいしい」
 もしかしたらこれは僕たちが一緒に食べる、最後の食事になるかもしれない。そんな悲しい食事だとしても、料理は、しみわたるように、おいしかった。
 気をてらうわけでもなく、無理に味をつけるのでもなく、素材の味を自然に引き出して、よりおいしくしている、そんな真っ当な料理に思えた。
「私も、わからないな」
 織絵さんがぽつりと呟く。言葉の意味を確かめようとしたとき、入口からおずおずと声がした。
「お楽しみいただけましたか?」
 大きな身をよじって、コックコートに身を包んだシェフが、テントに入ってきた。
 もごもごと挨拶を述べていた彼は、僕らの皿がほとんど空になっているのを見ると、にんまりと頬を盛りあげて、饒舌になった。
「ここに飾った作品から想像を広げておつくりしました。〈色彩の魔術師〉と呼ばれた彼にちなんで、たくさんの色を召しあがっていただこうと思いましてね。画家がよろこびを描き出す源、パレットのように仕立てました。彼の作品を見ると私はどうにも動き出したくなって、ソースが予定より多くなってしまったんですが」
 その〈色彩の魔術師〉というフレーズには聞き覚えがあった。美術館へ向かう電車の中で、織絵さんから聞いたような気がする。誰のことだったろうか。
「わかります、その感じ」
 織絵さんが頷くと、シェフはうれしそうに赤い絵に近づき、織絵さんと僕を呼び寄せる。
「ほら、ここのテーブルに、果物とかお菓子が描かれているでしょう。茶色い長方形のはガトーショコラじゃないかと思うんですよ。それでチョコレートのソースを添えようとしたんですが、店の者に、肉よりデザートがいいと言われましてね」
 シェフと織絵さんにならって、僕も絵と向き合った。ガトーショコラの横には、赤いハートが描かれている。ケーキかなにかだろうか。ふと赤く塗られた床の隅に、文字があるのに気づいた。Hからはじまる文字の後半は、マティスと読める。
 その瞬間、〈色彩の魔術師〉とはマティスのことだとも、織絵さんがここへ来てからあんなに上機嫌だった理由も、すべてがつながった。
 織絵さんとシェフは、並んで絵を見つめながら、楽しそうに言葉を交わす。
「この黄緑色の皮をした果物はなんでしょうね。洋梨かな」
「でもお嬢さん、これ丸いでしょう。青りんごかもしれませんよ。それより、この背景に描かれた模様。これ見ると私、エピってパンが食べたくなるんです。麦の穂の形をしたパンでしてね、ベーコンを挟んで焼いたのなんて、たまらんですよ。黒胡椒たっぷりで、ワインと合わせるとなお」
 絵と直接関係のない話をしているのに、織絵さんはひどく楽しそうに見える。
 そこで僕は、自分がなにか重大な間違いを犯していたんじゃないか、と気づいた。知識や背景で取り繕うよりも、こんなふうにただ素直に絵と向き合えばよかったんじゃないか、と。
「シェフは、美術がお好きなんですね」
「もちろん。美術も、音楽も、芸術全般が大好物です。心のごちそうですからね。私はね、心が満ち、お腹も満ちたら、それは世界で一番おいしい料理なんじゃないかって、思うんですよ」
「その一番ってただひとつじゃなくて、いっぱいありそうですね。うれしいことや楽しいことは、ひとつでも多い方がいいもの。たくさん一番を見つけられたら、それだけ世の中がすてきな場所に思えそう」
「世の中ってやつには、憂いが多いですがね。すばらしい芸術と、おいしい料理があれば、憂き世を乗り越えていける気がするんです。だから、店の名は、つくし、とつけました。わかります?」
 織絵さんと僕はしばし考える。
 もしかして、と口にした僕に、シェフの包み込むようなまなざしが注がれた。
「憂き世の中につくしがあると、憂き世は、う『つくし』き世に、なる?」
 シェフは大きく頷きながら、大きなクリームパンのような手で、僕の手をぎゅっと握った。
「心もお腹も満ちる一皿を、お届けしたいと思いましてね」
 テントの外から、小さな咳払いが聞こえた。
「その一皿、ただちにお願いしたいものです。お客さまがお待ちですよ」
 シェフは、ギャルソンと入れ替わるように外へ出ると、鼻歌を歌いながらキッチンカーへのんびり歩いていく。その背中が、大きく見えた。
「デザートをお持ちいたしました。和栗のモンブランに、柿のガトーショコラ。エスプレッソとお召しあがりください」
 銀のポットから、あつあつのエスプレッソを注ぐギャルソンを、織絵さんがのぞき込んだ。
「あの作品、どうしてここにあるんでしょう? 私たち、あの作品が観たくて美術館に行ったんです。でも展示替えでもうそこにはなかった。それが、どうしてここに?」
 ギャルソンは、織絵さんと僕を順繰りに見て、にやりと笑った。
「それは驚きますね。もしこれが本物なのであれば」
「ああなるほど、複製画なんですね」
 僕のひとことをギャルソンは肯定も否定もせず、ただ笑みを浮かべていた。たしかに、美術館に飾られるような作品が、街の片隅の店にあるはずはない。彼が立ち去ったあとも、織絵さんはまだ疑っているようで、絵にじっと目を凝らしていた。
「真贋を見分けるのはプロでも難しいっていうけど、この作品にはなにかを感じるんだけどな。本物にだけ宿る、特別な空気みたいなものを」
 織絵さんの感じるそのなにかは、僕が美術館で感じたことと、似ているだろうか。あの濃密な、深いところが輝いているような、あの感じと。
「この絵が、織絵さんが観たかった絵なんだね」
 改めて、赤い背景に佇む二人の女性の姿を見てみる。
「うん。私、山吹くんとこんなふうになれたらいいなって思ってて。一緒に観たかったの」
 描かれた二人は、友人か音楽仲間のように見える。少なくとも、愛や恋といった雰囲気ではなさそうだ。
 僕は鞄の中の指輪を思った。残念ながら、出番はないらしい。
 エスプレッソの苦味を全身で味わいながら、ガトーショコラをつつく。柿のねっとりした甘みと、洋酒の効いたほろ苦いチョコレートケーキが互いを引き立てて、おとなびた味わいがした。
「私もいろいろわからないよ。おいしいソースがどうできるのかも、あの絵がなぜここにあるのかも。だけど、おいしいし、楽しい。わからないって、窓を閉めることじゃなくて、むしろ開くことなのかも。わかったときの楽しさやうれしさを、未来に預けるみたいなこと」
 織絵さんはガトーショコラをあっという間に食べ終え、モンブランに取りかかる。その目が一瞬、大きく見開かれたように見えた。
「もしかすると、一生わからないのかもしれない。芸術には答えがないから。触れるたびに新しい発見に出逢う気がする。だから、飽きないのかも。ずっとわからないから、少しでもわかりたくて、ずっと面白く感じる」
 織絵さんが語るのは、彼女自身のことのように思えた。
 僕には彼女こそ、わからないから、少しでもわかりたくて、ずっと面白く感じられる。
「この絵も?」
「うん。同じ場所にいても、お互いに別な場所を見つめているところが好きなの。そういうひととなら、面白い毎日を過ごせそうな気がする。今日気づいたのは、正面を向いたこのひとが、ちょっと山吹くんに似てること」
「えっ」
「微笑んでるけど、なにか企んでそうな感じが、そっくり」
 織絵さんがこの絵に見ていたのは、音楽家だとか女性同士という表面に描かれたことではなくて、もっと本質的な、ひとの在り方みたいなものらしい。僕はやっぱり、彼女のことがわからないと思った。そして、たぶんずっと、面白いと感じるだろうと。
 モンブランにフォークを刺し入れると、予想外のさっくりとした手応えがあった。栗のクリームと生クリームに埋もれて、さくさくのメレンゲが姿を現す。それは秘密の宝物のようだった。
 僕は、鞄の中の小箱に手を伸ばした。織絵さんに似合うだろうと選んだアクアマリンは、幸せな結婚という意味を持つそうだ。
「テーブルに赤いハートがある。信頼の証かもしれないよ」
 織絵さんは、あのとろけるような笑顔を僕に向けた。
「知識や背景を知るのも楽しいけど、私、山吹くん自身の言葉の方が、ずっと好き。さっき言おうと思ったの。もしかして山吹くんて、美術をもっと楽しめるんじゃないって」
 織絵さんは絵に描かれたハートに、目を細めた。

 どんな反応や返事がくるのか、僕にはわからない。
 だけど、それを未来に預けてみようと思う。
 ほんの少しだけ、絵の奥に秘められたあのなにかが、わかったような気がした。
 このあふれるような、言葉にできない想いの欠片を、画家たちは筆に込めて、描き込むのではないだろうか。渦巻くような、うねるような、かがやく思いを、永遠に留めるために。
 僕の差し出す手のひらの上、リボンの結ばれた小箱に、織絵さんが目を見開いた。

 きっといま、絵画が、うまれる。