『ミシマダブル』によみがえった眼差し
蜷川幸雄演出の『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』。強い逆光に登場人物たちのシルエットがくっきり浮かび上がる、二つの印象的なラストシーンを思い返しながら、あの時確かに「ミシマがよみがえってきた」と感じた、その手ごたえを今も反芻している。
蜷川が三島作品を新たに手がけるのは、『近代能楽集』の初演以来35年ぶりのこと。稽古前のインタビューではその理由を「三島さんの戯曲は、つまらない場所で豪華絢爛な言葉を使わせようとする。目には美しくないんだ」とも語っていたが、今回の2作はそれを逆手にとるように、まったくの素舞台から幕を開ける。ガランとした舞台に壮麗な音楽が鳴り響くと、ざわめいていた客席は一気に静まり、舞台を注視する。懐中電灯で照らすような簡素な照明のなか現れたのは、大きな鏡の貼られた豪華な壁や凝ったつくりの家具。黒い服を着たスタッフが目の前でそれを運び、組み立てる、その様子はまるで、これから起こることが、壮大なつくりもので、もはやここには存在しない何かだということを、あらかじめ宣言するようでもあった。
2月2日。先に初日を迎えたのは『サド侯爵夫人』。公演前には6人の男優が演じる貴婦人たちの「女ぶり」が注目されたが、実際に目にしたその世界は「女性美」とは一線を画すものだった。もちろん、主人公・ルネを演じる東山紀之の理性的なせりふ回しや、妹・アンヌ役の生田斗真が見せる気ままな眼差しにはハッとするような色気が宿っている。だがそれらはいずれもかよわい「女らしさ」をなぞった表現ではなかった。豪華に飾り立てた衣裳やせりふをまとったことでむしろ、俳優たちは自らの輪郭線を力強く、太くしていったのかもしれない。背徳への欲望をいかにも面白げに語る木場勝己のサンフォン夫人は、自身を世俗的な好奇心にさらして愉しむ複雑さ、グロテスクさを漂わせる。またなにより、ルネの母・モントルイユ夫人に扮した平幹二朗の、男性的ともいえる威厳と戯画的なユーモアを交えた演技は、「愛」や「美徳」をめぐる観念的なせりふの応酬を、スリリングなエンターテインメントにさえ感じさせる魅力を放っていた。
せりふ量が多く、隙のない三島戯曲は、俳優にとってはむしろ自由度の低い、難しい挑戦だと聞く。またそこで扱われる愛や権力といったテーマも、ともすれば表面的なお題目に終始しがちだ。けれど今回の蜷川演出は、こうした三島の言葉と美学に確かな手ごたえを持った肉体を与えていた。翌日幕を開けた『わが友ヒットラー』では、豪奢なドレスから一転、軍服とスーツに身を包んだ男たちが、革命と友情の終わりと血なまぐさい政治の始まりの物語を演じた。生真面目さと狂気を併せ持つ若きヒットラー(生田)と、彼の膝に頭を預けて青春の思い出を語り続ける突撃隊長・レーム(東山)。二人のすれ違いは、研ぎ澄まされた理性と無骨な情熱の対立であると同時に、腺病質な青年と鍛錬された肉体を持つ男の対立のようにも見え、交わされる言葉は、やがて訪れる悲劇にふさわしいリアルな重みと不気味さを漂わせていた。
どちらの作品も3時間以上に及ぶ重量級の作品にもかかわらず、終幕はあっという間に訪れる。幕開きと呼応するように、舞台は空にされた。家具が、壁が、窓が撤去されるその時、遠くには騒乱の音が聞こえる。『サド侯爵夫人』ならフランス革命、『わが友ヒットラー』なら第二次世界大戦への足音であるはずのその響きは、だがまぎれもない、日本全体が若者の熱情に揺れた時代の音だった。
そもそも三島はこの2本の戯曲を、明治以来の「翻訳調演劇」のために書き下ろしたとされる。西洋の影響を強く受け、伝統を失った「日本演劇」への警鐘と激励。そう考えると、始めと終わりの演出はもちろん、『サド侯爵夫人』での男優の起用の意味もいっそう深い奥行きをみせる。断ち切られ、失われた演劇の、そして日本の歴史を改めて振り返り、私たちのいる「今」を確かめること。――あの逆光に縁取られたラストシーンは、振り返られもせず流れ去る時間に抗う三島由紀夫自身の眼差しを象徴していたのかもしれない。蜷川幸雄が取り出した「三島美学」の核は、瞼を刺すほど眩しく、強いものだった。
文:鈴木理映子(演劇ライター)