『ファウストの悲劇』稽古場リポート〜稽古場に「魔法」がかかる瞬間

 「何もかもがある」。
 言葉だけで聞くと恵まれた印象ではあるが、もしかしたらとても怖いことなのではないか、と思う瞬間がある。それが、蜷川幸雄演出作品の稽古場に踏み入るときだ。矢継ぎ早に飛び出す演出家の指示に、工夫とアイデアを搾り出して応える俳優たち、魔法のごときスピードと正確さで必要な事物を用意するスタッフ・チーム。
 まさに「何もかもがある」稽古場だ。だからこそ、そこに居るためには覚悟と力が必要で、それを日々問われることは怖いことなのではないか、と思ったのだ。
 『ファウストの悲劇』の稽古が始まって一週間。今日は1幕を頭から当たる稽古だと聞く。
 稽古初日に現れた、“江戸と思われる歌舞伎小屋の楽屋”が透かし見える舞台装置は、蜷川現場を熟知する関係者をも驚かせるスケールのものだった。今日はその前を、和と洋、人間と人外など様々に越境したコスチュームの俳優陣が行き交い、さらに不思議な光景をつくり出している。
 芝居稽古の前に特殊効果の説明が行われる。魔術や悪魔が席巻する作中では、そのスモークや火花の効果がマスト・アイテム。色とりどり、大変な勢いで火花を飛ばす装置、白煙が噴出する仕掛け。悪魔メフィストフェレスとしてそれらを扱う勝村政信が、子供のような目で実験に参加している。だが気づけば彼一人のことだけでなく、正面で見守る演出家から遠巻きに囲む人々まで全員が低く「オォー!」と歓声を上げつつ見入っていた。
 一通り「実験」が終わると「10分後、頭から行きます」と演出補の声が。台詞のや声、動きのおさらい、出陣前の慌ただしいひととき。
 萬斎ファウストは「気分だけでも出さないと」と、マントの裾さばきも鮮やかにダンスのステップを踏んでいる。悪魔のタイツ姿で横切るマメ山田に「なんだ、コウモリか?」と演出家が声をかけ、笑いが起こる。「通しでのなんでもないよ、何かあればすぐ止めるから。いくらなんでも(通すには)早過ぎるだろ」とさらに演出家の軽口。「幕の裏でみんな『通す気だ』と思ってますよ(笑)」と返す演出補に、演出家は「それはうれしいけどさ」と呟く。さて、その真意はいかに……。

 いよいよ戦闘開始だ!
 幕開きを何より大事にする演出家・蜷川の作品は、いつもその始まりにドラマが濃縮されている。今回はドラマ+魔法。讃美歌とともに走りだした冒頭場面は、同時多発的に羽や尾をたくわえた天使や悪魔たちが、舞台上をフワフワと飛びまわる。横切る巨大な魚、アヤしげな物たち。喧騒が去ると、そこには苦悩するファウストが佇んでいる。
 学問を極め尽くし、限界を感じたファウスト博士が友人の魔術師に黒魔術を習おうと決意する一場。人より才能を持っていたばかりに、人知れぬ苦悩を抱える天才が演じる人にそのまま重なる。  
 今作ではファウストとメフィスト以外は、一人の俳優が複数役を演じるのも見所のひとつ。きりっとした口上役とファウストのパロディとも言える馬番を演じる木場勝己の豹変ぶり、アヤしげな魔術師コンビ、たかお鷹&斎藤洋介の笑いの間の絶妙さは、人生経験の豊富さによるものか。続いてファウストの弟子ヴァーグナーとして登場する白井晃の飄々とした芝居ぶりも、他ではそう見られるものではないだろう。ロビンとのコンビを組む料理番レイフ役の大門伍朗は、時に女形の芝居も見せる大サービス。
 コミカルなシーンのあとには、雰囲気がサッと変わる悪魔との契約場面が。フライングは当たり前、2階ギャラリーや演出家の後ろなど、予想もつかない所から姿を現し翻弄する勝村メフィストからは、演じる人の遊び心と高いプロ意識がオーラのように噴き出している。
 地獄から呼び出した悪魔と、己の魂を引換に契約する男。生命のやりとり、とも言えるシリアスなシーンのラストに演出家が用意したのは、二人によるタンゴだった!
 黒のファウストと白のメフィスト。立場と色を逆転した装いの二人が、巨大なテーブルの上で妖しく密に寄り添い、複雑に交錯するステップのBGMはタンゴのスタンダード「ラ・クンパルシータ」。足もとが時にふらつくことはあっても、視線は逸れることなく結び合い、既に二人が切り離せない関係になってしまったことが匂い立つ。宇宙や真理について交わす議論も、絡み合うダンスも、二人にとって行為の意味は同じなのかも、と思わされる。
 続く七大罪の場面ではプライド、貪欲、怒り、ねたみ、大食らい、怠慢、ふしだらの七つの欲望に大川ヒロキ、大門、横田栄司、たかお、斎藤、中野富吉、大林素子が扮する。長台詞を言い終えた中野にはメフィストから拍手が起こり、出番の前には盛んに照れていた大林もセクシーなランジェリー姿で色気を振りまき、大いにシーンを盛り上げていた。 さらに場面は進み、ファウストとメフィストの諸国遍歴を経て最終景。ここまで出番のない騎士ベンヴォーリオ役の長塚が、一幕ラストにはなんと歌舞伎一座の酔っ払い座員として賑やかす一場面が差し込まれている。
 そして気づけば、一度も止まることのないまま一幕は終わっていた。
 ニヤニヤ笑いながら「通しちゃったよ、マズイなぁ」と誰に聞かせるともなく言う演出家。俳優もスタッフも終了直後は、やや放心の体だった。

 もはやこの勢いは誰にも止められない。疾走する蜷川幸雄とカンパニーの演劇的飛行は、ファウストとメフィストフェレスの遍歴にも負けぬ速さと距離、そして深さを見せ始めている。

文:尾上そら(演劇ライター)

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