混沌から立ち上がるふたつの劇世界、その謎に惑う〜『ファウストの悲劇』観劇レポート

 急な雨に追われるように飛び込んだシアターコクーンは、いつもと違う表情で観客を迎えた。2階客席下にズラリと灯る赤い提灯、舞台には三色の定式幕。つい先日まで上演されていた歌舞伎の時間にタイム・スリップしたかのような感覚に陥る。客席もこの趣向に期待と微かな緊張を感じているようで、開演前のアナウンスもないのに急にざわめきは静まり、咳払いだけが聞こえる数分が続く。と、幕の内側から拍子木の音。その音に応える拍手のなか、片目の口上役・木場勝己が現れ、大学者から魔道へと堕ちゆくファウスト博士の運命を朗々と語り、開幕を告げる。幕を引き開ける黒子は……勝村政信だ! 
 幕の内側では豪奢な椅子に悠然と座る野村萬斎演じるファウストの姿。周囲では天使や悪魔たちが上下左右に飛び交い、同時に書斎と見えた部屋の後ろに薄く灯りが差し込むと、歌舞伎小屋の楽屋風景が透けて表れる。和洋の装束を脱いだり着たり、走りまわる座員の姿と魔術的風景が融け合い、一瞬にして客席は未知の世界へと引き込まれていった。
 
 マーロウが書いた『ファウストの悲劇』は、学問という学問を究め、名を成したファウストがそれでは飽きたらず、魔術に魅せられ、悪魔に魂を売ってまでさらなる「力」を手に入れようとして破滅する物語。善と悪、生と死、喜劇と悲劇。相反する言葉や場面、思索が矢継ぎ早に舞台上に表れては消える破天荒な作品だ。その図り知れぬ世界を舞台上に定着させるため、演出・蜷川幸雄は劇世界をもうひとつ外側からくるみこむ仕掛け=『ファウストの悲劇』を上演する歌舞伎一座、を用意した。魔法や魔術という作り事でしか表現できないものを、さらに異化する多重構造の演出。その見世物小屋的な猥雑さが、古典と呼ぶべき戯曲に生々しい息吹を吹きこむ。
 
 趣向はまだまだ続く。
 さりげなく転換に加わり、時にはファウストの芝居を袖からじっと見守る白井晃は、ファウストの弟子役であると同時に歌舞伎一座でも座長づきの番頭と言った風情。ふたつの世界をつなぐ“もうひとつの物語と人間関係”が、ファウストの物語を追いながら常に観客の目の端、意識に流れこんでくるのだ。こうなると、舞台への集中度が俄然上がってくる。
 表を流れるファウスト博士の遍歴と転落の一部始終に、歌舞伎一座の日常がらせん状に絡み合う。少しでも目を離すと、裏のドラマを見逃してしまう。そんな思いから、観客は劇世界に縛りつけられたも同然の体。
 
 ふたつの劇世界は、ドラマが進むほどにさらに観るべきものを数多く提示してくる。舞台奥の楽屋ばかりか、奈落の底での衣裳替えや、フライングの準備までを見せる装置。さらに勝村演じるメフィストは上空、客席、二階席に一座の楽屋とまさに神出鬼没。悪魔の役そのままに劇世界をひっかき回し、客席はおろか共演者をも幻惑するつもりか、という勢い。
 一転、ファウストとメフィストの男ふたりのタンゴや、魂の授受に関する契約の場には、死を予感させるような、ある種の官能が漂う。
 木場と大門伍朗が、田舎者の馬番と料理人として演じる喜劇の一場は、一見脈絡はないものの、見続けるうちにファウストの視線の外に広がる世界の広さ、生きること・生き方への庶民的しぶとさの象徴に思えてくる。
 
 劇世界の混沌は二幕でさらに加速していく。
 騎士ヴェンヴォーリオを演じる長塚圭史の登場は二幕から。だが一幕途中から、歌舞伎一座での彼の挙動はとみに目の離せなくなっていた。長塚演じる役者は常に周囲と反目している。女形の着物を剥ぎとり、酒を飲み、衣裳替えに戻った座長に酔った勢いで物申す。すべて台詞のない黙劇であり、ファウストのドラマの背景になっているにも関わらず、その若い役者の苛立ちと憤りを、つい視線は追いかけてしまう。
 その結果、二幕で初めて現れるにも関わらず、ドイツ皇帝の城に招かれたファウストに敵意と侮蔑をむき出しにし、挙句とんでもない恥ずかしめを受けて退場するというヴェンヴォーリオの短い登場シーンが、実に生き生きと立ち上がって来るのだ。長塚だけでなく他の俳優たちも、演出プランとして用意された仕掛けを、倍加させる芝居どころをそれぞれ楽屋場面につくっており、これは演出家にとっても嬉しい誤算だったのではないだろうか。
 
 メフィストとの契約の期限、24年のときが終わりに近づくにつれ、ドラマのトーンは深い陰影を帯びていく。揺れ続ける主人公ファウストが苦悩を吐露する長い台詞は、観客と演者、ともに見どころ・魅せどころ。古典と和の要素をその身に染み込ませた萬斎ファウストの朗唱は、戯曲が生まれたその日と今日を一瞬で結ぶ魔法のように劇場に響きわたる。そして、ここにも弟子とも番頭とも判じかねる、不思議な白井の視線が主の終演を不安げに、けれど静かに見つめている。
 
 終幕、契約どおり魂を奪われるファウストは、声なき哄笑を放つメフィストの腕の中、甘美にも思われる抱擁のうちに神の救いの届かぬ場所、永劫の死へと堕ちていく。彼は愚かで不幸だったのか。再び現れ、答えのない永遠の問いを締めくくる冒頭の口上役の背には悪魔の翼。そしてよくよく考えるに、口上の目に刻まれた傷はマーロウが受けた致命傷に重なるもの。
 
 この混沌のドラマ、ファウストの惑いと苦悩に答えられる者は誰なのか。作者マーロウは何を見通し、何を見通し切れず死んだのか。答えは謎に翻弄されつつ、観客自身が劇場で探るほかはない。片目や魂を奪われぬよう、心しながら。
 

文:尾上そら(演劇ライター)
写真:谷古宇正彦

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