女なしには生きられなかった男

『コースト・オブ・ユートピア』の主要登場人物のなかで最も有名なのがイワン・ツルゲーネフでしょう。小説『初恋』『父と子』や、チェーホフ劇の先駆けとも言われる戯曲『村のひと月』で知られるロシア文学を代表する作家の一人です。
 
ツルゲーネフの人物像を語る上で最も欠かせないものは「女」です。彼は友人にこう語ったそうです。
 
私は一生、女を中心に生きてきました。書物も、そのほかの何ものも、私にとって女には代えられません……女への愛だけが他の何ものもが与え得ないような、すべての本質の開花を呼び起こしてくれるのです。
 
なかでも、ツルゲーネフの人生に大きな影響を与えた女性が二人います。まずは彼の母親です。
 
彼の母ヴァルヴァーラは5000人の農奴を所有する専制的な女地主で、日々農奴を虐待し、些細なことでシベリアへ送られる者やひどい折檻を受ける者が後を絶ちませんでした。支配欲の激しい彼女は息子たちを溺愛しながら、幼い頃の彼らに理由もなく鞭打ちを加え、自分の愛に応えない彼らを憎んで、晩年には遺産を残すまいと画策しました。
 
この横暴な母親に対してツルゲーネフが抱いた憎しみは農奴制に対する憎しみと一体となり、彼の小説デビュー作である『猟人日記』として結実します。短編集『猟人日記』は、田舎に狩りに出た貴族が農奴たちとの出会いを綴っていく作品で、人間的な農奴が野蛮な地主に所有されることに対する疑問を読者の心に呼び起こしました。皇太子時代にこれを読んだ皇帝アレクサンドル2世は農奴解放の必要性を痛感したと言われます。ロシアに大きな変化をもたらしたのは、情熱的な革命家、活動家ではなく、ロシアの現実を冷静で鋭い観察眼で見つめ、シンプルかつ豊かな文体で綴り続けた一作家だったというのが皮肉なオチですが、その根源をたどるとツルゲーネフと母親との関係に行き着くというのが興味深いところでしょう。
 
そして、ツルゲーネフの人生を語る上で欠かせないもう一人の女が、ヨーロッパのオペラ界随一のメゾソプラノにして女優のポーリーヌ・ヴィアルドーです。
 
ツルゲーネフは1843年、ペテルブルグに巡演した『セビリアの理髪師』を観て恋に落ち、ヴィアルドー夫妻と親交をもちます。彼はすべてを投げ打ってヴィアルドー夫人に入れあげます。第2部『難破』で、パリからロシアへ帰国するベリンスキーをみんなで見送るシーンにツルゲーネフも登場しますが、史実上のツルゲーネフはベリンスキーをドイツの療養先に残したままヴィアルドー夫人を巡業先のロンドンへ追っかけ、生涯の師ベリンスキーとはそれっきりになってしまいました。ひどい話です。一方ヴィアルドー夫人のほうは、ツルゲーネフを自分たちのフランスの家に何年も住まわせたりしますが、特に彼に惹かれたというわけでもなかったようです。それでもツルゲーネフの母の死後、ヴィアルドー夫人は彼の人生を支配する唯一の女性となり、1883年に死を看取ってもらうまで、ツルゲーネフが一方的に情熱を捧げる奇妙な関係が続きました。ポーリーヌ・ヴィアルドーは人妻であり容姿も醜かったため、多くの人々がツルゲーネフの恋を理解しませんでしたが、彼は「美は人間の個性のなかでこそ輝くものである」と語りました。
 
ツルゲーネフはヴィアルドー夫人以外にも多くの女性と関係をもったプレイボーイです。第1部『船出』ではミハイル・バクーニンの妹タチヤーナとの(たぶん)プラトニックな恋愛が描かれますし、その他にも何人かの女性との性的関係について語ります。ツルゲーネフはハンサムで気品のある美男子でした。その優しく魅力的な目で見据えられた女はみんな彼の虜となり、気分を燃え上がらせずにはいられません。ところがツルゲーネフは、相手が燃えているのを知ると一気に冷めてしまうタイプの男だったようです。常に自分から女に燃えていて、女を追いかけていなければならないのです。タチヤーナとのロマンスにもそんな面がうかがえますし、ヴィアルドー夫人もツルゲーネフのそういう気質を本能的に見抜いていたのかもしれません。母性に欠ける残忍な母親との愛憎関係で完全な一体感を得ることができなかったことの影響でしょうか、ツルゲーネフの女性関係にはなにかフェティッシュなものが漂っているように感じられます。『コースト・オブ・ユートピア』の物語の大半はラブストーリーから成り立っていますが、ツルゲーネフの恋愛観はそこに妖しい彩りを添えています。
 
それはともかく……『コースト・オブ・ユートピア』の舞台となったロマン主義全盛時代には、多くの人々が手に届かないものに憧れ、大きな夢を抱いていました。多くの活動家たちが到達不可能なユートピアを生涯追い求める一方で、ツルゲーネフはひそかに(とは言っても周囲にはバレバレで、みんな呆れていましたが)決して自分のものにはならない女を生涯追い続けた──それもまた、物語のちょっとしたオチかもしれません。
 
 

広田敦郎(ひろたあつろう/Atsuro Hirota)

1970年大阪府生まれ。劇団四季勤務を経て、97年よりTPT (シアタープロジェクト・東京)の多くの公演に演出部、翻訳、ドラマトゥルクなどで参加。
翻訳上演作品:サイモン・スティーヴンズ『広い世界のほとりに』、イングマール・ベルイマン『ある結婚の風景』、ロルカ『血の婚礼』、デヴィッド・マメット『アメリカン・バッファロー』『カモの変奏曲』、ハイナー・ミュラー『カルテット』、チェーホフ『三人姉妹』、エドワード・オルビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?』、マーティン・シャーマン『BENT』(以上、TPT@ベニサン・ピット) パトリシア・ハイスミス原作『見知らぬ乗客』、サム・シェパード『TRUE WEST』(以上、東京グローブ座)
次回作品:ロルカ『血の婚礼』(TPT@BankART Studio NYK)、ニール・ラビュート『キレイじゃなきゃいけないわけ』(TPT)

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