『コースト・オブ・ユートピア』で最も鮮烈な印象を残す登場人物はおそらく文芸批評家のヴィッサリオン・ベリンスキーでしょう。彼の名前を知っている人は一般的にほとんどいないと思いますが、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーらロシア文学を代表する作家の作品が現在世界中で愛読されているのは、ベリンスキーの文芸批評があってこそと言っても過言ではありません。劇中、ベリンスキーはこう語ります。
「ロシア」と聞いて偉大な作家の名前が真っ先に思い浮かぶようになれば、仕事は完了だ。
日本でもドストエフスキーらの超大作が次々と新訳されて大きな話題を呼んでいる現状を見れば、ベリンスキーの仕事は完了どころか大大大成功だったと言えるでしょう。
トム・ストッパードさんが『コースト・オブ・ユートピア』を書くにあたり最初のインスピレーションとなったのは、この若き文芸批評家ベリンスキーだったそうです。19世紀半ば、皇帝ニコライ1世による圧政下にあったロシアでは政治的言論が厳しく統制され、文学だけが──文学という、物事を比喩のオブラートに包んで表現できる媒体だけが──唯一の言論の場となっていました。人々は文学を語ることで社会や自由について間接的に語ったのです。
36歳の若さで亡くなる一年前、ベリンスキーは結核の療養でドイツの温泉に滞在した後、パリに立ち寄ります。秘密警察「第三部」による監視の厳しいロシアへ帰国するベリンスキーを友人たちは引き留めますが、彼はこう語ります。
ロシアの人々は作家を本物の指導者と見ている。詩人や小説家という肩書きは我々にとって本当に意味のあるものなんだ。僕の記事は検閲で削られてしまう。けれど学生たちは〈同時代人〉誌の発売の一週間前から本屋にたむろして、まだ届かないかと催促をする……そうして彼らは夜通し議論して、記事をみんなに回していく……パリの作家がそれを知れば、荷物をまとめてモスクワかペテルブルクへ飛んでいくよ。
チェコ生まれのイギリス人であるストッパードさんはベリンスキーの生涯に、共産主義政権下のチェコのアーティストたちと相通じるものを見ました。1990年代、自由になったチェコのアーティストのあいだには、彼らの仕事が大きな意味をもっていた共産主義時代を懐かしむような空気があったそうです。圧政下でこそ芸術が社会にとって重要な役割を演じることになるというのは大きな皮肉です。
ということで、ベリンスキーはおそらくロシア文学史上最大の批評家なのですが、とても変わった人物でもあったようです。ベリンスキーは友人たちの多くとは異なり、貴族ではなく「雑階級」と呼ばれる貴族でも農民でもない階級の出身であったことから常に引け目を感じ、極度な人見知りをする社交下手だったおかげで、しばしば人前で失態を演じました。そのくせ文学の話が始まると俄然元気になり、周囲を顧みることなく自説をまくしたて、(持病の結核による)咳き込みから息がもたなくなるまで毒舌を振るいました。仲間内では「狂乱のヴィッサリオン」とあだ名されていたそうです。
『コースト・オブ・ユートピア』でも、ベリンスキーは愛すべき変わり者としてスラップスティックに登場し、物語の笑劇的なベクトルを担います。同時に、彼はニコライ・スタンケーヴィチ、ミハイル・バクーニン、アレクサンドル・ゲルツェンらの影響で思想的立場を次々と変えていき、変化の苦しみや実際の生活苦と闘いながら批評をつづけます。苦しみながらもありったけのエネルギーを振り絞り、文学ついて、社会について語るのです。時には的外れで不当な批評を行うこともあったようですが(今日あまり知られていない作家はベリンスキーが評価しなかった作家だったりします)、苦しみから生まれる爆発的なエネルギーこそベリンスキーの言葉や人柄を魅力的なものにしています。
蜷川さんが稽古場で何度かこうおっしゃていました。
最近の若者は姿勢が良すぎるんだ。もっと屈折しろ。
「ブレない」という言葉が褒め言葉として頻繁に使われ、物事を単純でクリアカットな表現で自信満々に語ることを美徳とする風潮が蔓延するなか、舞台の上で七転八倒するベリンスキーを見ていると、屈折しながら生きていくことの勇気を教えられるような気がするのです。
広田敦郎(ひろたあつろう/Atsuro Hirota)
1970年大阪府生まれ。劇団四季勤務を経て、97年よりTPT (シアタープロジェクト・東京)の多くの公演に演出部、翻訳、ドラマトゥルクなどで参加。
翻訳上演作品:サイモン・スティーヴンズ『広い世界のほとりに』、イングマール・ベルイマン『ある結婚の風景』、ロルカ『血の婚礼』、デヴィッド・マメット『アメリカン・バッファロー』『カモの変奏曲』、ハイナー・ミュラー『カルテット』、チェーホフ『三人姉妹』、エドワード・オルビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?』、マーティン・シャーマン『BENT』(以上、TPT@ベニサン・ピット) パトリシア・ハイスミス原作『見知らぬ乗客』、サム・シェパード『TRUE WEST』(以上、東京グローブ座)
次回作品:ロルカ『血の婚礼』(TPT@BankART Studio NYK)、ニール・ラビュート『キレイじゃなきゃいけないわけ』(TPT)
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