愛について語るときに彼らの語ること

ユートピアの岸を目指す旅は1830年、モスクワから約240キロ北西にあるプレムーヒノの地から始まります。ここは『コースト・オブ・ユートピア』の主人公の一人、アナーキズム=無政府主義の革命家として後世に名を残す貴族ミハイル・バクーニンの一家の領地です。
 
プレムーヒノにはミハイルの両親と4人の姉妹、バクーニン家の「資産」である農奴たちが農夫として、あるいは召使として暮らしています。ついでに言うと実際には、ミハイルには姉妹のほかに5人の弟がいたそうです。作者のトム・ストッパードさんいわく、彼らまで登場させると収集がつかないので、今回登場しない兄弟に関する芝居を書くのはだれか別の人に任せましょうとのこと。
 
ロシアの田園生活……4人の姉妹……これでかなりのかたがピンと来ることでしょう。豊かな自然に囲まれたこの土地でくり広げられるのは、20世紀以降世界じゅうの劇場で最も重要なレパートリーの一つとなったチェーホフ作品の世界です。
 
ミハイル・バクーニンは砲兵士官学校を卒業して軍隊に入りますが、「外的生活」の苦痛を逃れようとあっという間に除隊、「精神の生活こそ真の生活」と信じて、当時流行していたドイツ観念論哲学の勉強に熱中します。彼はモスクワで出会った若き哲学者ニコライ・スタンケーヴィチや、スタンケーヴィチが主催する哲学サークルのメンバーで文芸批評家のヴィッサリオン・ベリンスキーを、地上の楽園プレムーヒノへいざないます。バクーニンが留学先のベルリンで知り合った詩人志望の若者イワン・ツルゲーネフも帰国後プレムーヒノを訪れます。チェーホフの『三人姉妹』でプローゾロフ家を訪れる男たちがみんな恋をするように、プレムーヒノを訪れる若者たちは知的で情熱的なバクーニン姉妹に恋をします。ところが現実の恋愛に踏み切れない若者たちは素直に愛の言葉を交わすことなく、(ヴェルシーニン中佐やトゥーゼンバッハ男爵のように)哲学の話をまくしたてるばかり。報われない恋の連鎖がつづき、めでたくゴールインするカップルは一組もありません。
 
この3部作は──特にロシアを舞台にした第1部から主人公ゲルツェンがヨーロッパへ旅立つ第2部までは──チェーホフのお芝居を連想させる言葉や情景から成る愉快で壮大なパロディです。実際、毎日稽古を見ていますと、チェーホフ的情景のデジャヴュが連続することに驚かされます。恥を忍んで言いますが、僕は翻訳作業中、ここまでチェーホフが散りばめられているとは思っていませんでした。トム・ストッパードさんはバクーニン一家とプレムーヒノというチェーホフ的世界を舞台にしたチェーホフ的戯曲を書きたかったのだそうです(ストッパードさんは『かもめ』『イワーノフ』『桜の園』の英語ニューバージョンも手掛けています)。そういうわけで、第1部のドラマはバクーニンの家族の物語を軸に進み、アレクサンドル・ゲルツェンは第1部第2幕になって数シーン登場するだけです(登場すると、これでもかと言うほどしゃべり倒しますが)。その点は例えば『アンナ・カレーニナ』にアンナ・カレーニナが待てど暮らせど登場しないのと同じで、作品の長さも含め、トルストイやドストエフスキーのようなロシアの長大な文学作品へのオマージュのようになっているのかもしれません。
 
ともかく、19世紀ロシア革命思想家たちの大歴史ロマンは意外や、軽妙でロマンチックで、時に下世話で、時にほろ苦いラブコメで船出を切るわけです。重厚長大なイメージばかり先行しがちな『コースト・オブ・ユートピア』ですが、いざ蓋を開けてみるとユーモアとペーソスが絶妙のバランスで漂う9時間、とってもしゃれた航海です。まあ、9時間ぶっ通しで眉間にしわを寄せながら舞台とにらめっこできる人というのは、世の中にはあんまりいないでしょうし……結局のところ舞台に描かれるのは、ままならぬ世の不条理に日々直面し、それでも力を振り絞って食らいつこうとする人間たちの姿──恋と挫折、夢と失望をくり返す若者たちの格闘記です。世界のすべてのお芝居と同じく、そこに重なるのは当然、矛盾だらけの人生や不機嫌な時代をなんとか切り抜けようともがき、時にはユーモアで笑い飛ばす僕らの生活、それ以外のなにものでもありません。
 
ですから、いかにも頭の良さそうな登場人物たちが意味不明な哲学用語を賢しらに連発しても──「存在」とか「超越」とか「観念」とか「内的生活」とか「外的生活」とか「絶対的なるもの」とか「歴史の弁証法」とか──どうか心にシャッターを下ろさないで、若気の至り、恋に悩むロマンチストたちのうわごとということで、おおいに笑って許してあげてください。

広田敦郎(ひろたあつろう/Atsuro Hirota)

1970年大阪府生まれ。劇団四季勤務を経て、97年よりTPT (シアタープロジェクト・東京)の多くの公演に演出部、翻訳、ドラマトゥルクなどで参加。
翻訳上演作品:サイモン・スティーヴンズ『広い世界のほとりに』、イングマール・ベルイマン『ある結婚の風景』、ロルカ『血の婚礼』、デヴィッド・マメット『アメリカン・バッファロー』『カモの変奏曲』、ハイナー・ミュラー『カルテット』、チェーホフ『三人姉妹』、エドワード・オルビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?』、マーティン・シャーマン『BENT』(以上、TPT@ベニサン・ピット) パトリシア・ハイスミス原作『見知らぬ乗客』、サム・シェパード『TRUE WEST』(以上、東京グローブ座)
次回作品:ロルカ『血の婚礼』(TPT@BankART Studio NYK)、ニール・ラビュート『キレイじゃなきゃいけないわけ』(TPT)

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