第38回 2006年3月26日(日)15:30開演
モーツァルト生誕250周年記念
2006年はモーツァルトの生誕250周年にあたります。それを祝して、世界最高の弦楽四重奏団であるアルバン・ベルク弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者として名声を博し、指揮者としても活躍するギュンター・ピヒラー(1940年生まれ)がオール・モーツァルト・プログラムを指揮します。モーツァルトの最後の交響曲である「ジュピター」や名曲「フィガロの結婚」序曲で、ピヒラーがウィーン流のモーツァルトを披露してくれるに違いありません。ピアノ協奏曲第20番で独奏を務めるパスカル・ドバイヨン(ドゥヴァイヨン)は、1953年、パリ生まれのベテラン・ピアニスト。こちらはフランス流のエレガントなモーツァルトが楽しめることでしょう。
〈オール・モーツァルト・プログラム〉
指揮:ギュンター・ピヒラー
ピアノ:パスカル・ドゥヴァイヨン
モーツァルト:
歌劇「フィガロの結婚」序曲
ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
指揮:ギュンター・ピヒラー
ピアノ:パスカル・ドゥヴァイヨン
【曲目解説】山田治生
今回、指揮を務めるギュンター・ピヒラーさんは、世界最高の弦楽四重奏団で あるアルバン・ベルク四重奏団のリーダーを35年以上にわたって務めている、偉大なヴァイオリニストです。18歳でウィーン交響楽団のコンサートマスターになり、21歳でウィーン・フィルのコンサートマスターに就任するなど、若くしてウ ィーンの中心的な音楽家となりました。
1970年にアルバン・ベルク四重奏団を結成したため、ウィーン・フィルからは離れたものの、ピヒラーさんは確実にウィーンの音楽的伝統の最良の部分を受け継いでいます。特にモーツァルトの解釈には定評があり、アルバン・ベルク四重奏団の奏でるモーツァルトは、世界最高のモーツァルトと評価され続けています。
ピヒラーさんが指揮活動を始めたのは1989年。アルバン・ベルク四重奏団の活動の傍らとはいえ、既に十分な指揮経験を積んだマエストロ・ピヒラーがNHK交響楽団を相手にどんなモーツァルト演奏を披露してくれるのか、期待に胸がふくらみます。特に名ヴァイオリニストであるピヒラーさんがN響の弦楽器パートからどんな音を引き出すのか興味津々です。そして、ピアノ協奏曲第20番でのフランス出身のパスカル・ドヴァイヨンさんとの共演も楽しみです。
◆生誕250年を迎えたモーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは今からちょうど250年前の1756年1月27日にオーストリアのザルツブルクで生まれた。宮廷音楽家の父レオポルトに幼くして才能を見出され、父の英才教育を受けたモーツァルトは、父とヨーロッパ中(ドイツ、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイス、イタリアなど)を旅行し、各地で神童として騒がれると同時に、イタリアやフランスの音楽を吸収していった。そして、13歳からザルツブルクの宮廷音楽家になった。
しかし、ザルツブルクの大司教との軋轢があり、1777年に職を辞して、就職口を求めて、パリやマンハイムへ行った。だが就職先は見つからず、失意のなかザルツブルクに帰ることになる。いったん、ザルツブルクの宮廷音楽家に復職するものの、結局、1781年に大司教とケンカ別れする形でザルツブルクと決別し、ウィーンを本拠地とした。そしてモーツァルトは、1791年12月5日に他界するまでの約10年間、ウィーンに暮らし続けた。
本日演奏される3つの作品は、すべてウィーン時代に書かれたものであり、まさにモーツァルトの円熟期を代表する傑作といえる。モーツァルトの生誕250周年を祝うのにこの上なくふさわしい選曲である。
◆歌劇「フィガロの結婚」序曲 K.492
歌劇「フィガロの結婚」は、モーツァルトのオペラのなかで最も人気の高い作品といえるだろう。イタリアの台本作家、ロレンツォ・ダ・ポンテと組んだ3つのオペラの第1作(あとの2つは「ドン・ジョヴァンニ」と「コジ・ファン・トゥッテ」)。1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で初演された。ストーリーは、次の通り。アルマヴィーヴァ伯爵は、夫人との愛も冷め、フィガロの婚約者で小間使いのスザンナを狙っている。フィガロとスザンナの結婚式の当日、スザンナに横恋慕する伯爵は、彼女との逢引きを試みるが、伯爵夫人とスザンナの作戦によって、まんまと失態を演じることになる。それでも伯爵夫人が伯爵を赦し、大団円となる。
序曲は、オペラの本編から音楽を引用していないが、オペラの登場人物たちの繰り広げる人間ドラマを想像させる、生き生きとした音楽に満ちている。
◆ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
ピアノ協奏曲第20番は、モーツァルトがピアノ協奏曲で書いた初めて短調の作品である(モーツァルトの短調のピアノ協奏曲は、ほかに「第24番ハ短調 K.491」があるのみ)。それまで協奏曲は独奏者の華麗な技巧を披露するために明るい長調で書かれるのが普通であったが、この協奏曲はドラマティックで悲劇的な短調で書かれた。その意味でこの作品はかなり画期的な協奏曲であったといえる。また、独奏ピアノとオーケストラとが一体化して、交響的な響きを作り上げているところも特筆されよう。1785年2月11日、ウィーンの集会所「メールグルーベ」での予約演奏会で、モーツァルト自身の独奏により初演された。その後、ベートーヴェンがこのニ短調の協奏曲を好んで弾いたという。
第1楽章:アレグロ。弦楽器による不安げなシンコペーションで始まる。オーケストラによる劇的な提示部の後、独奏ピアノが登場する。短調の主題だけでなく長調の主題も現れ、劇的な音楽と優美な音楽との緩急の変化が素晴らしい。楽章の終わり間際に独奏ピアノのカデンツァがある。
第2楽章:ロマンス。緊張感の高い第1楽章とは対照的な、安らかな音楽。澄んだ美しさが感じらる。三部形式がとられ、中間部は激しい短調の音楽となる。
第3楽章:アレグロ・アッサイ。独奏ピアノの速いパッセージで始まる。悲しみを背負って駆け抜けていくかのようである。独奏ピアノのカデンツァを経て、最後は、ニ短調からニ長調に転じて、明るく締め括られる。
◆交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
モーツァルトは、1788年の夏、交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」の3つの交響曲を一気に作曲した。結局、彼の最後の交響曲となってしまった第41番「ジュピター」は、交響曲第40番の完成後、わずか2週間あまりで書き上げられたといわれている。
1782年に歌劇「後宮からの逃走」の成功によって、ウィーンで圧倒的な支持を得たモーツァルトだが、1788年頃には、オーストリアが参戦したトルコ戦争の影響で貴族が音楽を楽しむ余裕を失い、モーツァルトの人気もかげり、彼は借金を重ねるようになっていった。経済的危機に瀕したモーツァルトは、次第にフリーメーソンに傾倒していき、創作での関心も、聴衆よりも自分自身の世界に向けられていった。
モーツァルトが最後の三大交響曲を作曲した理由は不明である。そのため、モーツァルトが純粋に自らの芸術的欲求に従い、自らのために書いたのだろうと長い間考えられてきた。しかし、近年の研究では、モーツァルトがウィーンやイギリスでの演奏会を念頭に作曲した、あるいは、3曲をセットにして出版することを意図していたなどの仮説が提起されている。また、初演に関しても、モーツァルトの生前には演奏されなかったと信じられてきたが、最近の研究では生前に初演されたとの考えが一般的になっている。
モーツァルトが最後の3つの交響曲を作曲した1788年に、彼は32歳になっていたが、1791年に35歳で亡くなるまで、モーツァルトはもう二度と交響曲を書き上げることがなかった。交響曲第41番は、モーツァルトという天才をして、これを乗り越えるには困難であると思わせるほどの完成度の高い作品であったに違いない。
「ジュピター」という名称は、モーツァルト自身によるものではなく、ハイドンをイギリスに招き、最初にベートーヴェンの才能を見出した、ロンドンの興行主ザロモンによって付けられたものだといわれている。そして、この天衣無縫の古典美の体現ともいえる交響曲をローマ神話の天空神にたとえたニックネームは、現在も使われ続けている。
第1楽章:アレグロ・ヴィヴァーチェ。冒頭に現れる簡潔で力強い第1主題とヴァイオリンが優美に歌う半音階を用いた第2主題とのコントラストが見事である。
第2楽章:アンダンテ・カンタービレ。弱音器をつけたヴァイオリンが典雅な旋律を歌う。
第3楽章:メヌエット、アレグレット。下降音型による主題にモーツァルトらしい気品が感じられる。トリオの後半で、第1ヴァイオリンが第4楽章の第1主題の音型を先取りする。
第4楽章:モルト・アレグロ。対位法的な技巧を最大限に駆使しながら、最高の古典美を誇るソナタ形式が築き上げられている。第1主題(ドレファミ)も第2主題(レシミ)も弦楽器のスラーで現れるが、この2つの音型は、アクセントが付けられて強奏されたり、転調したり、縦横無尽に姿を変えながら、ポリフォニックで生命感あふれる音の宇宙を作り上げていく。
メールマガジンでご紹介した指揮者:ギュンター・ピヒラーのインタビューの模様