第34回 2005年5月29日(日)15:30開演
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
チェロ:トルルス・モルク
ペルト:BACH主題によるコラージュ
ハイドン:チェロ協奏曲第1番ハ長調Hob.VUb-1
シベリウス:交響曲第2番ニ長調op.43
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
チェロ:トルルス・モルク
※やむをえず出演者、曲目等が変更になる場合があります。予めご了承ください。
【曲目解説】山田治生
パーヴォ・ヤルヴィは、周知の通り、世界的指揮者ネーメ・ヤルヴィの息子です。膨大なレパートリーを誇る父から大きな影響を受けた彼は、旺盛な好奇心を持ち、様々な音楽に取り組んでいます。そのなかでも、彼の祖国エストニア、および、北欧の音楽は、パーヴォにとって最も重要なレパートリーとなっています。本日は、エストニアを代表する作曲家のペルトとフィンランドの大作曲家、シベリウスの作品が採り上げられます。ペルトについては言うまでもありませんが、フィンランドはエストニアと文化的にも距離的にも近く、パーヴォはシベリウスの音楽も得意と しています。ペルトの「BACH主題によるコラージュ」はエストニア国立交響楽団と、シベリウスの交響曲第2番はシンシナティ交響楽団と録音するなど、この2つの作品はパーヴォにとって十八番と言えるでしょう。
ハイドンのチェロ協奏曲第1番で独奏を務めるトルルス・モルクはパーヴォ・ヤルヴィの盟友とも呼べる存在です 。今までにレコーディングでの共演も多く、今シーズンは、ロンドン(BBC交響楽団)、パリ(フランス国立放送フィル)、ミュンヘン(ミュンヘン・フィル)のコンサートでも共演して います。東京ではどんな息の合った演奏を聴かせてくれるのか、とても楽しみです。
◆ペルト:BACH主題によるコラージュ
パーヴォ・ヤルヴィの故郷であるエストニアは、バルト海に面したバルト三国 (他の二つはラトヴィアとリトアニア)のうちの最も北に位置する国である。ロシアに隣接し、ソビエト連邦の支配を受けていたが、言語的には、エス トニア語はバルト海をはさんで対岸に位置するフィンランドの言葉と近いという。エストニアからは、エッレル(1887〜1970)、トゥビン(1905〜82)、トルミス(1930年生まれ)、ペルト(1935年生まれ)、スメラ(1950〜2000)、トゥール(1959年生まれ)などの優れた作曲家が輩出されているが、そのなかで最も有名なのがペルトである。
アルヴォ・ペルトは、1935年、エストニアのパイデという町に生まれた。ペルトが生まれた当時、エストニアは、独立国であったが、第二次世界大戦中にソビエト連邦の領土となり、1991年にソビエト連邦が崩壊するまで同国の支配を受けた。エストニアのタリン音楽院でエッレルに学び、最初は、12音技法などに取り組むなど、ソビエト連邦では珍しい前衛的な作曲家として注目された。1964年に交響曲第1番「ポリフォニック」を、1966年に交響曲第2番を発表。その後、中世・ルネサンスの音楽に興味を抱いたペルトは、「フラトレス」(1977)や「ベンジャミン・ブリテンへの追悼」(1977)など、「鈴」を意味する「ティンティナブリ」様式に基づく静かでシンプルな音楽を書き始めた。1980年代にウィーンに移り、ベルリンで自由な創作活動を始め、現代を代表する作曲家の一人となっている 。
本日演奏される「BACH主題によるコラージュ」は、1964年に作曲された。BACHとは、もちろんバッハのことであるが、同時に「B(シ♭)-A(ラ)-C(ド)-H(シ)」という音の並びをも意味する。このコラージュでは、バッハの作品(イギリス組曲第6番のサラバンドなど)からの引用のほか、「BACH(シ♭-ラ-ド- シ)」の動機が用いられている。全体は、快活な「トッカータ」、オーボエが歌う「サラバンド」、フーガ的な「リチェルカーレ」の3曲からなり、バロック音楽的な語法と現代的な響きの融合が図られている。全曲の演奏時間は8分ほどである。
◆ハイドン:チェロ協奏曲第1番 ハ長調 Hob.b-1
ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)は、1761年から1790年まで、エステルハージ家に仕え、この貴族の持つオーケストラのために夥しい数の交響曲を作曲した。協奏曲に関しては、それほど多くの作品を残さなかったが、いくつかのチェロ協奏曲も書いた。現在、はっきりとハイドンが作曲したとされるチェロ協奏曲は2曲が知られているが 、実際にはもう少し作曲されただろうと推測されている。
本日演奏される「チェロ協奏曲第1番 ハ長調」は、1760年代の前半に書かれたにもかかわらず、長い間、存在をかえりみられることなく眠っていた作品であり、ようやく、1961年にプラハの国立博物館で楽譜が発見された(何と、200年にわたる眠りであった!)。1761年にハイドンの推薦によってエステルハージ家のオーケストラにやってきたチェロ奏者、ヨーゼフ・ヴァイグルのために作曲されたと言われている。この協奏曲や美しいチェロのソロを含む 同時期の交響曲の存在から、ヴァイグルは相当優れたチェリストだったことが推測される。1760年代前半に書かれたこのチェロ協奏曲第1番は、1783年に作曲されたチェロ協奏曲第2番が古典的な協奏曲であるのに対し、バロック的な要素を残している。全体は3つの楽章からなる。
第1楽章:モデラート。協奏曲風ソナタ形式を採っているが、ソロとトゥッティ(全奏)を対比させる、バロック音楽のリトルネロ形式の痕跡も残している。オーケストラのとても快活な第1主題で始まり、ヴァイオリンが旋律的な 第2主題を奏でる。そして、独奏チェロが登場する。
第2楽章:アダージョ。三部形式。独奏チェロがゆったりとした優美な旋律を歌う。中間部では少し翳りを帯びる。
第3楽章:アレグロ・モルト。協奏曲風ソナタ形式。明るく駆け抜けていくような音楽。バロック音楽的な要素も残 している。
◆シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 作品43
ジャン・シベリウス(1865〜1957)はフィンランドの国民的な大作曲家である。交響曲、交響詩、協奏曲などに傑作を残したが、とりわけ交響詩「フィンランディア」(1899)は、帝政ロシアの圧政に対するフィンランド人の愛国心をかき立てる音楽として人気を博し、フィンランドの象徴として現在に至るまで世界中で演奏され続けている。
シベリウスは、1865年、ヘルシンキから北に100キロ ほどの位置にあるハメーンリンナという町で生まれた。2歳で医者だった父を失い、親戚のもとに身を寄せることになった。幼い頃からピアノに親しんでいたが、14歳で出会ったヴァイオリンに夢中になる。そして、ヘルシンキ大学で法律を学ぶかたわら、ヘルシンキ音楽院でもヴァイオリンと作曲を学んだ。結局、音楽の道に進む決意し、大学を退き、音楽院を卒業した。その後、ベルリンとウィーンに留 学。シベリウスは次第に民族的な題材に関心を寄せるようになっていく。1892年にフィンランドの伝承叙事詩「カレワラ」に基づく「クレルヴォ交響曲」を発表。そして、「フィンランディア」(1899)、交響曲第1番(1899)、第2番(1902)の成功によってシベリウスはフィンランドを代表する作曲家として認められていった。しかし、1924年に最後の交響曲である第7番を完成させ、1925年に「タピオラ」、1926年に「テンペスト」を書き上げた後、創作活動から退き、1957年に亡くなるまで約30年間にわたる長い沈黙を続けた。
本日演奏される交響曲第2番は、シベリウスの交響曲のなかで最も演奏頻度の多い人気曲である。
交響曲第2番が作曲されたのは、「フィンランディア」初演の2年後の1901年のことであった。1901年2月から3月にかけて、シベリウスはイタリアのジェノヴァの近くのラパッロという保養地に滞在した。フィンランドとは対 照的なイタリアの暖かな気候と美しい自然に魅了されたシベリウスは次第に交響曲の構想をふくらませていくのであった。その後、創作に中断はあったが、結局、1901年の11月頃に完成させ、12月に改訂を加えた。初演は、1902年3月8日、ヘルシンキで作曲者自身の指揮によって行われ、大きな成功を収めた。第4楽章の大きな高揚は、フィ ンランド人の愛国的心情の吐露とその勝利と解することもできそうだが、シベリウスはそのような政治的な解釈を否 定していたという。イタリア滞在が作曲の契機となったが、作品自体には北欧的な抒情性や暗さや力強さが感じられる。
第1楽章:アレグレット。牧歌的な安らぎに満ちた楽章。途中、翳りや激しさも聞かれるが、最後には穏やかさが戻 ってくる。
第2楽章:テンポ・アンダンテ、マ・ルバート。冒頭のコントラバスとチェロのピッツィカートやファゴットのメロディに北欧の暗い冬がイメージされる。しかし、実際にはイタリア滞在で触れたドン・ファン伝説にインスピレーシ ョンを得たものだという。その後、民族的な色合いを帯びた旋律がヴァイオリンによって奏でられる。
第3楽章:ヴァヴァーチッシモ。スケルツォ的な性格を持った楽章。弦楽器の速く荒々しい動機で始まる。ゆったり としたトリオではオーボエが牧歌的な旋律を歌う。スケルツォに戻った後、またトリオが現れる。今度は、第4楽章の主題を暗示しながら、徐々に盛り上がっていき、その頂点で第4楽章に入る。
第4楽章:フィナーレ(アレグロ・モルト)。弦楽器による力強い第1主題とそれに応えるトランペットの輝かしい吹奏。第2主題は木管楽器による哀愁を帯びた旋律。この主題は楽章後半で息の長い展開をみせる。そして堂々たる クライマックスで締め括られる。