「ピカソとエコール・ド・パリ メトロポリタン美術館展」

展示概要
ニューヨークのメトロポリタンはパリで生まれた美術館だった
ブーローニュの森から

 ニューヨークと言えば摩天楼とビジネスマン。その街を代表する美術館の展覧会のテーマとして、「ピカソとエコール・ド・パリ」を選んだのには理由とこだわりがある。もちろんアメリカ人のパリ好きがその根底にあるにしても、ことの発端は1866年にまでさかのぼる。ところはパリの西、ブーローニュの森のレストランで、当時パリに住んでいたアメリカ人がパーティーをひらき、7月4日の祖国の独立記念日を祝っていた。
 そして素晴らしいディナーのあと、ジョン・ジェイという名士が、出席者に皆でニューヨークに研究施設も備わった国民的大美術館を設立しようと提案した。この考えは熱狂的に受け入れられ、彼はニューヨークに帰るとすぐに市の指導者たちやコレクター、博愛主義者らと検討し、建築家や芸術家も加えて熱い議論を展開した。そしてプロジェクトは順風に乗り、1870年4月、メトロポリタン美術館が発足する。

ビッグ・アップルの大きなひとかけら

 アメリカの強力な経済力を背景に、メトロポリタン美術館は20世紀を通じてビッグ・アップルの巨大な美術館へと変貌を遂げていく。そこには日本からメソポタミアまで、フィレンツェからパプア・ニューギニアまで、そして古代から現在に至るまでの世界のさまざまな地域の、いろいろな時代の文物が集められており、たとえば古代エジプトの物だけで4万点にのぼるという。この美術館は「実物で引く美術事典」といっても過言ではない、たいへんな実力を持っているのである。
 「ピカソとエコール・ド・パリ」を構成する絵画作品が、その膨大なコレクションのほんの一部であることはあえて言う必要もないが、ほかのセクション同様、質の高いものであることも、また言うまでもない。メトロポリタン美術館は、これまでにもザ・ミュージアムを含めていろいろな美術館に対し、小出しには収蔵品を貸してくれてはいたが、まとめて貸し出すことはまれであり、実は今回は、収蔵品で構成して貸し出す最大の展覧会なのである。この辺にも本展を、「メトロポリタン美術館展」と呼んではばからない理由のひとつがある。

アメリカ人気質


 メトロポリタン美術館のもうひとつの大きな特色は、個人サポーターからの寄付金が財源の重要な部分を占め、同じく個人からの作品の寄贈(あるいは遺贈)が、その収蔵品の大きな核になっているという点である。お金を儲けることをよしとするプロテスタント精神に支えられ、この巨大都市で莫大な富を築いた実業家が、どさっと潔く美術館に贈り物をする。もちろん米国の税制上の優遇措置もあるだろうが、人生を掛けたこのパフォーマンスはまさにグレートである。本展を通じて私たち日本人にまで及ぶ恩恵を考えれば、事あるごとに彼ら寄贈者の名前を冠して作品や施設を紹介しなければならないというのも、我慢しなければならないだろう。
 この美術館では、初期のころはアメリカ人作家の作品の獲得に力点が置かれていた。ヨーロッパの近代絵画コレクションの発展は少し後発で、ピカソによるパリ在住のアメリカ人小説家ガートルード・スタインの肖像画が、モデルとなった本人から1946年に遺贈されたことがきっかけだったという。残念ながら作品の保存状態の関係でこの作品は今回出品されないが、本展に出品されるピカソ作品9点のうち、購入したのは1点のみ。また全部で72点の出品作品中でも、館が購入したのは僅か11点なのである。

呪われた画家


 本展のテーマであるエコール・ド・パリというフランス語は、19世紀末から1920年代くらいまで、特にモンマルトルとモンパルナスというパリの二つの地区を拠点にして活躍した画家たちをさす。別に様式的なまとまりがあるわけではないが、外国出身の画家が多いのが特徴である。シャガールはかつてのロシア帝国、スーチンはリトアニア、パスキンはブルガリア、ヴァン・ドンゲンはオランダ、モディリアーニはイタリア、リベーラはメキシコ、レンピッカはポーランド、そしてピカソはスペインのカタロニアである。
 このグループのイメージをある意味で固定させたのは、この中の「呪われた画家たち」と呼ばれる悲劇的なボヘミアンな人生を送った連中の存在だろう。たとえば夭逝したモディリアーニ、貧しさと戦ったスーチン、自殺したパスキン、そして酒におぼれたユトリロ…。特にモディリアーニについては、美男俳優ジェラール・フィリップがその役を演じた映画「モンパルナスの灯」で有名になり、エコール・ド・パリの画家のステレオタイプを作ってしまったかもしれない。

スクール・オブ・パリス

 しかし本展ではエコール・ド・パリをもう少し広義に捉えている。ようするに世紀末から第二次世界大戦ごろまで、パリという都市を舞台に次の時代に引き継がれていく革新的な仕事をした、それぞれ個性豊かな画家たちの仕事を振り返るというのが本展におけるエコール・ド・パリ、すなわちパリ派の考え方である。しかしそれは、パリが美術史の中で決定的な役割を果たした最後の時代でもある。世界の美術の中心はいつの間にかメトロポリタン美術館のあるニューヨークに移っていくのである。しかもエコール・ド・パリや印象派など、それまでにパリで描かれた作品自体も、多くの傑作がアメリカに渡っていった。そしてまたエコール・ド・パリが移民による「外人部隊」を中心に構成されている点も、まるでニューヨークのようではないか。フランス人にとっては初めての経験、しかしアメリカ人にとっては、それが国是たる物事の出発点である。人が新天地に移ったからこそ、そして見知らぬ者同士が集ったからこそ、そこに今までなかったパワーが生まれる。ニューヨーカーが構成するエコール・ド・パリ展、それは暗に20世紀の美術史を、大西洋の反対側から読み直した企画なのである。

現場にいたアメリカ人

 そんなアメリカ人はパリが大好きだ。「巴里のアメリカ人」と言えばジーン・ケリー主演の映画。これは光の都を訪れたアメリカ人のおのぼりさんの話だが、その元になったのはアメリカを代表する作曲家ジョージ・ガーシュインの同名の曲である。時は1920年代、大恐慌の起こる前の通貨の交換レートがアメリカ人にとって最高だったころ、モンパルナスのおしゃれなカフェには、エコール・ド・パリの画家たちに混じって、多くのアメリカ人が見られた。ピカソに肖像画を描いてもらったガートルード・スタインはもとより、フィッツジェラルドやヘミングウェーもいた。ちなみに彼らの通った、そして画家たちも通った人気のカフェであったモンパルナスのラ・ロトンドでは、客の半分がアメリカ人だったという。 株価の暴落とともにアメリカ人は引き上げてしまったそうだが、エコール・ド・パリの現場に彼らはいたのである。そしてそのうちの何人かは、のちにメトロポリタン美術館に寄贈するコレクターになったかもしれない。

 ニューヨークからのエコール・ド・パリ展というのは、実はそんなに奇抜ではないことが分かっていただけただろうか。展覧会を観るにあたっては、パリとニューヨークというふたつの都市のいろいろなことを思い浮かべながら回るとよいと思う。

メトロポリタン美術館に行ったことがある人が感激するのは、入り口などで案内をしてくれる親切で上品なレディたちの存在である。実は彼女たちはボランティアなのだが、この美術館の本質は、彼女たちの笑顔に凝縮されているといっていいだろう。

ザ・ミュージアム 学芸員 宮澤政男


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