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Bunkamura Produce 2026
マルコス浄瑠璃『金閣寺』

「美が、私を滅ぼした」
マルコス・モラウ、パリ・オペラ座『Étude』から三島由紀夫へ

Bunkamura Produce 2026 マルコス浄瑠璃『金閣寺』
2026年8〜9月 東京芸術劇場 プレイハウス

3月、パリ・オペラ座。
バレエの殿堂で上演されたマルコス・モラウの新作Étudeは、観客の予想を裏切る場面から始まった。
舞台に立つのは、ひとりの女性。
ヴィンテージ調の肌色のチュチュにティアラ、色あせた靴下。腕には花束を抱えている。
それは本来、舞台の終わりに訪れるはずの光景、すなわちカーテンコールだ。
だがそこに、勝利の気配はない。
彼女は無表情のまま、虚ろに身体を引きずるように、何度も礼を繰り返す。
まだ作品は始まっていない。
それなのに、客席にはすでに、逃げ場のない緊張が満ちている。

Étudeは、そこから時間を遡っていく。
カーテンコールという栄光の瞬間から、舞台袖の張り詰めた気配へ。
さらに稽古場へ。オーディションへ。そしてバーレッスンへ。
幕が上がるたび、ダンサーたちは円形のバーを囲み、集まり、ほどけ、また組み直される。動きは揃えられ、反復され、やがて個々のダンサーは輪郭を失い、ひとつの塊のようにうごめきはじめる。
その過程のなかで、バレエを象徴するイメージが差し込まれる。
チュチュ、ティアラ、カーテンコール。
そして劇場そのものを思わせるシャンデリアや鏡。
どれもが美しい。
だが、その美しさはどこか不穏だ。
透けて見えてくるのは、反復、規律、疲労、そして静かな摩耗。
間違いなく「エリート」と呼ばれるオペラ座のダンサー達が背負っている、見えない負荷である。
マルコスが見せているのは単なる「美の裏側」ではない。
たしかに、そこには反復や規律、疲労といった、バレエを成立させるための負荷がある。
だがそれは、努力や犠牲の問題として提示されているわけではない。
むしろ浮かびあがってくるのは逆の関係である。
ダンサーたちは美を表現しているようで、同時にその形式に拘束され、動き方を規定され、身体そのものを変形させられていく。
そこでは、美は目的ではなく、命令に近い。
美を追求するが故に、それに支配されるという逆説。その中で、やがて肉体は消耗し、均衡を失っていく。マルコスが描くのは、その構造そのものなのだ。

ここに、マルコス・モラウという作家の特異さがある。
彼は、純粋なダンス教育の内部から出てきた振付家ではない。
写真、演劇、映像を学び、振付を「構図」として捉える視線を携えてこの領域に入ってきた。
だから彼の作品では、踊りは単なる運動にとどまらない。
ひとつの画面となり、群衆の気配となり、ときに夢や悪夢のような圧力を帯びる。
彼が惹かれてきたものもまた象徴的だ。フランシス・ベーコン、ロメオ・カステルッチ、DV8。そこに共通しているのは、均整の取れた美しさではない。張りつめた均衡が崩れる、その瞬間にだけ現れる美しさだ。

そのキャリアは、いまやヨーロッパの舞台芸術の中心と直結している。
スペイン国家ダンス賞。フランス政府の芸術文化勲章シュヴァリエ。
舞踊専門誌『Tanz』の「Choreographer of the Year」。
さらにネザーランド・ダンス・シアター、ベルリン国立バレエ、そしてパリ・オペラ座バレエ団へ。完成された制度の内部に入り込み、その中心から新しい視界を開くことができる数少ない作家のひとりである。

そのマルコスが、次に選んだのが三島由紀夫であり、『金閣寺』である。 彼が三島文学に深く惹かれるようになったのは、若い頃に観たポール・シュレイダー監督の映画『MISHIMA: A Life in Four Chapters』に遡る。以来、長い時間をかけて三島を読み続けてきた。マルコスは三島を、言葉の届かない領域へ肉体で踏み込もうとした作家として捉えている。筋肉を鍛えることも、彼の行為そのものを作品に重ねる姿勢も(例えば「豊穣の海」)、単なるポーズではなく、世界に触れるための方法だったのではないか。そう考えるとき、三島の文章は観念の記述というより、筋肉が収縮し、呼吸が変わるように“動く”身体的な文学として立ち上がる。

では、なぜ『金閣寺』なのか。
この小説の核にあるのは、完璧な美に魅入られた人間が、その美によって内側から崩れていくという逆説である。
この「美が滅びを生む」という感覚は、『Étude』で提示された問題と地続きにある。
美は人を高めるだけでなく、支配し、消耗させ、やがて逸脱へと導く。
だから『金閣寺』はマルコスが作家人生通じて問うてきた「美と滅び」を、別の極点で敷衍するに近い作品ともいえる。

今回掲げられている「浄瑠璃」という形式も、その延長にある。
なかでも、彼が手掛かりにしているのが〈道行〉という形式である。
一度その運動に入った者は、もはや引き返すことができない。
ただ、ある結末へ向かって進み続けるしかない。
美に導かれ、破壊へと至る。
その不可逆の軌道。
それは、『Étude』で彼が見つめたものと、そして三島が描いたものと、同じ線上にある。

『Étude』で、マルコスはバレエという完成された様式の内部に入り込み、その輝きと、その裏にある力の両方を露わにした。
次に彼が向かうのは、日本の舞台である。
異なる身体が交錯する場所で、その問いはさらに切実なかたちをとるだろう。
これは、見逃してはならない。

マルコス浄瑠璃『金閣寺』公演特集HPはこちら

文:高野泰樹(Bunkamura)
Photo Credits:
© Opéra national de Paris / Yonathan Kellerman/ OnP
Courtesy of Opéra national de Paris
参考:
Opéra national de Paris, Étude (Paris Opera Ballet) – official production materials, 2026
The Guardian, “Empreintes review – Paris Opera Ballet / Marcos Morau”, 2026
Danses avec la plume, critique of Étude (Paris Opera Ballet), 2026