はじめての鶴屋南北
文化芸術への興味が芽生え、まずは耳にしたことがあるアーティストたちの作品に触れてみたいけど、何からどう体験すればいいか分からない──。そんなふうに迷っている方たちが“はじめの一歩”を踏み出すための案内役となる「はじめてシリーズ」。第4回は、江戸時代後期に歌舞伎の狂言作者として活躍した四世鶴屋南北です。型破りな作品で歌舞伎の新しい時代を切り開いた南北のキャリアと魅力に迫ります。
独自の作風でヒットを連発した遅咲きの狂言作者
宝暦5年(1755)、四世鶴屋南北は江戸・日本橋の紺屋(染物屋)の職人の家に誕生。家の近くに歌舞伎を上演する芝居小屋があり、町には芝居関係者も多く住んでいて、幼少期から歌舞伎の世界に慣れ親しみながら育ちました。
南北が歌舞伎の世界に身を投じたのは21歳のこと。初代桜田治助が立作者(たてさくしゃ。歌舞伎の脚本を合作するチームの責任者)を勤めていた市村座で狂言作者の見習いとなり、金井三笑らに師事しました。その後、沢兵蔵(さわひょうぞう)、勝俵蔵(かつひょうぞう)と名を変えながら20年間以上もの長い下積みを重ね、享和3年(1803)にようやく立作者となりました。
そして文化元年(1804)、初代尾上松助のために書いた『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』が大当たり。さらに怪談話をテーマにした夏芝居でヒットを連発し、立作者としての地位を不動のものにしました。
文化8年(1811)に四世鶴屋南北を襲名してからは、文化・文政期(1804~1830年ごろ)の退廃的かつ享楽的な世相を巧みにとらえ、江戸市中の風俗を再現した“生世話物”と呼ばれる新しいジャンルを確立。さらに晩年まで現役を貫き、71歳にして傑作『東海道四谷怪談』を発表。75歳で生涯を閉じるまで、120本を越える歌舞伎脚本と20数編の合巻(小説)を残しました。ちなみに“鶴屋南北”はもともと狂言作者ではなく歌舞伎役者の名跡でしたが、歌舞伎役者の三世鶴屋南北の娘と結婚したことから四世鶴屋南北を襲名したのです。
大衆の好みを察知し、歌舞伎に新定番と変革をもたらす
南北が歌舞伎界に残した足跡は、歌舞伎の変革の歴史でもあります。江戸時代の歌舞伎の演目には、歴史的な物語を扱う“時代物”と、当時の町人の生活を題材とした“世話物”と呼ばれる現代劇がありました。そんな中、南北は後者の世話物に軸を置きつつ、大衆の好みにマッチした新しい定番を生み出していったのです。
その1つが『東海道四谷怪談』に代表される怪談物。それまで春や秋に演じられることが多かった怪談を夏芝居に持ち込み、裏切られ殺された幽霊が復讐のために現れるという背筋がゾッとするリアルな恐怖で「暑い夏の芝居といえば怪談」と好評を博しました。また、長い下積み生活を通じて最下層の人々の暮らしを熟知した南北は、庶民の人物像や生活をより写実的に描くとともに、人間の性根や悪性も赤裸々に表現。世話物よりもさらに生々しい“生世話物”と呼ばれるジャンルを確立し、大衆を虜にしたのです。
さらに、初代尾上松助や五代目松本幸四郎ら当代の名優たちと多く組んだ南北は、役者の持ち味を生かした当て書きの作品を次々と発表。悪事を働く冷血な二枚目“色悪(いろあく)”や、欲望のためなら悪事をいとわない年増女“悪婆(あくば)”など、新たな役どころも確立しました。また、『東海道四谷怪談』で夫に復讐するお岩のような女性の怨霊も、慎ましく生きることを強いられていた封建社会の女性が内に秘めた感情を表現するキャラクターであり、時代を先取りしたと言えるでしょう。
ほかにも“ケレン”と呼ばれる奇抜な演出を積極的に開発・活用したのも南北作品の特徴です。たとえば出世作『天竺徳兵衛韓噺』では、大道具として舞台に建てた屋体を崩す“屋体崩し(やたいくずし)”や、瞬く間に衣裳などを着替えて役を替える“早替り(はやがわり)”などを披露しました。南北は早替りの演出を好み、東海道五十三次の宿場で物語が展開する『獨道中五十三驛』(2026年5月にTHEATER MILANO-Zaで上演する「歌舞伎町大歌舞伎 三代猿之助四十八撰の内」の演目です)で道中の人々の演じ分けなどで駆使しています。このように新機軸を次々と打ち出すことで、南北は飽きさせることなく大衆を魅了し続けたのです。
創作でも宣伝でも尽きることのないアイデアを駆使
南北には創作活動への情熱や独創性を物語るエピソードも残されています。当時、歌舞伎の新作脚本は立作者をリーダー格とするチーム制で作られていて、一般的に筋や台詞は助手が担当していましたが、南北は立作者になっても筋や台詞を自分で書いていました。また、歌舞伎の題名の文字数が奇数だと縁起が良いとされていたことから、南北は人々の印象に残る言葉を選びながら当て字を駆使し、『彩入御伽草(いろえいりおとぎぞうし)』『松二代源氏(いそゆるにだいげんじ)』『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』などわずか五文字あるいは七文字の題名に作品の世界を凝縮しました。
さらに南北はアイデアマンとしての才覚を興行の宣伝にも生かしました。初代尾上松助による早替りが見どころだった『天竺徳兵衛韓噺』では「早替りはキリシタンによる妖術」という作り話を自ら言いふらし、噂が人を呼ぶ形で作品は大当たり。ほかにも『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』で大凧を宣伝看板に使うなど、さまざまな知恵を絞って話題を作ったのです。
南北は生涯を閉じるまでこうしたエンターテイナー精神を貫き、死の直前には自作で葬式の場面が多かったことから『寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)』という自身の葬儀の台本を残しました。この台本には葬式の祭壇の配置、和尚の読経のタイミング、棺桶から南北の死体が蘇って「万歳」を演じる趣向などが書かれ、弟子たちはその内容に従って南北の葬式を派手に執り行ったそうです。
退廃的な世相を背景とする町人文化が爛熟した江戸時代後期に、大衆がどんな刺激を欲しているか察知し、新しい趣向を織り交ぜながらその欲望を満たしていった南北。大衆を楽しませることをとことん追求し、歌舞伎の繫栄と発展に貢献した変革者の気概を、彼が残した作品を通じて感じ取ってください。

