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歌舞伎の脚本はどうやって作られた?意外と知らない「狂言作者」の役割

映画や演劇の世界には作品のストーリーを書く脚本家が存在しますが、伝統芸能であり芝居・舞踊・音楽の要素が一体となった総合演劇でもある歌舞伎の脚本は誰がどのように作っていたのでしょうか? そんな歌舞伎における脚本家の存在についてクローズアップします。

歌舞伎の脚本を専門に書く狂言作者の誕生

もともと歌舞伎は出雲の阿国が慶長8年(1603)に京で演じた“かぶき踊り”が始まりとされ、当初は短い踊りに寸劇を交えたショーのように上演されていました。やがて女歌舞伎の禁止によって男の役者だけで演じられるようになると、歌舞伎は演劇としての性格を強めていきます。それまでの寸劇はまとまった芝居になり、一座の中の座頭の役者あるいは劇作を得意とする役者が、短い一幕物である“放(はな)れ狂言” (ここで言う「狂言」は能舞台で演じられる芸能のことではなく、脚本や芝居そのもののこと)の筋や演出を考えるようになったのです。
その後、寛文年間(1661~1672)ごろから、筋のつながった長い物語を複数の幕に分けて演じる“続き狂言”が定着。物語には登場人物が増え、内容もより複雑になっていきました。このように歌舞伎が演劇性を増していくに伴って、役者が脚本を兼任するには限界が生じ、脚本を専門に書く人物が必要となりました。その先駆けが『曽根崎心中』などで知られる近松門左衛門で、初代坂田藤十郎が座元を務める都万太夫座の座付作者として多くの歌舞伎脚本を執筆しました。こうした座付作者は狂言作者と呼ばれ、歌舞伎の裏方として重要な役割を担うようになったのです。
歌舞伎の世界では一般的に脚本よりも役者の個性が重視され、脚本は演じる役者が得意とする役柄や特長をふまえて書かれていました。そんな中で近松は藤十郎の理解を得られたおかげで脚本の作家性を尊重され、同時代の庶民の生活や恋愛を題材にした“世話物”というジャンルを確立。それまで原作者と名乗ることを禁じられていた“影の存在”である狂言作者の地位向上に貢献し、そして彼の活躍によって作者の専門化が進んだのです。

『曽根崎心中』は、1703年に大坂・竹本座で近松門左衛門が実際の心中事件をもとに人形浄瑠璃のために書き下ろした世話物です。初演は事件の1か月後に行われ大きな反響を呼び、その後、歌舞伎にも翻案されて上演されるようになりました。

単独から合作へ──複数の狂言作者による共同作業

近松が亡くなった後、江戸時代の歌舞伎の脚本は複数の狂言作者による合作手法が取られるようになりました。狂言作者たちは立作者(たてさくしゃ)と呼ばれるリーダーを筆頭に、二・三枚目格作者、狂言方(きょうげんかた)、見習いという階級に基づいて5、6人から10人前後のチームを組み、それぞれ役割を分担して脚本を作り上げたのです。
その流れは、最初に立作者が座元や座頭役者と相談して演目の題材と世界観を決めてから大筋を立て、その大筋に沿って二・三枚目格の作者が場面を分担して脚本を執筆。そして最終的に立作者が全体としてまとめ、完成した正本を狂言方が清書しました。この大元の台本は一座の機密として狂言作者が厳重に管理し、役者にはそれぞれの台詞だけを抜き書きした書抜(かきぬき)を渡していました。
こうした分業時代における狂言作者は、まずは見習いからキャリアをスタート。作者部屋の掃除、食事の世話、使い走りなどをしながら狂言作者の仕事を習っていきました。文化・文政年間(1804~1830年)に活躍した『東海道四谷怪談』の四世鶴屋南北も、21歳で見習いとなってから長い下積みを重ね、47歳でようやく立作者になったそうです。

四世鶴屋南北は『東海道四谷怪談』で成功を収めた2年後の文政十年(1827)に、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に着想を得た『獨道中五十三驛』を初演。五十三次の宿場を舞台に主人公が京都から江戸へ目指していく物語を、南北は28もの場面を次々と切り替えながら、異なる複数の世界を混ぜる「綯い交ぜ」で表現しました。

脚本を書くだけじゃない!多岐にわたる狂言作者の仕事

狂言作者は脚本を書くだけでなく、歌舞伎の裏方としてさまざまな役割も務めていました。たとえば稽古では、各幕の狂言作者が台本を通して読み上げ、俳優・演奏者・裏方に芝居の筋や状況や役割を細かく説明していました(この作業は本読(ほんよみ)と呼びます)。また、台本を参考に上演に必要な小道具や衣裳を書き出すための附帳(つけちょう)を作ったり、劇中で使う大道具や仕掛けを考えたり、宣伝のための絵看板や番付(ばんづけ)の下絵も描いたりしていました。つまり、頭に描いた物語を舞台の上で現実のものとするまでの役割全般を狂言作者が担っていたのです。
さらに、歌舞伎の興行に向けての準備が整ってからも狂言作者の仕事は終わりません。芝居の開始や終了を知らせる柝(き)を打ったり、上演中に役者が忘れた台詞を観客から見えないようにこっそり教えるなど、舞台進行役も担当していました。なお、現在は新作の歌舞伎脚本は外部の劇作家が創作するようになり、狂言作者は台本の管理、配役の調整、衣装や道具の発注、さらに本番の舞台進行など舞台裏を取り仕切る仕事全般を担当しています。

今も昔も歌舞伎の裏方として欠かせない役割を担い続けている狂言作者。その存在にも目を向けると、歌舞伎がもっと面白く感じられそうですね。

こちらの絵は、江戸時代に歌舞伎の三大劇場の一つとして賑わった「中村座」の3階建て楽屋の様子を描いたもの。当時は楽屋1階に裏方の部屋が設けられ、座付きの狂言作者のための「作者部屋」もありました。この部屋で彼らはそれぞれ役割を分担し職務を行っていたのです。

文:上村真徹


〈公演情報〉

歌舞伎町大歌舞伎 三代猿之助四十八撰の内
『獨道中五十三驛』


公演日:2026/5/3(日・祝)~5/26(火)
会場:THEATER MILANO-Za (東急歌舞伎町タワー6階)

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