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今月のゲスト:謝 孝浩さん@スイス・スピリッツ


『対峙する時間』


鷲尾: 今、山と“対峙”するとおっしゃいましたけど、謝さんがいろんな国を旅したり、トライアスロン等のスポーツに挑戦されたりするのも“対峙”ですよね。

謝: そうですね。まさに旅は自分との対峙ですね。僕は一人で旅をすることが多いのですが、そうすると、すべての物事に自分が対処しなければならないんです。だから山を見ているときも自然と対話していながら、自分とも対話をしているんですね。そういうシチュエーションの時に文章が頭の中に沸いてくるので、それを書き留めたり、スケッチブックに描いたりして残すんです。そういう自分との対話、それが僕にとっての旅です。そうやっていろんなものと対峙する中でも、山っていうのは重要なファクターですね。ペリエがこういう風に絵を描く行為って言うのは、僕が旅をしながらいろんな記録を残す行為に似ていると思います。

高山: 私もこの絵の前に立っていると自然と一体化した気分になれる気がします。そういうところにとても惹かれるんだろうなと。

謝: 要するに対峙の仕方ですよね。自然と一体化するっていうのは僕の作品の中でも重要なテーマなんですよ。山が好きな人って、山の前にいるとどれだけいても時間が潰せるんですね。で、特にいいのが陽が沈んだ後、山に段々と影がついていく時間。一つ一つの影がゆっくり出てくる、その時間が好きなんです。そういうのを見ている時が至福なんですよ。そういう意味で、ペリエの作品は山を知っている人が描いたんだろうなと。多分僕と似たような気分で山に対峙していたんじゃないかな。だから共感できたんでしょうね。

宮澤: ペリエはヨーロッパの中では近代化された視点を持っているし、ある意味ですごく東洋的だと思いますよ。根本的な姿勢として自分自身が自然の一部であるっていうね。一般的に西洋では自然は人間と対立する存在ですよね。だから謝さんにとってどこか共感するところがあるのかもしれませんね。

謝: なるほど。今のお話、すごく納得できました。そうかもしれないですね。

高山: スイスって日本人に人気の高い国じゃないですか。今回はそういうところも見てみたいと思っていたんですけれど、その自然観って意外と共通しているところがあるんじゃないかと感じました。特に前半の山を象徴的に描いた作品群なんかはそうですよね。私はどちらかと言うと海育ちで、山に対して明確なイメージはなかったんですけど、これらの作品を見てある意味うらやましいなとも思いました。自分たちのいるところとして山があるっていうことですよね。

中根: 確かに展覧会の中盤に出てくるキルヒナーの絵とかは自然と一体化というより人間が中心ですよね。人と山を並列に並べているようなところがある。おそらく日本人はこういう描き方はしないんじゃないかと思いました。僕は今回全体を通して見て、強く思ったのが“山は動かない”っていうことなんです。当たり前の話ですが。でも、動かないから、動かせないからこそ、安心感につながったり、神話性を帯びたりする。動かないからそこに戻っていくことができる。だからこそ山が動かずにあるっていうことが大事なんだろうなと。山との対峙の仕方、距離のとり方は人それぞれにいろいろあると思うんです。それはそれでいいと。ただ、動かないから恐れ、敬われる存在であるはずなのに、後半の現代美術を見ていると、そういう視点が崩壊しつつあるように感じられるところが気になりました。いろいろ考えさせられたという意味では印象的でしたが。

謝: 僕は今まで行った山ではチベット付近が多いんです。チベットでは密教文化圏ですね。気候としては乾燥していて、水地帯があまりないんですよ。氷の山があるから、そこから水が得られる。そういうこともあって山がより神格化されやすいんです。今回がスイスだから、描かれているのはキリスト教的な場所ですよね。そういう国では山がどう捉えられ、どう描かれているのかというのを見るのも楽しみの一つだったんです。でも全体的には意外と似ているんだなと感じました。自然に対する憧憬だとか、威圧感だとか。そういうことはやっぱり国や宗教が違っても変わらないんでしょうね。

鷲尾: そうかもしれません。ホドラーの絵って山を非常に象徴的に描いているしどこか神格化していく視線を感じて確かにこれは一神教的な感覚を感じますよね。でも実はそれだけではないんですね。仏教圏にある日本やアジアの感覚と近いなと思ったのは、雪の山肌を描いた作品(ハンス・エメネッガー《雪解け》)のような作品ですね。こういうのを見ると僕も謝さんと同様に、結構人間何処に居ても近い感覚を持つものだなと感じます。エメネッガー《雪解け》って非常にスピリチュアルな感じがするんですね。自然に向かい合う視線、自然を丁寧に見つめる視線。それって凄く分かるなあって。

宮澤: 確かにエメネッガー《雪解け》のような作品は常に山と接している画家でないと描けないよね。彼の絵は点描画に近いんですね。それって印象派的な手法なんだけど、印象派ってどちらかと言うと身の回りのものをモチーフに描いた作品が多くて、自然って言ってもせめて池とか川とかぐらいなんですね。風景画でも人がいたり船があったり、何かしら人間が関与している。でもこの作品に人はいない。そういう自然に対するスタンスも違うよね。今回のポスターになったジョヴァンニ・セガンティーニの《アルプスの真昼》もそういう作品なんだけど、これはそういうアプローチが上手く成功している作品だなと思うんです。彼が何を表現したかったかと言うといろんな議論があると思うけれど、少なくとも山の透明な空気を描きたかったんじゃないかな、と僕は思うんですね。背景の山が光って見えるでしょ。印象派の手法って言うのは、絵の具の色が混じらないように細かなストロークで描いたんですよね。それが結果的にすごく成功していると思います。
結局セガンティーニって自分自身が山に住んでいましたからね。分かってたんでしょうね。一番表現すべきは山のその澄み切った感覚だというのが。今回の作品も含めて、他にもセガンティーニの絵はスイスに沢山ありますのでぜひご覧になることをおすすめします。見るとびっくりしますよ、透明感がすごくて。

謝: きっと僕は好きでしょうね(笑)。じゃもうちょっと歳をとったらちゃんとスイスに行って美術館で見ます。実は山好きにとってやっぱりスイスは一生に一度は行きたいと思う国なんですよ。ただ、山って登頂しなければ年をとってからでも大丈夫なんです。登れるんです。だから僕は体が動くうちはアプローチの難しいチベットや南米、アフリカ等の山に行こうかなと。だからスイスに行くのはもうちょっと後にしますよ。宮澤さんの話を思い出しながら セガンティーニの絵を見ることを老後の楽しみに取っておきます(笑)。

  編集後記
 
 

スイスの山をモチーフにした今回の「スイス・スピリッツ」を開催するにあたり、どんな人が展覧会に来てくれるだろう?と考えたときに、山好きな人=山の絵を見に行きたい!となるかどうか漠とした不安がありました。スポーツは多かれ少なかれそうだとは思いますが、山登りというのは特にとても個人的な経験というか、自らの身体を使って歩き、見て、感じる事によって得られる達成感や充足感が強いものなので、他人の目を通した「山」にどの程度関心を持てるものなのか、昔山登りをしていた自分自身を考えてもどうだろうかという感じだったのですが、今回謝さんのお話を伺って、山好きだからこその見方、楽しみ方があることがわかり、とても安心しました。特別に見せていただいた謝さんの旅の記録が記されているスケッチブックも、そのものがアートのようでとても素敵でした!

海老沢典世(Bunkamuraザ・ミュージアム)

 

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