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イベント情報

スペシャルトークイベント『ニューヨーク・アートシーンを語る』開催(2004年10月1日)

横尾忠則

横尾忠則 (Tadanori Yokoo)
1936年兵庫県西脇市生まれ。美術家。
1960年代よりグラフィックデザイナーとして活躍。69年第6回パリ青年ビエンナーレ展版画部門大賞受賞。72年ニューヨーク近代美術館、73年ハンブルク工芸美術館、74年アムステルダム市立美術館などで個展を開催し、国際的に活躍。81年に画家に転向し、以降、パリ、ベネチア、サンパウロ、バングラデシュなど各ビエンナーレに招待出品。
近年は97年兵庫県立近代美術館、神奈川県立近代美術館、2001年富山県立近代美術館、原美術館、02年東京都現代美術館、広島市現代美術館、03年京都国立近代美術館などで個展を開催。95年毎日芸術賞、2000年ニューヨークADC殿堂入り、01年紫綬褒章受章。作品は、ニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、ビクトリア&アルバート美術館など内外74館の主要美術館に収蔵されている。

オフィシャルウェブサイト http://www.tadanoriyokoo.com

一柳 慧

一柳 慧 (Toshi Ichiyanagi)
作曲家・ピアニスト。1933年神戸生まれ。
10代に2度毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)作曲部門で第1位受賞。19才で渡米、ニューヨークでジョン・ケージらと実験的音楽活動を展開し、1961年に帰国。偶然性の導入や図形楽譜を用いた作品で、さまざまな分野に強い影響を与える。
これまでに尾高賞4回、フランス文化勲章、毎日芸術賞、京都音楽大賞、サントリー音楽賞など受賞多数。作品は文化庁委嘱のオペラ「モモ」(1995)や新国立劇場委嘱のオペラ「光」(2003)の他、6曲の交響曲、室内楽作品、また「往還楽」、「雲の岸、風の根」「邂逅」などの雅楽、声明を中心とした大型の伝統音楽など多岐にわたっており、音楽の空間性を追求した独自の作風による作品を発表し続けている。作品は国内のオーケストラはもとより、フランス国立管弦楽団、イギリスBBC交響楽団、スイス・トーンハレ管弦楽団、ノルウェー・オスロ・フィルなどにより、世界各国で演奏されている。
現在、財団法人神奈川芸術文化財団・芸術総監督。

『ニューヨークの出会い』

一柳: ニューヨークで横尾さんとお会いしたのは1967年でした。私はニューヨークに留学していたので、それまで結構長くいたんですが、確か横尾さんはその時が初めてだったと思います。横尾さんはそれからほとんど毎年いらしたんですよね。しかし、私はその後は数年おきという感じになるんです。ですからとにかく67年にお会いできたというのは非常に幸運だったという気がします。

横尾: 僕は80年代以降、アートの方の仕事をやっていますけど、その頃はグラフィック・デザインの仕事をやってた時期なんですよ。ちょうど天井桟敷という劇団を立ち上げたりして、いろいろ忙しくなり始めて、ちょっとこの辺で自分を見直さなきゃいけないと思って、20日間の予定でニューヨークとヨーロッパへ一人旅をしたんです。で、最初に着いたのがニューヨークなんです。一柳さんとはどこで会ったんですかね。その前に東京では一度お会いしていますよね。

一柳: そうですね。でも、そのニューヨークで会った時が非常に面白かったんです。私は横尾さんが来られたという話を聞いて、横尾さんのところに電話したんですよ。そしたら、こんなこと言っていいかどうかわかんないですけど、「ニューヨークに着いて、画廊からも呼び出しがかかっているんだけれど、怖くてホテルから一歩も出れない。もうほとんど3日間何も食べてない」、とおっしゃったんですよ(笑)。

横尾: ああ、思い出しました(笑)。

一柳: それじゃあ、ということで、マディソン・アベニューにあった横尾さんのアパートのすぐそばの画廊で待ち合わせたんです。もちろんみなさんご存知のように、横尾さんは非常に好奇心旺盛な方だし、行動力もある方ですよね。それにも関わらずその方が、ホテルから出られない、とおっしゃったのが非常に印象深くて(笑)。

横尾: そうでした(笑)。ワシントン・スクエアガーデンの近くのホテルで、観光客が泊まりそうなホテルではなかったんですけどね。そこで本当3日間、何も飲まず食わずみたいな感じで(笑)。というのも、1階にレストランがあるので入ろうとしたら、二言三言英語で何か言われてそのまま追い出されたんですね。その時は英語がわからなかったんです。まあ、追い出されたというか、ちょっとそこで待っていなさい、て言われたんだと思うんですよ。僕は日本のレストランと同じ感覚でずかずか入っていっちゃったんですね。だけど中にも入れてもらえずに入り口で追い出されたものだから、そのまま怖くなって部屋に帰ってしまって。それから出るに出れなくなってしまったんですよね(笑)。

それでホテルの中にずっといたんですが、ある時エレベーターの中の灰皿の上に新聞が捨ててあったんですね。で、それを部屋に戻って読んでいたら自由の女神のあるマンハッタン島の端から出ているフェリーの中でパフォーマンスをやっているって書いてあったんですよ。そこで僕は思い切って、そこに行って船に乗ったんです。周りは知らない人たちばかりだったけれど、とにかくその船の中ではパフォーマンスが行われていたんですね。今思うとあれがナム・ジュン・パイクだったり靉嘔だったりするんですが。それで船底にレストランがあってそこに行ったら妙なオヤジが声掛けてきて、友達のところに行くからあなたも行かないかって言うんです。何だか知らないけど行っちゃったんですね。その人はその島のお医者さんだって言うんです。だから多分マンハッタンに行けばいい思いができるんじゃないかっていう下心もあってついて行ったらとんでもない、彼が行ったところは倉庫街のものすごいところで、そのお医者さんの彼氏のところだったんですよ。ゲイだったんですね。それでそこに僕が入ったために三角関係みたいになっちゃって(笑)。この話をすると、これだけで終っちゃうのでこのぐらいにしておきます(笑)。とりあえず、そこからは命からがら逃げてきたんですが、4時間ぐらい軟禁されていたと思いますね。日本に帰ってきてから三島由紀夫さんにこの話をしたら、「いやぁ、ニューヨークには本当にそんなところがあるんだなあ。君はいい経験をしたな」なんてえらい評価されたんですよ。それで人が集まると三島さんが「横尾君あの話しようよ」と言うんでその話をするわけですね。で、どんどん話がオーバーになってきて(笑)。まあ、最初のニューヨークはそんな感じでした。その後ですね、一柳さんが電話してくださったのは。

『アメリカ・アートシーンの熱』

一柳: 私がニューヨークに最初に行ったのは1954年から61年の7年間なんです。私にとってはこの時期が一番面白かったですね。50年代のニューヨーク、アメリカというのは芸術が一番発展している、黄金期だったと言われていますけども、その時期に居合わせることが出来て本当に刺激を受けましたね。芸術というとそれまではもちろんヨーロッパが中心で、アメリカは後進国だったわけですけども、それが戦後になって、むしろアメリカが主導になるぐらい立場が逆転した時期なんですね。ですからアメリカから発信する新しい芸術が一番エキサイトした時期でしたね。
ジョン・ケージと出会ったのが1957年ですけども、この時にケージの演奏会が行われたのは、ダウンタウンのグリニッチ・ビレッジの中にあるビレッジゲイトという、普段はジャズが行われている場所なんですね。決して場末のマイナーな所ではなくて、そういうところで新しい音楽、催しが行われていたんです。それで、すぐ翌日の新聞にそのケージのコンサートが非常にインパクトのあるものとして大きく取り上げられたりしてね。そういう状況があったんですね。普通に考えるとコンサートというとコンサートホールとかオペラ劇場とか、そういう場所になると思うんですが、そういう風にいろんな人が自分が本当にやりたいと思う場所で自分の活動をやっていたということも当時のニューヨークの面白いところでしたよね。

横尾: 僕がニューヨークに来てとにかく驚いたのは、グリニッチ・ビレッジで目撃した、今でいうヒッピーですね。その様子を初めて肌で感じたことが衝撃的でしたね。ちょうどその頃ニューヨークはサイケデリック・ムーブメントの真っ只中で、何かがものすごく大きく変わろうとしている時だったんです。みんなマリファナやLSDをやっていて、聴覚・視覚・触覚、五感が開放されてすごく鋭敏になるっていうんですよ。そういうドラッグによって作られた音楽やビジュアルがサイケデリック・ロックであり、サイケデリック・アートである、というようなことを教わるわけです。当時ニューヨークにはいろんなところにディスコがあって、アンディ・ウォーホルが関わったベルベット・アンダーグラウンドなんかがライブをやっていたわけです。そこでは今まで見たことも聞いたこともないような、音や映像が流れていて、みんな狂ったみたいに踊ってるわけです。そういう所へ一人で行って、いっぺんにハマってしまったんですね。それから毎日、毎晩行くようになった。それと同時に一方では一柳さんとほとんど毎日のように会って、日本に帰ったらああしようこうしようとか、いろいろ芸術論から文化論から話しましたね。確か1ドル何セントかの安いステーキを一緒に食べた記憶があるんですが、それ覚えてますかね?

一柳: 私が覚えてるのはね、二人ともお酒を飲まないもんですから、毎晩のようにアイスクリームを食べたことですね(笑)。

横尾: そうでしたね。アイスクリーム食べてました(笑)。そういう毎日が本当に魅力的で、ここで自分を変えないともうこれは変えるチャンスがないという気がして、20日の予定だったのが気が付いたら4ヶ月そこにいたんです(笑)。幸い展覧会でポスターがよく売れたんで、日本から送って、また展覧会やって、それで食いつないでいましたね。

一柳: ディスコに行って毎晩のように踊られてるというので、私もそれにかなり影響を受けて、あやうくこちらの道を踏み外す寸前までいったんですよね(笑)。しかし、当時のサイケデリックな環境というのはそのぐらい魅力的だったわけです。例えば私が親しくしていたサム・フランシスという画家がいるんですけど、彼がフランク・ザッパというミュージシャンがサイケデリック・ディスコでやるライト・ショウですね、つまり音だけじゃなくてロックのリズムに合わせて照明も動くっていう、その担当になったりして。いわゆるアーティスト達もそういうロックの世界に影響受けた時期でしたね。
あの頃が楽しかったのは、例えば職業とか身分とか貧富の差とか、そういうものが全く関係なくて、ある意味で個人の尊厳みたいなものがきちんと根底にあって、自分がやりたいと思うことをそれぞれの人が徹底してやっていて、そのことに対して誰も干渉しないという、そういう自由さがあったところですね。そういうところがあの時代のニューヨークの一番の魅力だったと思いますね。

横尾: その頃の例えば、現代音楽や現代美術、映画ではヌーヴェル・ヴァーグ、文学ではヌーヴォー・ロマン、そういうものがバラバラに存在してるんじゃなくて、何か無意識の領域で全部繋がっていたような気もしますね。ただ僕がやっているグラフィックの世界だけが何かモダニズムでですね、面白くなかったんですよね。だから僕はグラフィックから逆行した方向を向いてたと思います。僕が興味あるのはやはり新しい芸術の動向といいますかね、そういうものですね。だからまずニューヨークに行って一番会いたかったのがアンディ・ウォーホルだったんですよね。当時アンディ・ウォーホルがアトリエにしていた有名な"ファクトリー"というところへ行ったんですが、中に入るとなぜか天井とか壁に銀紙がいっぱいはっつけてあって、鉄のエレベーターのドアが開くとそこがすぐスタジオという感じで、薄暗くて、若い男の子がその辺でたむろしているんです。で、そんな暗いところでアンディ・ウォーホルがかなり黒っぽいサングラスをかけてシルクスクリーンを刷っているんですね。こんな暗いところでサングラスかけて色なんかわかるのかなあ、と思ったんですが、もしかしたら彼はすべてサングラスを通して世界の色を見ていて、そこで彼がチョイスした色を我々はサングラス抜きで見ていたのかな、という気が未だにしますね。
その時のエピソードでひとつ面白いのがあるんです。アンディ・ウォーホルが細長い大きな作品を作ろうとしていた時に、アシスタントがそのキャンバスを引きずりながら持ってきて、ウォーホルのチェックを受けていたんですね。その時にその若いアシスタントが、「ウォーホル、あなたはこうしろと言うけど、僕はそうではなくてこういう風にした方がいいと思う」、という感じでウォーホルに自分の考えを述べているんですよ。その時にウォーホルはどうするのかな、と思ったら、彼はどこかをボーっと見ながら、「ああそう、君がそう言うならそうしたらいいじゃない」、見たいな感じで言うんですね。なるほど、ウォーホルというのはこういう人か、と。人の能力、才能というものをこういう形で活用して利用して、それで作品を作るんだなと。こうせねばならないという、自我が非常に希薄な人だと、そこは非常に東洋的だと思って、僕はそれをものすごく感動したことあるんです。
でも数年後にあらためてウォーホルを訪ねたらファクトリーの場所も中身も全部違っていて、何か大きな企業を訪ねているみたいでした。入り口にちゃんとした受付嬢がいてね。で、しばらく待たされて中に入るとウォーホルがテーブルの上に腰掛けて足組んでるんですよ。白いシャツにジーンズを履いて、新聞を片手に電話を掛けながらコーヒーを飲んで。これってまるでアメリカのビジネスマンにそっくりのスタイルですよね。その時は、ここ数年でウォーホルも随分変わってしまったな、という感じを受けました。

『グッゲンハイム美術館展について』

横尾: 今回展示されていた作品では、カンディンスキーがなかなか良かったなと思って観ていました。あと、ジャクソン・ポロックの作品もありましたけども、ポロックが抽象表現主義になる前の作品ですよね。ああいうのも好きですね。僕はポロックが死んでから彼のアトリエを見せてもらったことがあるんですよ。そこのアトリエの床にペンキがついていてですね、ポロックの作品にそっくりなんですよ。床をそのまま切り取って持ってくれば、何千万ドルじゃないけど相当値段が付くんじゃないかと思いますね(笑)。アーティストというのは生活と創作というのが切っても切れない関係で、僕はそこがなかなか興味深くって面白いと思うんですよね。例えばアンディ・ウォーホルというと、どういう生活してるんだろう?どういう人間なんだろう?何を食ってるんだろう?何を考えてるんだろう?ということに非常に興味が沸きますよね。ところが同じような作品を作るリクテンスタインに関して言うと、あまりそういう私生活に興味が無いんですよね。それはどっちがいいとか悪いとかの問題ではなくて、そういう風に生活と創造を一体化させてる人と、全く別ものだと切り離してる人がいると思うんですね。一柳さんなんかは結構一体化されている感じじゃないですか?

一柳: うーん、でもやっぱり生活は大事ですよ。(笑)

横尾: そうですか。僕もどちらかというと切り離すタイプなんです。とうよりも生活のほうが大事で、アートは二の次です(笑)。日常生活ではいろいろと問題も起こりますが、そういう事を大切にせずに見向きもしないと、アートの世界に逃げ込めばすんじゃう、みたいになっちゃうと思うんです。僕はそれではつまらないと思う。まるでアートを完成させることが悟りか何かのように思っているタイプの作家よりも、ちゃんと人間としての生活がはっきり見えてくる作家のほうが僕は好きなんですよね。アンディ・ウォーホルが生活が見えないから嫌い、ということではないけれど、僕はやはり生活が反映したものがアートで、アートの反映したものが生活ということが大事だと思います。たかがアート、みたいな部分が僕の中にはあるんですよね。それは世の中のアートが全部そうだと言っているのではなくて、僕自身のアートなんてたかがしれてるよ、くらいの気持ちがあるということなんです。

一柳: 私は専門が美術のほうではないので、展示会に関してはちょっと脱線した話になるかもしれませんが、グッゲンハイムの展示というのは、展示する側の立場の方として、少しやりにくかったんじゃないかなという気がするんですね。というのは、ご存知の方も多いと思いますが、この建物はフランク・ロイド・ライトが設計したものですよね。私はニューヨークのグッゲンハイム美術館が出来てまもなくの時に行ったんですが、非常に強烈な印象を受けたんですね。それは展示されている美術作品からというよりも、美術館の建物からです。これは普通の美術館とは全然違って、要するに吹き抜けになっていて壁沿いに回廊が作られているんです。
その回廊を少しずつ下がりながら壁に掛かっている絵を鑑賞する。こういう造り、展示の仕方というのはおそらく初めてだと思うんですが、それが非常に強烈でした。音楽の分野でもですね、建築の問題っていうのは関連があるんです。例えば、日本ではものすごい数のコンサートホールが出来ていますけれども、ほとんどのコンサートホールが、やはり今から100年とか200年前のヨーロッパのコンサートホールをモデルにして作られているんですね。もちろんモデルがあるということで、ある安定した結果を得られるということはあると思います。ただヨーロッパで100何十年か前に作られたホールは、やはりその時代の音楽との関わりにおける必然性がかなりあったと思うんですね。つまり音楽の内容とコンサートホールの建物が、不可分な形で結びついていたと。それは美術の分野でも同じだと思うんです。ですからライトが作ったグッゲンハイム・ミュージアムというのは、傾斜している回廊を見て回るというような、今までの安定した美術館とは違うわけで、まあ賛否両論あると思いますが、そこが刺激的なわけですから、せっかくのグッゲンハイムのコレクションだったら、別にまったく同じようにしろとは言いませんけれども、そういうような演出というのがもしかしたら出来たのではないかな?と思いました。
 今回展示されているいろんな作家たちは、音楽の分野の人たちともかなり交流をもっていたんですが、そういう思い出が蘇ってきたのは私にとって楽しかったですね。

横尾: あと、タイトルなんですが、ヨーロッパの絵画からアメリカの現代美術まであるということで、ルノワールからアンディ・ウォーホルまでというサブタイトルがつけられていると思うんですが、もちろんウォーホルで終わったわけではなくて、その後があるんですね。最後にグッゲンハイムの風景を描いたのがありましたね。あれは写真を素材にしてできるだけ写真に忠実に表現をしようという、ハイパー・リアリズムという作品なんですけども、それが流行ったのが70年代半ばごろまでかな。で、その後、80年代になって世界の美術シーンががらっと変わるわけです。非常に熱くなるんですね。それは絵画の復権というか、もう1度絵画の面白さ・楽しさあるいは物語性、そういったものを取り戻そうという動きで、同時多発的に世界中で起こるわけです。その中でアメリカでは、最近ちょっと名前を聞かなくなってしまいましたけど、ジュリアン・シュナーベルというスーパースターが出てきまして、後はバスキアとかキース・ヘリングとか名前を挙げだすときりが無いんですが、そういった人たちがこぞって出てくるわけです。で、世界中をかき回しちゃうわけですよね。だから残念なのは70年代のハイパー・リアリズムが終ってしまった後の作品が来ていないという事ですよね。その後の最も熱くて面白い美術作品も見たかった。これはぜひパート2とかでやってもらいたいと思いますね。