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イベント情報

「ミレー3大名画展」スペシャルトークセッション開催(2003年7月3日)

辻 信一

辻 信一(つじしんいち)
文化人類学者、環境運動家。明治学院大学国際学部教員。
著書『スロー・イズ・ビューティフル』 (平凡社)でスロームーブメントの先駆的存在に。
環境NGO「ナマケモノ倶楽部」の世話人を務めるほか、 数々のNPOやNGOにも参加しながら、
<スロー>というコンセプトを軸に環境=文化運動を進める。
近著は『ピースローソク 辻信一対話集』(ゆっくり堂)、『スローライフ100のキーワード』(弘文堂)。
去る6月22日の「100万人のキャンドルナイト」で呼びかけ人代表を務める。

http://www.sloth.gr.jp

本橋 成一

本橋 成一(もとはしせいいち)
写真家、映画監督。91年からチェルノブイリ原発とその被災地ベラルーシを訪れ、
汚染地で暮らす人々を写真、映画に写し撮る。
98年に写真集『ナージャの村』で第17回土門拳賞受賞。初の監督作品『ナージャの村』は国内外で高い評価を得る。2作目の映画『アレクセイと泉』で第52回ベルリン国際映画祭にてベルリナー新聞賞などを受賞。
最新作は、『イラクの小さな橋を渡って』(文・池澤夏樹)。

http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/

~辻先生も本橋監督もすでにミレー展をご覧になっていらっしゃるかと思うのですが、最初にミレー三大名画展の感想をお伺いしながら話を進めていただこうと思います。まず辻先生からお願いします。

辻: 僕は普段あまり展覧会というのは行かないんですよ(笑)。ましてミレーの絵についてこういう場で語ることになろうとは思ってもいなかったんです。しかしミレー展を見ながら、ミレーの世界に感動し、ハマっていく自分に驚くという不思議な経験をしました。最初一回りしたときは、すごく懐かしいなー、という感じでしたね。それで二周目はもっとゆっくり見ていったのですが、見れば見るほど感動が深まるとともに、ふと本橋さんの写真や映画のことを思い出したんです。本橋さんはどうですか?ミレーは意識の中にある人なんですか?

本橋: 友達のフランス人が、僕の「ナージャの村」という映画に収められている風景を見て「これは100年前のフランスだなぁ」、と言ったことがあったので、僕の中にもある程度意識はありました。実際ミレー展を見て面白いと思ったのは、「懐かしいわねー」、という声が幾度と無く聞かれたことです。日本人なのに何故この絵を見て懐かしいんだろうと思う反面、僕自身もなんとなく懐かしい感じがしたのは確かです。僕の作った「アレクセイの泉」や「ナージャの村」でアンケートをとると、何人かが「懐かしい風景でした」、と答えてくれます。だからきっと僕たちの歴史の中で、人間が一番人間らしく生きた時代の懐かしさがこれらの絵の中にはあるんじゃないか、そういう気がしています。

辻: 「アレクセイと泉」を見たときも今思えば同じような懐かしさを感じたんだな、と思います。長い間、こういう世界から遠ざかっていたというような不思議な感覚です。

本橋: 映画の中でアレクセイがいくつか忘れられない台詞を話すんですが、その中に「働くことは食べることだ」、というのがあるんです。ミレーの絵を見るとまさにそうだなと思いますね。手や足がちゃんと道具になっている。僕も手はごつい方なんですけれどね、向こうでおじいちゃんやおばあちゃんとダンスしたり握手したり抱き合ったりしていると、だんだん自分の手が恥ずかしくなってくるんですよ。そういう風に手足を含めて身体全体が道具だったんだ、ということを、展覧会の絵を見ていてあらためて思いましたね。

辻:「アレクセイと泉」という作品にもいろんなテーマがあると思うんですけれど、やはり強烈なのは"生きる技術"とでも言いましょうか、生きるための基本的な技術が満ち満ちている。それらの内の一体どれだけを僕らは今に伝えられているのか、まさに恥ずかしくなります。
今、"技術"という言葉がテクノロジーという風に訳されてしまうんですが、これは落とし穴だな、と思っています。本来生きる技術というのは英語で言うとアートなんですよ。生きる技術があるのと同じように、愛する技術とか死ぬ技術だとか苦しむ技術とかもある。これ全部アートなんです。それが今では専門の人達がアートという言葉を独占していて、僕らは、お金を払ってそれを受け取るという、非常に受身的なところにまでアートが持っていかれてしまっている。
絵というのもまさに一種の技術ですよね。今回の展覧会を見ても、写真も無い時代ならではの執念や迫力を感じます。多分こういった絵を描いていた人というのは、階級からいくと上の方の人で、どちらかというと都会の人であるわけですよね。そういう人たち、男たちが、あんなに農村というものにものすごい注意を向けているということ。それも生半可じゃない。下手したらミレーみたくそのままそこに暮らしてしまうほどこだわっている。そんな執念、想いみたいなものを、強烈に感じますね。

本橋: 僕は写真や映画を撮っていますが、写真というのは機械ですからシャッター押すと写ってしまうんです。その反面、絵は一筆一筆、例えば大好きな人がいるとすれば好きという思いを込めて描き込んでいくわけでしょ。写真は「好き」って言った瞬間に"カシャ"って写っちゃう(笑)。何か便利になった分だけ内面的な想いというのは伝えにくくなっているんじゃないかという気がしますね。本当に内面的な想いを込めて、これだけの絵を描いたっていうのは、やはりすごいと思います。

辻:一方で、おそらく彼らが都会の人たちだからということで想像してみるんですが、都会でその頃起こっていたことも無視できない。要するに急速な近代化、資本主義化ですね。農村からどんどん都会に人々が出て行って、スラムを形成したりしてね。そういう風景が実際あったわけです。そういう社会的な背景を画家たちも一方で抱えていて、そういう微妙なバランスというか二つの風景の間で生きていたんじゃないかな、という気がするんです。
後、僕は時間というのもキーワードになると思うんです。これらの絵の中には明らかに現代とは異質な、僕らが忘れかけていたような時間がある。それが「懐かしい」というような感想にもつながっているんだと思うんですね。この時代にも都会ではどんどん時間が加速する、いわゆる産業的・経済的な時間が入り込んでくる。一方であの絵の中に出てくる風景の中の時間というのはなんとなく留まっている、あるいは動いていてもすごくゆっくりしている。じゃあそれが停滞かというとそうでもなくて、みんな淡々としっかり生きている事がわかる。

本橋: 時間といえば、アレクセイの村には55人のお年寄りたちが住んでいるんですけれど、誰一人時計を持ってないんです。家にもほとんどない。これは撮影の際に困りました。時計を持っていないのは、彼らに時間という観念がないからなんですね。だからこちらの撮影スケジュールが立たないわけ。でも、それに慣れてくると逆にすごく居心地がいいんですよ。「ジャガイモの植付けはいつにするの?」と聞くと、「それは簡単だ、家にあるりんごと白樺とカリンカの三つの木を見てれば大体いつ頃何をするかわかる」、と(笑)。

辻:時間ということでさらに考えていくと、最近思うのは、どうも僕たちは"待つ"ということが不得意になってきてるんじゃないかということですね。待てない人間になってきている。例えば第一次産業というのは生き物を相手にしているわけですが、そこでも待つことが出来なくなってきている。どんどん早めようとするんですね。農薬・化学肥料による促成栽培だとか、遺伝子組替・クローンだとか。特に農業や畜産・養殖の世界ではそれが顕著になってきている気がしますね。それに比べるとおそらくミレーの時代にはそういう意味での寛容さというか、相手を待つ能力というのがもっと豊かにあったのではないかという気がしますね。

本橋:そうですね。結局何もかも一定の速度で全部決めていくということが、いかにおかしなことかということだと思うんです。実はいろんな身体や性格の人がいる状態が、一番まともな事じゃないかなと。だからこのアレクセイの村もたったの56人なんだけれど相変わらずアレクセイも不自由なものを沢山持っているし、ちょっと変なおっさんもいる。そういうのをみんな大切にする社会、余裕というか時間のある社会。そういう社会がだんだん高度成長と共に無くなっている気がします。

辻:展覧会なんかも、要するにそれぞれの人が違う時間・ペースで回っているわけで、そういう状況ではお互いに待ち合ったり、譲ったりという関係にならざるを得ない。社会の成り立ちというのは結局そういうものですよね。よく介護とか養護とか保護とかいう言葉を特別なことのように言うけれど、考えてみたら僕ら誰一人として自分で食べ物を作って、自分一人で生きている人なんていないわけで。みんなお互いに依存しあいながら、迷惑かけあいながら、待たせながら生きている。人間が社会的な動物だという意味はそういうことだったはずなんですよね。それがだんだん待てなくなっていく、つまり共に生きるということが難しくなっていくという社会の方向を目指してきた結果、僕らはとても生きずらく感じるようになってしまったのではないか。そう感じます。それは決して人間と人間との間だけではなくて、人間と自然との関係でも同じことが言えると思うんです。

本橋:「アレクセイと泉」の映画のテーマの一つが"水"でした。この村の老人たちが町に出て行かない理由のひとつが、町を出ていったらこの村に水を返せないから、ということなんですね。僕は最初何のことかさっぱりわからなかった。で、いろいろ聞いてみると、つまり命を宿すためには水がないといけない。実際、人間の身体というのは7割は水だそうですよね。で、老人たちはそのことを「水を借りている」っていう表現をするんです。その借りているっていう考え方がすごいなと。だからまずそういう考え方、謙虚さとでもいいましょうか、そのあたりから始めなきゃなんないんだろうな、と思うんです。

辻:江戸時代の終わりから明治時代の初めにかけて、多くの欧米の人たちが日本に来て、日本の生活を見て大変な衝撃を受けるわけですよ。で、その当時、多くの外国人たちが一致して言っていることは、「日本人は世界で一番幸せそうな生き生きと人たちだ」、ということらしいんです。貧しさはある。でもここには貧困は無いんだと言っているんです。あの村も、はかり方やものさしによっては貧しい人たちかもしれないけれど、あそこに貧困があるのだろうかと。違う言い方をすると、安心というものがふんだんにあったのではないかと思います。我々は豊かさを求めてしゃにむにやってきて、いろんなものを得たわけだけれど、安心は得られなかった。むしろ、どんどん残り少なくなっている。安心は僕たちの手から滑り落ちているんです。ミレーの絵に描かれた世界とはそこが違う。そういう時代に僕たちは生きているんだ、ということを認識しなければならないんだと思います。