2025.07.14 UP
演劇でしか成しえない、演劇を超える圧倒的観劇体験
「人間という生き物は本来、こんなにも高い熱を放ちながら生きているのだ」。
鄭 義信の作品、その物語の中で様々な感情に身を焦がし、心震わせ、魂と肉体の両方を振り絞るように言葉を吐き、舞台上に刻みつける登場人物たちを目にするたび、そんなことを思う。
自身のオリジナルはもちろん、古典の領域から近現代に至るまで、世界的スタンダードとされている戯曲や小説を翻案した作品群でも、そのアツさは変わらない。2020年2~3月に鄭が、シアターコクーン初登場作として世に問うた『泣くロミオと怒るジュリエット』も、そんな、シェイクスピアの本歌取りが功を奏した作品だ。
シアターコクーンで長く芸術監督を務めた故 蜷川幸雄に敬意を表し、オールメールでの上演を思い立ったとは初演パンフレットにある鄭の言葉だが、美しく装った女装の麗人は一人も登場しない。そもそも王族・貴族の類ほど鄭作品の世界観から遠い存在はなく、今作も工場の粉塵にすすけた何時か何処かのヴェローナを舞台に、関西弁が母語の町で愚連隊とヤクザが衝突し、市井の人々が巻き込まれるという構図になっている。
さらに、桐山照史演じる主人公ロミオは愚連隊あがりでもつ焼きの屋台を引く吃音の青年で、彼が運命的な恋に落ちるジュリエット(柄本時生)も田舎から出てきたばかりで少々容姿に難アリの娘(開幕すぐ、ジュリエットの自己紹介が秀逸過ぎる)という設定。オモシロとギャグをこよなく愛する鄭は、悲劇として知られる「ロミジュリ」にこれでもかと笑いを盛り込み、実際、観客も随所で大いに沸くのだが、最終的には驚くほど清い涙で劇場が満たされる、というのが初演観劇時の記憶である。
演劇というライヴでしか味わえない魅力に満ちた本作は、初演時、新型コロナウイルスによる感染症禍の拡大により、東京公演終盤と大阪公演全体が中止に。悔し涙を流した出演者も少なくなかったという中断から5年。作品の中核を担う俳優たちに新戦力を交えた強力布陣で、『泣くロミオと怒るジュリエット』が2025年版として帰って来たのだ! これはもう、観るしかないではないか。
新たな座組が作品の魅力を倍加させる
先にも書いたジュリエットの自己紹介から始まる冒頭。初演は愉快な登場から、物語の進行と共に本当に愛らしく見えるようになっていく柄本ジュリエットに驚かされたが、今回は最初から結構(失礼!)キュートで先制パンチを食らう。迎えに現れるのはジュリエットの兄ティボルト(高橋努)の内縁の妻ソフィア。初演に続き演じる八嶋智人の見事な〝関西のおばちゃん〟ぶりは、自身の母の生き写しと言うが、改めて、微細な演技までを完全にコントロールする技術の高さに笑いながら感心させられる。
町を二分して抗争を繰り返す、モンタギューとキャピレットの2つの愚連隊。ロミオは既に堅気だが、同じ在日コリアンで孤児という身の上の親友ベンヴォーリオ(浅香航大)とマキューシオ(泉澤祐希)の二人は、いまだ喧嘩と空騒ぎの渦中に身を置いている。ティボルトが私淑するヤクザの若頭ロベルト(和田正人)の存在が無気味だ。諍う町にうんざりしているティボルトの叔父でもある警部補カラス(市川しんぺー)と警官スズメ(中山祐一朗)、音楽で場を彩る傷痍軍人(朴勝哲)、父親のようにロミオを見守る漢方医のローレンス(渡辺いっけい)など、新旧の別なく全キャストが存在感の塊と言っても過言ではない。早変わりで複数役を演じる10人のアンサンブルキャストも、ヴェローナの空気を醸すため不可欠の存在だ(鄭によると、初演よりイカツさ7割増しだとか)。
浅香、泉澤、和田、中山、市川、渡辺の6名が新たに加わったメンバー。ロミオの親友、理性的なベンヴォーリオ浅香と血の気の多いマキューシオ泉澤、つるむ三人それぞれの個性が際立ち、過酷な環境で生き抜くために結び合った友情の切実さが胸に迫る。一歩引くのが常態のロミオを、いやでも明るみに引き出すマキューシオの強引さと、客観的でありながらロミオに寄せる想いの強さが隠し切れないベンヴォーリオ。対照的ながら嘘のない芝居ぶりが共通し、その関係性の濃密さがひどくリアルだ。
一体どんな経緯でロボットのように、鋭角に動き続けるロベルトが誕生したかは大いなる謎だが、人間離れした動きをエッジ鋭く体現する和田の身体能力は脱帽もの。一見、権力を振りかざす悪徳警官のようでありながら、自身の「正義」を持つカラス市川と、不思議な無垢さで場を和らげるスズメ中山のコンビは、世間の不条理を体現する存在に見える。また、奏でる音楽で劇世界の空気を醸成する朴の演奏は作品に不可欠のもの。秘めた想いの大きなローレンスをダイナミックに演じる渡辺の、エネルギー量の高い動的な演技に俳優の熟練、その一つの極みを見た想いがした。
もちろん、戦争で片足と心の核を失って苦しむティボルト高橋の誠実かつ痛烈な表現と、そんな彼を大いなる愛で包み込むソフィア八嶋の夫婦善哉ぶりも健在で、5年を経てさらなる熟成を見せていた。
そして、愛くるしくもしっかり者感が増したジュリエット柄本を見初め、とことん想う、我らがロミオ桐山の純粋さ&情熱と言ったら! 性別などという線引きは舞台上のどこを探しても見当たらず、身内からも世の中からも弾き出されてしまう二人の、それでも断ち切れない強い絆と愛が、少しでも報われて欲しいと願わない観客はいないのではなかろうか。原作の設定よりは年齢的にも大人なロミジュリ、しかもオールメールというフックがかかっているにも関わらず、真っ直ぐに強く惹かれ合う二人の心に少しの歪みも見当たらず、観ているだけで浄化されていく気さえする。
悲劇を繰り返し、差別や断絶を暴力的に拡大し続ける人類の愚を冷徹に見据えつつも、個々の人間を愛し続ける鄭 義信という創り手だからこそ生み出せた奇跡。再会した『泣くロミオと怒るジュリエット2025』は、そんなことさえ考えさせられるほど魅力的だった。
フィクションが現実に重なる皮肉と矛盾
戯曲、演出、演者の魅力に美術、照明、振付、殺陣、音楽などのスタッフワークが、初演に倍する味わいと奥行きを加える今作。だからこそ、ドラマの最終景は一段と衝撃を増していた。
原作を踏襲する行き違いによる二人の死に続き、今作のヴェローナは大きな地震とそれによる火災に見舞われる。大災害の混乱に乗じ、モンタギューを潰しにかかるキャピレットは卑劣なデマを流し、多くの血が流されていく。
そんな凄惨なシーンにも拘わらず、久米大作がこの場のために作曲した音楽にはどこか聖性が感じられ、美しい旋律と破壊音が重なる中、ありふれた幸せを望みながら傷つき倒れていった者たちの幻想が、儚く舞台に立ち現れるのだ。本来であればフィクションにしか見えないこのラストこそが、私たちが生きる「今」の残酷さに重なるという皮肉と矛盾の大きさと言ったら‼ 終幕までの20分近く、目は舞台に釘づけのまま思考は心の深くへと降りて、「自分にとって真に守るべきものは何か。幸せとはどんなものか」を考えていた、気がする。そんな思考の残り火はいつまでも胸にあり、劇場からの帰途もその熱を反芻する自分がいた。
こてこての笑いから怒涛の終幕までの約3時間半。『泣くロミオと怒るジュリエット2025』の観劇は、心と頭を強烈に揺さぶり、普段は目を背けてしまいがちな自分の芯にあるものへと目を向けさせる。演劇でしか成しえない、演劇を超える体験。観逃がしは人生の損失だ、と言わせていただきたい。
Text:Sora Onoe
撮影:細野晋司