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劇場の、そして〈あなた〉の欲望が、「マクベス」に浸食する―。

マクベス Macbeth

作:W・シェイクスピア 翻訳:松岡和子 演出:長塚圭史

2013年12月8日(日)~12月29日(日) Bunkamuraシアターコクーン

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『マクベス Macbeth』初日観劇レポート

面白うて、やがて哀しきマクベス

ああ、楽しかった。シェイクスピアの四大悲劇と奉られる作品を「楽しかった」とはお怒りの向きもあるかもしれないが、楽しかったのだから仕方がない。だってこれは芝居だもの。マクベスの言葉を借りれば「たかが」芝居。されど、芝居。

六角形のセンターステージが設えられた客席に一歩足を踏み入れると、顔色の悪いお兄さんたちが案内なぞしてくれる。もう芝居は始まっているのだなと高揚するなか、「観る者」と「観られる者」の境界線はいつの間にか溶け出して、私たちは知らず知らずにマクベスを追い詰める共犯者になっていく。とある事情で直接的には共犯者になり得ない観客も、精神的に加担しているのならば「共謀」している。この共犯者になるための「お願い」は幕開きに伝えられるので、遅刻厳禁。

そうして始まるスコットランドの武将マクベスの悲劇。いや、本人にとっちゃ悲劇かもしれないが、ハタから見りゃ立派な喜劇だ。「いずれは王になるお方」と魔女にノセられ、おだてられ、その気になったらハシゴ外され、自滅して。そりゃ笑うしかないだろう、自分で自分を。独り相撲もいいとこだ。一心同体に見えた妻も真実の一枚岩ではなかった。どんなに愛し合っていようが、相手をわかったつもりになるなんて傲慢な幻想にすぎない。理性を上回る欲望に取り憑かれてしまった堤真一のマクベスは、身の丈に合わない服を着た哀れな道化のごとく。小心者の勘違いとタガが外れた暴走は、本人すらわかっちゃいるけど止められない。

シェイクスピアの堅苦しさから私たちを解き放ってくれたのは、俳優陣がシェイクスピアの言葉を咀嚼し自分のものにしていたからでもあるだろう。なおかつ演技の質の違いが個々のキャラクターを際立たせ、マクベスに逆襲する王子マルカム(小松和重)、あちこち報告しまくる旅人ロス(横田栄司)、魔女の親玉ヘカテ(池谷のぶえ)など、これまであまり気にしなかった(失礼)人物たちが何と魅力的に躍動していたことか。言葉が俳優の実感を伴う血肉と化して発せられるからこそ、何もないセンターステージは宮殿にも魔窟にも戦場にも見えてくる。ごく日常的なあんなものやこんなものさえ、想像力ひとつで権力の象徴にも、マクベスを追い詰める武器にもなるのだ。私たちの身体に飼う魔女を覚醒させ、自発的にこの劇に参加すると、がぜん楽しさが増してくる。ところが、いけにえの末路にお祭り騒ぎで溜飲を下げて満足している我と我が身を振り返り、ふと怖くなるのだった。もの言わぬ私たち大衆の欲望は、出る杭を闇に葬り去ることもできてしまう。ターゲットが滅びれば、次のターゲットを探すまで。「あいつバカじゃない?」と笑いながら。ううむ、どうやら長塚圭史の術中に嵌ったらしい。

文:市川安紀
写真:谷古宇正彦