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Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品 All the Winners

第33回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品

山崎ナオコーラ 著

『ミライの源氏物語』

(2023年3月 淡交社刊)

選 考 俵万智
賞の内容 正賞:賞状+スイス・ゼニス社製時計
副賞:100万円
授賞式 2023年11月10日(金) 於:東京日仏学院

当日開催した贈呈式の模様を動画でご覧いただけます。
また、同日開催した受賞記念対談については、Bunkamura STREAMINGにて期間限定でご覧いただけます(無料・要登録)。
授賞式のレポートはホームページで公開しています。

受賞者プロフィール
山崎ナオコーラ(やまざきなおこーら)

小説家、エッセイスト。1978年生まれ。性別はない。國學院大學文学部日本文学科卒業。卒業論文は似ている人たちをカテゴライズする不思議さについて書いた「『源氏物語』浮舟論」。2004年に「人のセックスを笑うな」で文藝賞を受賞しデビュー。「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書く」が目標。『源氏物語』の現代語訳が夢。

選評

ミライへのエール / 選考委員 俵万智

 素晴らしいアプローチの源氏物語読本だ。「古典をなぜ読むのか?」という古くからある問いに対して、これほど明快で深い、それでいて新しい答えに、私は出会ったことがない。
 高校で古典を教えていたとき、教科書に出ていたのは、光源氏が紫の上を見初めるシーンだった。授業のあと、女子生徒に「なんだ、源氏ってロリコンじゃん」と言われた。顔には「まったく共感で・き・ま・せ・ん」と書いてある。教科書を作る人たちは、妙齢の男女の恋愛沙汰よりも、幼い少女が登場する場面のほうが無難だと考えたのかもしれないが。あのとき、ナオコーラさんのような見方ができれば、生徒とともに議論して、充実した読書体験ができたのにと思う。

古文漢文の解答欄の余白には尾崎豊の詩を書いてくる

 「なんで古典なんか読まなきゃなんないんですか」という質問に対して、さすがに「受験に必要だから」とは答えなかった。が、言ってやれたのは「時を越えて残っているんだから、ハズレのない読書だよ」とか「社会や文化が変化しても、恋をしたり、妬んだりっていう人の心は変わらない……そういう面白さが味わえるよ」とか、その程度のこと。
 時代の違い、そしてそれでも変わらない人の心……という答えには割と説得力がある。「昔と今、こんなに違うのか」「それでも恋のときめきや失恋の悲しみは同じだね」的な。
 ただ、ここには落とし穴がある。社会=変化するもの、人の心=不変、というシンプルな見方では、社会が人の心に及ぼすものが抜け落ちてしまうのだ。
 人の心は、社会規範の影響を受けている。この視点を徹底して、『源氏物語』を読み解いたのが『ミライの源氏物語』の大きな特徴であり魅力だ。登場人物はもちろん、作者の紫式部自身が、当時の社会規範のもとに生きていた。そして読者の私たちは、今という時代の考え方のもとで日々を送っている。古典を読むとは、そのギャップを忘れて過去に心を遊ばせることではなく、そのギャップから見えてくるものをこそ味わうことなのだと本書は語りかけてくる。たしかにそれは、現代の小説ではできないし、過去の読者にもできない読書体験だ。
 たとえば、今の私たちからすると性暴力としか思えない場面が、『源氏物語』にはしばしば登場する。それを性暴力と感じるのが現代の自然な感覚だし、これもまあアリとしてしまうのが当時の社会規範だった。しかし、アリだったとして、暴力を受けた側の心はどうだろうか。柏木にレイプされた女三宮が、夫である光源氏を「裏切った」と言えるのか? 薫のふりをして寝所に入ってきた匂宮に犯された浮舟が、「二股かけた」と言えるのか? ナオコーラさんの問いかけに、何度もハッとさせられた。長い源氏研究で、常識とされてきた読みにも、鋭く切りこんでいる。
 社会的にアリだというのは、本人たちも半分はそう感じていたかもしれない。けれど、だからこそ、いっそう悩みは深かったことだろう。理不尽な目にあっても、それが理不尽だと意識できない辛さ。そこまで味わう読書によって、そうではない今という時代が照らし出される。過去は現在と地続きであり、決して他人事ではない。そしてまた、未来も。
 ルッキズム、ロリコン、マザコン、トロフィーワイフ、ジェンダーの多様性、エイジズム……。目次のすべてのトピックが『源氏物語』にあるというのは、なんとも壮観だし痛快だ。今なら炎上必至の案件でも、そうではない社会規範のもとゆえ、バンバン描かれている。その不謹慎さと面白さ。そこは正直に甘い気持ちになったりもするナオコーラさんがまた素敵だ。だってこれは、こむずかしいイデオロギーの教科書ではなく、『源氏物語』を語った本なのだから。
 今回の受賞が、ナオコーラ版の全訳『源氏物語』につながりますように。ミライの読者として、待っています。

俵万智(たわらまち)

歌人。1986年、作品「八月の朝」で第32回角川短歌賞受賞。1987年、第一歌集「サラダ記念日」を出版、ベストセラーとなる。翌年、「サラダ記念日」で第32回現代歌人協会賞受賞。2004年 評論「愛する源氏物語」で、第14回紫式部文学賞受賞。第四歌集「プーさんの鼻」で、2006年 第11回若山牧水賞受賞。歌集の他、小説、エッセイなど著書多数。最新歌集「未来のサイズ」で2021年第36回詩歌文学館賞、第55回迢空賞を受賞。「現代短歌の魅力を伝え、すそ野を広げた創作活動」により2021年度、朝日賞受賞。

受賞の言葉

エールを受けて / 受賞者 山崎ナオコーラ

 Vブイさんが亡くなった。

 私は、新人賞で作家デビューした際の「受賞の言葉」執筆時を思い出す。第一稿に家族への礼を書いたところ、編集者から「それは個別に伝えればいいのでは。読者だけを見て、限られた文字数で『山崎ナオコーラの文章』を出すのはどうでしょうか」と提案された。もっともだ、と、第二稿から削った。

 やはり、ここでも読者だけを向きたい。ただ、礼は書かないが、家族まわりの話から始める。

 Vさんは話し上手で、人を笑わせる。そして、呉服商だった。子どもの一人は洋服店に勤めているので関係がありそうだが、別の一人の子どもは関係のない本屋勤務だ。その書店員と家族になった私は作家で、Vさんの仕事や趣味とは離れていたと思うのだが、よく私の新刊の感想を伝えてもらった。Vさんが亡くなる二週間ほど前にBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞の連絡があり、伝えると喜んでくれた。「オレはおしまいだ」と冗談ぽく笑い、私はなんと言っていいかわからなかった。

 葬儀の日は、孫の誕生日だった。私と住む四歳の孫が、しかつめらしく葬列に並ぶ。「さようなら」の言葉が溢れる中に、「おめでとう」が小さく紛れる。私はバトンを思った。

 俵万智さんからエールを受けたことを、私は仕事の活力にさせていただく。そしてエールのことを思うとき、ついでにVさんのことも思い出すかもしれない。どうも、頭の引き出しが、ごちゃごちゃしたものを繋げて仕舞う構造になっている。

 人は、時代や場所や社会規範や人間関係と共に在る。記憶も思考も今ここでする。今、ここで、本を読み、書く。

 昔、執筆時間を捻出できずに悩んだことがあった。家族との時間を減らし、友人からの誘いを断り、執筆に集中したら、意外にも、作品はいまいちの出来になった。

 テキストは、時間や場所から離れて浮遊しているわけではない。やっぱり私は家事をし、苦手ながらも人間関係を築き、時代と社会に揉まれる生活の隙間で、書いていく。

 言葉は常に人と人との間にある。

 読むときも同じだ。

 千年前に制作された『源氏物語』は、テキストだけが異空間をビューンと飛んできて、現在も読まれているのではない。読者によって「制作」が続いた。

 印刷技術のない時代、書き写しで次の読者へ繋いだ。すると、良くも悪くも文末などが変化する。「青表紙本」「河内本」など写本の系統によって少しずつ違う、多様な『源氏物語』が生まれた。

 キャラクターの名付けにも読者は参加した。高貴な人の名を出すのは失礼というマナーがあったため、原典には人物名があまり出てこない。「夕顔」「末摘花」などの主なキャラクター名は読者が考えたあだ名だ。

 その時代ごとの読み方を追求した読者もいる。菅原孝標女や本居宣長などの著名な読者だけではない。名もなき読者たちが作った空気感が、今の読書に効いてくる。

 前時代の読者が、現代の読者にバトンを渡してくれた。

 未来へのバトンはどうしようか。未来の読者は、人権意識を強く持ち、多様性の浸透に馴染んでいる可能性がある。

 今だからできる読み方を探ることこそ、古典の勉強になる。古典を読むとは、今を忘れ、未来を考えず、過去に戻ることではない。今の「読み」を見つけ、未来に繋げることだ。

 冒頭で触れた、私が二十年近く前の新人賞受賞時に書いた「受賞の言葉」は、奇遇にも俵万智さん特集号の雑誌に掲載された。それから私が初めて書評を書いたのが、俵万智さんの歌集『プーさんの鼻』だった。私は同時代で言葉に携わったり育児したりすることを勝手に喜んできた。しかし、お目にかかったことはない。今度、対談で初めてご挨拶する予定で、とても緊張している。

 久しぶりに受け取る賞というものが、俵万智さんがお書きになっているところの「横からエール」で、権威から認められる意味合いのものとはちょっと違うのも、なんだか嬉しい。

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