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ホーム > Bunkamuraドゥマゴ文学賞 >第28回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞記念対談

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第28回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞記念対談

(2018.12.05)

11月12日に開催されたBunkamuraドゥマゴ文学賞授賞式において、選考委員の大竹昭子氏と受賞者の九螺ささら氏による記念対談が開催されました。受賞作『神様の住所』の話から、創作の秘訣など1時間を超える濃密な対談の全容を紹介します。

大竹:始めに九螺ささらさんの『神様の住所』を選んだ理由を簡単にご説明したいと思います。ドゥマゴ賞は1933年にパリで若者がポケットマネーを使って作った賞だそうです。ですから私が選考委員をするからには、そのような賞に相応しい作品を選びたいと思いまして、任期の半ばくらいに来たときに、選考基準というのを私なりに考えました。

ひとつ目は、いわゆる既存のジャンルから逸脱する実験精神に溢れていること。ふたつ目は、言葉による表現とは何かということを、理屈ではなくて、言葉への切実な感情を通して考え抜いていること。三つ目は、できれば初めて世に問う作品であること。これを基準にしたところ、6月に九螺さんの『神様の住所』が発表され、一読してすぐに三つの条件をすべてクリアしているのがわかり、この作品に決めたのです。

九螺さんとは今日、初めてお会いしまして、正確にはこの対談が開始する15分前のことです。新聞雑誌にインタビューは出ていると思いますが、この場で新鮮な気持ちで話を伺いたくて、あえて読まずに参りました。ですから九螺さんの情報は、受賞の言葉と、『神様の住所』と、その後にだされた『ゆめのほとり鳥』という短歌集のみです。つい最近『群像』にエッセイを書かれたので、それも拝読しました。

九螺:いま新潮文庫のweb文芸誌「yom yom」に「きえもの」という連載を始めさせていただいております。

大竹:そうでしたね、それも拝読しました。ですから、作品は読んでいますけど、ご本人の発言による情報はゼロです。作品から書くことへの切実さ、書かずにいられないパッションを受けとったのですが、受賞の言葉に、「15年前に、家を出た」という話が出てきますよね、これにはっとしました。まずその辺のことからお話しいただけますか。

九螺:15年前にほとんど家出のような感じで一人暮らしを始めました。位置づけは文章修行を始めることとしての一人暮らしの始まりでした。それがなぜ15年前だったかというと、向田邦子さんが家を出て一人暮らしを始めたのと同じ年齢だったんです。

向田さんについては環境が似ている、兄弟関係とかが似ているということと、小学生のころに『阿修羅のごとく』にとても衝撃を受けたので、ずっと意識していました。書き手としての表現者って、やりづらい、あるいは理解されないということで、肉親とかと縁を切る人もいると思うんです。だけど向田さんは封建的なお父様がいらっしゃって、お母様がいらっしゃってというなかで、実名でその家族生活を書いていらっしゃって…。

『阿修羅のごとく』というのはお父さんが実際にした浮気のことを書いています。それを小学生のときに知って、すごく危険なことをやっているなと思って、震えるというと大げさですが、すごいなと思ったんです。それからずっと向田邦子さんのことは自分なりに追っていました。それで15年前に今を逃すと向田さんと同じになれないと思って、家を出ました。私は青山学院の学生だったのですが、大学近くのパン屋さんの後ろに向田さんのマンションがあると知って、入学式のときにそこを拝みに行ったんです。それくらい傾倒していたので、向田さんのことは自分が目指すひとつのものだったというのもありまして、家を出ました。とにかく出ましょうと。

大竹:なるほど。

九螺:それで文章修行を始めるため、どこで一人暮らしをするかを決めるために、神奈川県のすべての図書館に行って、そのなかで一番勉強が捗り、蔵書量も豊富な場所に決めて、その近くに住み始めました。親には文章修業のことは伝えず、それから小説をはじめ、いろんな形態のものを書いていたんですが、10年前くらいに短歌という形に出会って、短歌を書き始めました。

大竹:文章表現には小説や詩もありますけれど、ほかの表現はぴったりこなかったんですか?

九螺:小説を書いたときは、「すばる」と「文學界」の新人賞に応募し、一次選考は通りましたが、二次以降にはいきませんでした。あと現代詩とかでも入選したりはしていましたが、自分の中で合致してはいなかったんです。小説や詩ですと思いが薄まっちゃう感じがして。それで自分の感情にぴったり合うのが短歌だったということです。

大竹:表現者になりたいという希望はかなり小さいときからあったんですか?

九螺:ミシャエル・エンデの『モモ』、いや、それより前、言葉の一番最初の衝撃というのは幼稚園生のときですね。私立のお寺が経営している幼稚園に通っていて、毎月本2冊を渡されていました。そのなかの一つに回文の教材がありまして、それに目が釘付けになってしまって、「軽い機敏な子猫何匹いるか」って書いてあったんです。下から読んでも「かるいきびんなこねこなんびきいるか」なんです。それが最初の衝撃で、そこからだと思うんですが、言葉が衝撃を与えるってすごいなという思いが芽生えました。その後は、『モモ』とか『山月記』とか谷川俊太郎さんの『かなしみ』や『こころ』といったものにショックを受けました。なので、言葉でそういう感動を誰かに与えられるものを作りたいというのはずっと思っていました。

大竹:思いは強かったけれども器が定まるまでに時間がかかったということですね。

九螺:そうかもしれないですね。

大竹:そして短歌に定まったら、どんどん出きたんですね。

九螺:自分自身の感情に溺れるというのは、生活者としてはマズイことですけど、表現の形が決まっている人にとっては、器に対する中身というのはあればあるほどいいですよね。

大竹:短歌が感情をあふれ出させたのですね。

九螺:はい。なので、私の感情の性質というのは、そのときは、ですけど、短歌に合っているとは思いました。

大竹:そのころは、たとえば1日にどのくらい出来たのですか?

九螺:のちのち修正をするという前提ですが、何十首も。最初の素材としてはいくらでも出来たということですね。

大竹:書くときはなにで書かれますか? パソコンですか?

九螺:いいえ、パソコンを入手したときがあったんですけど、すごく手がすべる感じがして。

大竹:手がすべる?

九螺:手の動きだけで、運動している感覚になってしまって、言葉がすべる感じがしたんです。

なのでパソコンは封印して、手書きじゃなきゃ書いてはいけないということに決めました。修行中なので、自分なりのリズムなり形なりが出来たら、手の先にどんな機器を持ってきてもいいけれど、まずは手書きで自分の脳と指先の回路を作る時期なんだろうなと思って、手書きで書いてました。短歌研究新人賞次席になった連作の「神様の住所」に応募したときも手書きでした。

大竹:いまはどうですか?

九螺:手書きのあとに許したのはガラケーで、『神様の住所』と『ゆめのほとり鳥』は全部ガラケーで打ってました。全部親指だけで打って、それを編集者の方に送ってました。『ゆめのほとり鳥』が出来てしばらくしてガラケーが死んだので、今はスマホにしてます。

大竹:スマホで短歌を……。

九螺:「きえもの」はスマホの薬指で。薬指はあまりメジャーじゃないみたいですけど。

大竹:ちょっと打ちづらそうです。

九螺:両手の指で書く方が多いようなんですけど、私は初めに薬指で始めてしまったので、ずっと薬指で書いてます。

大竹:短歌に出会ってからもアウトプットの形式は随分と変遷してるんですね。

九螺:スマホでも最初は親指でやろうとしたんですけど、やりにくいんですよね。薬指が一番入れやすかったので、そのまま。

大竹:そうすると通常の原稿のやりとりも、パソコンではなくて全部スマホの薬指ですか?

九螺:スマホの薬指で入れて、編集者の方にそれを送ってやりとりをしています。

大竹:言葉の誕生と機材の相性って、かなり関係ありますか?

九螺:私はそういう気がしたので。

大竹:九螺さんにとってはそうなんでしょうね。ガラケーで文章打つ人ってあまりいないと思うので、独特です。

九螺:ただどなたかもおっしゃってましたが、1個1個打っていくのが重いからいいとおっしゃっていて、私もそう感じてました。短歌ってよく措辞って言われると思うんですけど、動かないよねって言い方をするものですよね。ここは“ひまわり”じゃなくて“タンポポ”なんだねと。絶対に“タンポポ”でそれ以外のものじゃないんだよねとか。助詞、助動詞でも、ここは「て」じゃなくて、「に」なんだねっていうのを、動く・動かないっていいますよね。それを1文字1文字確認することに物理的になるので。

大竹:なるほど。重みがよかったんだ。

九螺:ひと指ひと指打っていくということが。田植えみたいなんですよね。田植えのように1文字1文字入れていく感じがするので。

大竹:なるほど、田植えねえ!

九螺:私のやり方では、相応しかったと思います。

大竹:そういえば、欧米の作家のだれかが、電動タイプライターがだめで、マニュアルを使い続けたと言っていました。あのパチンパチンと音を立てて打つ肉感的な感じがいいのだと。

九螺:一文字一文字に重さがあるというか。

大竹:そういうことですね。

ところで、この本が単に短歌を集めたものだったら、処女作でも賞の対象にはしなかったと思います。どういう形式かはお読みになった方はご存知だと思いますが、ちょっと説明しますと、最初に短歌があり、そのあとにエッセイが展開されていき、最後に短歌が結のように締めくくっています。つまり短歌のあいだに散文が挟まれてサンドイッチのようになっていまして、あとがきにも単なる短歌集とは違う形式にしたかったと書いておられますが、そう思ったのはどうしてですか? また、この形式に至るまで試行錯誤があったのでしょうか。

九螺:単なる歌集というか、時系列の歌集というのが、おもしろくないと思っていました。たとえば昨日の次に今日が来て、今日書いたものの次に明日が来てという出たものを置いてあるだけっていうものは自費出版にはよくあると思うんです。それはたとえば、本人にはおもしろいと思いますよ。本人は自分の頭のなかにある情報を込みで読んでいて、たとえば俺1年前に失恋したから、このとき、これ書いてるなと、本人はおもしろいですよね。

大竹:日記的なおもしろさよね。

九螺:はい。自分の頭の中にある情報をまぶして読んでいるから、あるいはその人に近い人もおもしろいと思うんですよ。あいつ1年前に失恋したから、こんなの書いてるって。でも知らない人にとってはまったく面白くないんですよ。

大竹:情報がないとそうなりますね。

九螺:私のところにも送られてきたりしますが、時系列の日記みたいなものはなんにも私の視線を引っ張って言ってくれない。できることなら、熱中して読みたいんですが、最初から全然引き込んでくれない、というようなものばかりだったりして、そういうことにうんざりしているというのもあって。だからといって、私は短歌を否定はしているわけではなくて、短歌をとてもおもしろいと思っていて、今のこの時代ってSNSとかにもハマったりしていますよね。また新しく感じられていま面白いんだろうと思っていて、担当編集の方も、もし出すんだったら、時期的には今ですよみたいなことをおっしゃったことがありまして、いま短歌は面白いんだと。

なので、短歌の面白さがもっと伝わる形はなんなのかなということを考えて、この形になったと思います。しかも一般の人が分かる。一般の人というのは、短歌なんか読んだことがない、教科書でしか読んだことがないという人が読んでも、敷居が高くないし、読めるし、しかもおもしろいっていうのはどういう形であればいいのかなっていうことはすごく考えましたね。

大竹:それではここで、実際に作品を読んでいただこうと思います。そのあとに、どうしてこのような起承転結になったのか、着想の理由などをお話しいただきますが、読んでいただくものは私がリクエストしました。23番の「ふえるワカメ」です。ではお願いいたします。

クローンとかAIとかを言う前にふえるワカメの森に行こうよ

 日本人の四人に一人はふえるワカメをみくびり、ワカメの森を出現させたあげく、ワカメの日でもないのにワカメサラダを主食として食べる羽目に陥ったことがあるだろう。
 海草の乾燥力をみくびってはならない。
 我々陸上生物がミイラになるよりも、水中生物である彼らワカメがミイラになるほうが一次元分多く負荷がかかっているのだ。
 パックに入っているときは、まるで未来の森のミニチュアのようにおとなしい。
 だから、いつも油断してしまう。
 一滴、命が与えられれば、彼らは我々の想像を超えて蘇生する。
 それは何か、爆発的、暴力的、復讐的蘇生なのだ。
 味噌汁にちょこっと入れようとしただけなのに、新しい実験の失敗に立ち会ってしまったかのような罪悪感。
 もう戻れない的時間の流れのベクトルの可視化。
 ふえるワカメがふえすぎると、監督不行き届きでふやした人間が罰せられる。
 そんな結果を避けたくて、大きくなりすぎたワニを川に捨てるように、ふえすぎたワカメを捨ててしまう。
 人間は、人間以外の増殖が本能的に怖い。
 インドと中国の人口が増えても「へえー」でしかないが、緩衝材のプチプチや億単位の魚卵を見るとゾッと怖気立つ。
 これは、人類の一員としての危機感なのだ。
 ワカメが人類に取って代わるとこの星はワカメ星になるが、ワカメたちはそんな自らの繁栄に気づかないままゆらめき続けているのだろう。

竜宮で浦島太郎がお土産にもらった箱にはふえすぎるワカメ

大竹:ありがとうございました。楽屋で九螺さんと私とどっちが読むかでもめたんですけど、九螺さんに読んでいただいてよかったです。というのは、「ワカメが人類に取って代わるとこの星はワカメ星になるが」の「ワカメ星」を私は「わかめぼし」と読んでいたんですけど、九螺さんは「わかめせい」と読みましたよね。ルビが振ってないのでどちらとも読めますが、私はキラキラ星の連想から「ぼし」と読んでいたのですが、「ワカメせい」と読むと惑星みたいで宇宙的な広がりがでます。だからやっぱりご本人に読んでいただいてよかったです。この作品の中には九螺さんの成分がすべて収まっているように思います。まず誰も知らない人はいない「ふえるワカメ」がテーマというのがいいです。どこの家にも必ずある。

九螺:必ずあるかは分かりませんけど…。

大竹:うちにはあります(笑)。まあ、ふえるワカメを知らない人はいないし、増えてしまったときの驚きというのも、だれもが一度は体験していると思うのです。そういう卑近なものを取り上げながら、最後は宇宙的なレベルに話を飛翔させていくところがすばらしいです。ハッとしたのは、「一次元分多く負担がかかっている」のところです。我々人間がミイラになるより、水のなかにいる水中生物はたしかに一次元分負担が多いですよね。でも、ふだんワカメと人間をそんなふうには比べませんから、こういう着眼点にこれまでの短歌にはあまり見られなかった感性が出ていると思いました。

それともうひとつ、「人間は、人間以外の増殖が本能的に怖い」のところです。その通りなんですけれど、このように表現されると違った感じを受けますよね。ですから、九螺さんの場合、だれもがどこかで感じている事柄を取り上げつつも、光の当て方が違うんです。そこが言葉を屹立させている理由だと思います。

こういう言語感覚には、いわゆる文学少女とは違うものが混じっているように感じるのですが。図書館のすぐそばに家を探したとか、向田邦子に惹かれたとか、『モモ』が好きだったとか、文学少女だったのはたしかですけれど、それ以外のものもたくさん吸収してきたのではないでしょうか。

九螺:信じるということに関してですが、私の父の母、私の祖母にあたる人が、ある新興宗教を信じていまして、それを封建的な感じで家族に信じなさい、みんなバッジをつけてくださいと言うんです。私はどうしてもいやだったんですが、父は親孝行だと思って信じてくれと言うんです。その新興宗教は、ある女の子に神が宿ったということで、それを信じている人がたくさんいるらしく、日本中からマイクロバスでたくさんの人がそこに来るんです。その力はすごいと思うけれど、私はどうしても信じたくなくて、でも家の中ではいえないから、じゃあ、自分は何を信じるんだというときに、中学生のときに自分ひとりで信じられると思ったものが、数学の公式と理科と、あと詩だったんですね。みんな抽出作業ですよね。

それらは究極のものだから信じられると思って信じたいと思いました。たとえばこの世で一番速度が速い物質は光で、それは秒速が30万キロメートルだということは今のところ覆されていないというような、人類が共有しているような認識、知識、盤石な知識ならば信じたい。誰かがぽっと考え付いたかのような新興宗教とかは絶対信じたくないと思って、そこからすごく私は数学を信じたいと思いました。それから小学生くらいの子がよく考えると思いますが、宇宙の外側はどうなっているんだろうと。それって今のところ人類は分からない。そこを考えるのをどうやって諦めることができたかというと、人間の脳の構造と、宇宙というものの構造が、数学でいうところのシミラー、相似の関係だから、宇宙が作られているもので脳も出来ている。同じ原料で出来ているので、相似していて、だから人間が脳の外でモノを考えることができないのと同じように、宇宙の外というのも考えられないんだということで、あきらめがついたんです。ですので、そういう人類共通の盤石な知識が何なんだということは私の興味の大きな柱のひとつです。

大竹:かなり宗教的な色彩が濃い家庭だったんですか?

九螺:いや、全然。カジュアルに、バッジをつけてください、とか、信じてくださいっていうことだったので。母に言わせると、バッジをワッペンみたいにつければいいじゃないって言うわけです。でもそれって信じていますという証拠のためにつけているのであるから、絶対につけたくなかったんですよね。でも田舎というのもあって、父方の祖母という存在がすごく大きいので、祖母の言ってることをみんなが信じないと祖母が気を悪くするからという押しつけの延長にあることだったので、拒否したかったんだと思うんですね。

大竹:幼少のころから、信じるとは何か、というようなことを考えざるをえない環境だったということですね。思いつきで吐く人間レベルの言葉ではなく、盤石な知識に裏付けされた言葉を必要として、理系の世界に接近したということですね。哲学、物理、心理学の用語や概念がよく出てきますが、これはご自身で勉強したんですか?

九螺:勉強したというか。大学は英文科でしたので、哲学や心理学などの本を面白く読んでいたけれど、誰かを師として仰いで研究などはしていないです。ホーキングさんの著作がバカ売れしていたときも読みましたし、宇宙のいろんなことをどういうふうに言語化しているかということには興味がありますね。たぶん言葉としてということに興味を持ったんだと思います。

大竹:興味があるからといって、科学者の道に進もうとかではないんですね。

九螺:それとは違うんです。だから今回この作品を発表した時に、母が私に電話をしてきて、物理的なこととかを誰かに許可を取らなくていいのというわけです。

大竹:許可?

九螺:この作品は研究書では無く文学だから、ただの知識ではないから、何を書いてもいいんですよって言ったら、そうなんだって納得してくれたんですけど。

大竹:かなり几帳面なお母さまですね。

九螺:この本のすごくファンでいてくれているみたいで、分からないところも何回も読んでいると言ってくれています。分からないところがたくさんあるみたいです。母は科学的な人ではないみたいで、私が子どもの頃に、ジャムには毒が入っていると言ったり、かっぱえびせんはいくら食べても太らないと言ったりしていました。母の言葉を信じてかっぱえびせんをばくばく食べている時期があったんですけど、すごく太ってしまい…。水分を取った分、油を付けているので、ああいう軽いものというのは実はカロリーが高い可能性があるというのが中学生のころに分かったんですけど、母の中では、重さが軽いものはカロリーも軽いというイメージがあったらしくて、論理的なこととかが苦手みたいなんです。でもこの本はすごく好きでいてくれているみたいです。

大竹:さっき宗教の話が出ましたが、九螺さんの本には結構、神様、神という言葉が頻出します。

九螺:これでも削ってます。

大竹:そうなんですか!

九螺:はい。最終的にあまりにも出すぎていたので、削ってこれです。

大竹:それくらい自分にとって身近な言葉だと。

九螺:そうですね。

大竹:そのことは意識していますか?

九螺:「<体積がこの世と等しいものが神>夢の中の本のあとがき」という短歌をツイートしてくださった担当編集者の方がいらして、そこから『神様の住所』が始まっているんですけど、この世のこととかを考えるときに、神というひと匙がないと、どうしても分からない部分がありますよね。ビックバンから宇宙が始まったという話になっているけれど、時間を巻き戻していくとそうなるということで、だんだんこの宇宙が冷えていて、だんだん膨張していってということなんだけども、じゃあその前のなかったという状態を人間の脳では想像できないですよね。どんな状態なのかというのが、存在しちゃっていて、そういう構造だから。そのときにもし神様がクシャミをして、そのクシャミがビックバンなんだよというような文学的なアプローチのみが可能で描けるのかなというのがありまして、自分なりにそこをイメージしたいので、神様という言葉を使って、知識的にとか分かっていない部分をたぶん補っているんだと思うんです。

大竹:人間の認識できない領域を、「神」という言葉で表現しているということですね。

九螺:もし分かっているのなら、そこは記号なり数字なりで書きたいところですけれども、限界というのがあるので、たぶん存在の限界だと思います。存在しているから限界があるのだと思いますけど、限界があるがゆえに生きている人間に表現できない、あるいは感知できない部分があるということなんだと思うんです。そこに神という言葉を使って、ごまかしているというと変ですけれど、

大竹:自分に了承させるという感じでしょうか。

九螺:そうですね。

大竹:さきほどのワカメの文章に戻りたいんですけど、これはどこから作っていったんですか?

九螺:たとえばワカメのことを書きたいとなったら……、

大竹:ワカメのことを書きたかったんですか?

九螺:ふえるワカメのことを書きたかったですね。

大竹:ほう。

九螺:とにかく何か面白いものは何だろうということで、編集者の方とメールのやりとりをしていたので、面白ければ何でもいいんです。手あたり次第に面白いと思うものを、ガラケーで、親指で送ってたんですけども、そのなかのひとつがふえるワカメ。それが絶対的に面白いとなったら、散文から書いてもいいし、短歌から書いてもよくて、それは素材によりけりで、浮かんだイメージとしてはもうあるので、料理と同じかもしれないんですけど、これ煮物にする?揚げ物にする?ということなんだと思うんです。

大竹:84項目というとかなりの項目数ですが、実際はもっとあって、減らしていったんですよね。

九螺:そうですね。項目を決めるのが重要だったと思います。形が決まり始めていた頃に「ゲシュタルト崩壊」とか、「黒柳徹子」とか、「レシピ」とかができ始めました。編集者の方が、こういう感じは面白いです。こういう感じで書いてみたらどうでしょうという話になっていって、タイトルは「ゲシュタルト崩壊」とか、「黒柳徹子」とか、「レシピ」とかこういう感じがいいですね。とにかくバラエティに富ませてください、とおっしゃったので、はい、分かりましたという感じで考えていきました。

大竹:具体的にお聞きしますが、ふえるワカメが面白い、これについて書こうと思ったとき、どこから書いていきましたか?

九螺:どこからだったかな。ふえるワカメのことを、研究発表のように堅く書きたかったんです。それが面白いだろうと。ふえるワカメについて、国民だとか、そういう視点から、あのような別に無くても誰も困らないものを深刻に書くと、とても面白いんじゃないかというイメージがありました。どっちから書いたか忘れてしまったんですけど、最終的に浦島太郎のあの箱の中に、ふえるワカメとかがあったら面白いんじゃないかなというのがありまして、いくつかイメージがビジュアル的に浮かんでから、このビジュアルは散分、あのビジュアルは短歌みたいにやっていく料理法という感じがしています。

大竹:本当に見事な展開です。短歌と散文が混じった文章というのはよく目にしますけど、文章の途中に入っていたり、最後に雰囲気としてつけてあるとか。でもひとつつづきの物語にして、最後に短歌でオチをつけるというのは初めてでした。

九螺:なんか、フワフワとか、ファンタジーとか、ファンシーとかいうのが嫌で。ひと昔前の言葉でいうなら、女子供だけが読むようなというのが嫌で、バリバリに働いているサラリーマンの人が家に帰ったときに読めるような、それに耐えうるものを書きたくて、エッセイっていうよりは、コラムというノリで、短歌に感情的なものではなく、論理的な哲学的なものを乗せることで、バリバリに働いている人でも読みうる内容に仕上がると思って書きました。

私が一番最初に面白いと思ったコラムが、週刊文春にずっと前に連載されていた上前淳一郎さんの「読むクスリ」という連載があって、あれはいくつかのアイデアが散文になっていて、どこから読んでも大丈夫で、読んだら誰もが何か、サムシングをアイデアを得ることができるもので、私は父親が週刊文春を読んだらすぐにそれを盗むように自室に持っていって、何度も何度も読んでいたんです。何度読んでもそのたびに得られるものが違ったんですね。そういうものを書きたなというのもあったんだと思います。

大竹:あともうひとつ作品の例を挙げましょう。今度は私が読みます。短い25番の「枕」にしますね。

木琴は絵に描いた線路の枕木だんだん高音だんだん遠く

枕は、真っ暗に含まれる。
真っ暗が、枕を内包している。
枕は、真っ暗に抱かれている。

真っ暗になると、枕は存在感を増す。
あるいは、真っ暗の中でしか、枕は存在できない。

ある日、真っ暗は言った。
「別れよう」
「そんなことはできない。あなたのいない世界なんで」
枕は、枕を濡らして泣いた。
「ごめん、ほかに、好きな人が出来たんだ」

悪びれる様子もなく、真っ暗は、いつも通りに真っ暗だった。

枕は、絶望して消えた。

真っ暗は、「っ」だけになって、半永久的に佇んだ。

枕には日々我の夢染み込んで枕が脳に取って代わる日

大竹:これは真っ暗の「っ」を抜くと枕になる、ということで、一種のダジャレですが、枕は夜に使うものですから、真っ暗と非常に相性がいいわけです。これはどのようにして発想したんですか。

九螺:私、たとえば優しいの中に、やさいという音が入ってる、こういうのが好きなんです。本の中にも書いてるんですけど、同じ音を持っているものは、同じ意味を持つというのを、思いまして、そういう風なことを書いてある本って、日本にも海外にもあるみたいなんですけど、優しいのなかにやさいが入ってますよね、真っ暗のなかに枕という音が含まれていますよね、その構造というものと、実際の真っ暗という現象と枕というモノの関係が、似ちゃってるんじゃないかなと思って、そういうようなことを書きたかったんですね。面白いから。

大竹:違う言葉でも、音が似ていると意味が似てくるわけですね。偶然とは言いきれない、もしかしたら神的領域かもしれません。

九螺:アナグラムという章にも書いたんですが、たとえば英語のdogとgodってアナグラムで置き換えると、犬が神になるんですよね。神が犬になる、とか。ミイラとミライというのが、アナグラムなんです。人間の未来はミイラかもしれないしとなると、同じ音を含んでいるものは、やっぱり同じ意味を含んじゃっているのかなと思ったり、すごい長いものでいうと、ナイチンゲールというスペルをバラバラにして、またまとめようとすると、踊り続けなさい天使たちみたいな形になって、つまりナイチンゲールの一生を表すような言葉になってしまう。そうなってくると、本当にそうなんじゃないかと、突き詰めるつもりもないですけど、面白いと思って書いているってことですけどね。

大竹:言葉をあらゆる角度から分解し、解剖し、腑分けする、その情熱が半端じゃないというか、言葉に対する信頼度がとても高いのを感じます。

九螺:そうですね。最後の「幸福」という章にも書いたんですけど、信じるっていうことは、言葉を信じるしかないと思うんです。たとえば感じるだったら、別に言葉を介さなくても一緒にぴょんぴょん飛んだりすることで感情を共有とかできると思うんですけど、信じるということは言葉を信じるということに結局なってしまうということがあるんじゃないかと思って、言葉というのが、ただの言葉ではないというように感じてるんですね。

大竹:最後の84番につぎのような言葉があります。

「言葉を信じる以外に、我々が信じられるものなど実はないのだ。信じるべきものは、すべて言葉になっている。そして言葉になろうとしている。言葉は、この世の元素だ」

言葉になろうとしている、というところがとてもいいと思うんです。言葉にすでになってしまっているものではなくて、言葉になろうとしているものを言葉にしようとしているのが、まさしく九螺ささらさんなんです。言葉になろうとするものの産婆役を務めるというか、そういう気持ちがないとここまで言葉に突っ込んでいけないです。

九螺:よく言葉にならないんですよというコメントってあると思うんですけど、それってちょっと敗北宣言だと思っていて、絶対そう言いたくないんです。なんらかの言葉にしたいと思っていて、言葉に出来ると思っているんです。なので言葉にならないんだけど、っていうことは私は言いたくないです。

大竹:よく分かります。私も写真とか、美術とか音楽とかの人が、言葉にならないから表現してるんだと言うのを聞くと、それは、そうなのだけど、言葉にしようとしてもがいている自分がいるのがおもしろいし、言葉で追いかける行為に取りつかれているとも言えるわけです。

九螺:小説家の朝吹真理子さんが、言葉にならないというものがあったとして、言葉にしようとしている努力みたいなことを積み重ねると、言葉にならないと思っていたものが、言葉にしようとしたことの外側にあるように感じられることがあるから、常に言葉にしようとしていますってことをおっしゃっていたんですが、言葉にならないと思っているものでも、近くには、気配が感じられるところまでは行くんじゃないかというのはあって、気配が感じられたらそれは人間としては成功かなと思ってます。

大竹:「人間として成功」という言い方がいいですよね。九螺さんのもうひとつ特徴は、人間存在を外から見る視線です。私たち、たしかに人間なんですけど、自分が人間だとはほとんど意識しないですよね。でも九螺さんの中には、人間を器官として、生命体といってもいいですけど、としてとらえる視線があります。人間を動物と等価な生き物として観察するといえばいいでしょうか。それが従来の短歌とは違う独特の手触りをもたらしています。

九螺:小学生のころに「学習」と「科学」という雑誌があって、そのなかに、はらたいらさんがお書きになっていた漫画があって、「ドラえもん」に出てくるような空き地で子供たちが遊んでいて、それがだんだん俯瞰になっていって、鳥がいるくらいの高さになって、あれってそこから思うんです。これを見てる人は誰だろうと。そしてだんだんまた子供たちが遠くなっていって、ある瞬間に地球が丸くなるんです。誰が地球を見ているんだろうと。またどんどん地球が小さくなっていって、最終的に当時の宇宙服みたいなのを着ているふたりの人物が手にピンポン玉のように地球を持ってたんですね。それを見たときにゾッとしてしまって。いわゆる当たり前と思っている地球の客観視なんだけど、地球とか宇宙とかの客観視って、怖いことだけれど、生きている間に感じる降伏してしまうとか、感動してしまうことのうちに最たるものというか、脳が喜ぶような視点とか見方で、生きているうちにしかそれができないような、しかもお金がかからないでできますし。考えすぎて病気になってしまうのであればやめた方がいいですが、タフな脳をお持ちの方はいろいろ考えて一生をおくったほうがいいんじゃないかなと思います。

大竹:同感です(笑)。いま「yom yom」で連載をなさってますよね。これは『神様の住所』とは違うスタイルで、短歌と短歌の間に物語、小説が挟まっています。『神様の住所』の中にも、さっきの「枕」のような、論理性よりも物語に傾いているものがありますが、それをより発展させた形が「yom yom」の連載ではないかとと思います。新しい挑戦をしているわけですが、これまでと違う苦労はありますか?

九螺:『神様の住所』の中に、「デジャヴ」という章があり、それはほとんど小説です。編集者からも、完璧ですとおっしゃっていただいたので、完璧かどうかを読んでいただきたいと思っています。

そして、「yom yom」での苦労といいますか、新しいチャレンジをしたくて、新潮社の担当の方に私から提示したんです。初対面のときに、「きえもの」というタイトルでやりたい、小説のようなものをやりたいと話して、タイトルもそのまま「きえもの」で開始しました。きえものというのは、ドラマとかの現場で食べ物とか飲み物とか、腐ってしまったり、撤収したりするものですね。それがタイトルとして面白いんじゃないかと思ったので。とにかく一人称でやってみたくて、それは男でも女でも年齢も何でもいいんですが、そこに日常で入っていって、普段見ているような風景から入っていって、みんなが安心したところに進んでいくところで、ふっと非日常の何か次元が違うところに入ってしまうみたいなことをやりたくて、それにトライしています。

大竹:短歌のようにどんどん書けますか。

九螺:新潮社の担当者が適切なダメ出しをしてくださって、“前半の2/3は素晴らしいです。でも1/3は落語です、書き直してください。”“はい、分かりました。”というやり取りをしています。最初からOKが出るとは思っていなくて、勉強しながら進ませていただいてるということで、本当に日々トライしている感じです。

大竹:ダメ出しはOK。積極的ですよね。

九螺:OKです。今は、人称のことを訓練したいと考えています。一人称、三人称、神の視点というのは、読み慣れていますけれど、書くとなるととても難しい。その訓練をしたくて、それで物語的なものを書きたいと思っていたのを新潮社が受けてくださって始まっているんです。最初からできるとは思っていなくて、これはダメです、これはいいですという線引きを私が知りたいとトライしています。どこがストライクゾーンなのか、私が知りたいと思い、全部投げています。その中で、これは上に出ました、下に出ました、右に出ました、左に出ましたというのを担当者が適切な言葉で言ってくださるので、面白い読み物というのはどうしたら書けるのかという訓練をしている初心者の気分です。

大竹:受賞の言葉の中にも「修行」という言葉が出てきましたけれど、とても謙虚で、学習心が旺盛です。

九螺:……。そうですかね。でも学習心というのは、分からなかったことが分かる。それって脳のごちそうというか。

大竹:いい言葉ですね。分からなかったことが分かる、脳のごちそう。

九螺:誰かも言っていると思いますけど。クエスチョンマークがビックリマークになる瞬間が脳の快感だと思っていて、なので、クエスチョンマークはたくさんあったほうがいいし、それが分かったってなるときの興奮って私にとっては体的な快感よりも上なんです。それをしたくて。たとえばなんで空は青く見えるの、あ、そうなんだとか。なんで魚にはまぶたがないの、必要がないからとか。なんで体内受精と体外受精があるかというと、たとえば魚は体外受精しても卵が乾燥しないとか。そうなんだというのを1日に1回はしたいんです。

大竹:体の快感よりも脳の快感のほうが上位、という言葉がいま出ましたけど、本当にそうなんですか?

九螺:本当にそうです。

大竹:体から感情が溢れてきて困った「花吐き病」についてあとがきに書いていますが、この花吐き病は体の反応ですよね?

九螺:感情がすごく出て、そこに自分がおぼれている感じをそう書いたんですが、嫌なものじゃなくて、いいものなんですよね、花というのが。それを吐いちゃっているということでそう表現してみました。宇宙酔いというのは、形而上的なものに対する知りたいという気持ちとか、知った時に生活者としての感覚を揺さぶられるような痺れる感じを書いて、「花吐き病」と「宇宙酔い」というのもイメージとして合ってるんじゃないかと思ってやってみました。

大竹:そろそろ終わりの時間が近づいてきたので、最後にこのトークショーに応募なさった方々から届いた質問にお答えいただこうと思います。まずはこちらです。

「短歌という形式は九螺さんにとってどういう点が自由で、どういう点が不自由ですか」

九螺:自由と不自由ってよく言われることだと思うんですけど、何してもいいよって言われると実は不自由みたいな。そういう背中合わせみたいなことがあったりすると思うんですよ。三十一文字だったり、五七五七七というものがあることで、不自由だと思ってるんですが、実は自由ということなんじゃないかなと。むしろ何万字でも書いていいよっていうのって、そっちの方が自由でキツイとも思えます。

大竹:自由と不自由は表裏一体のような関係ですよね。対になっている思考が好きだとも書いていらっしゃいましたが、自由であり不自由であるという両義的な性格ゆえに、短歌はフィットするのかもしれないですね。

九螺:対立概念が好きですね。対義語も好きです。たとえば、好きとやると、この世って好きと嫌いしかないのかとか、すごく分かりやすくなる。なので対義語で分けてみるというのが、分かりやすいような気がして好きです。

大竹:では、もうひとつ質問をご紹介します。

「身近な人、たとえば親とか、作家になる前の友人などが、ご自身の作品を読まれることをどう感じてらっしゃいますか?」

読まれることへのためらいみたいなことをお聞きになりたいのかもしれません。

九螺:受賞の言葉にも書いたかもしれませんが、一人暮らしを始めて、それから6年後に「神様の住所」という連作で短歌研究新人賞の次席をもらったんです。そのときにそれが掲載されている雑誌を持って、両親と6年ぶりに会ったんです。

大竹:家出のあとのことですね。

九螺:家出のような一人暮らしです。家出ではないんです、いつ出るとは知ってたので。ただ夜中にこっそり出て行ったんです。家出のような一人暮らしを始めて6年間音信不通にしてたんですが、カミングアウトするような形で短歌研究新人賞の次席が載ったものを見せたんです。

大竹:ご両親はそういう活動をしていることを知らなかったんですか。

九螺:本気でしているとは知らなかったと思います。そのときにフレンチレストランで、両親二人を前にして、この世で最もすごい敵が前にいるなと思いました。

大竹:なぜ敵だと感じたのですか?

九螺:表現する人って肉親に対して読まれるとか説得するっていうのが、すごく大変なことだと思うんです。私はこういうことをやっています、九螺ささらという名前で本気でやっていますと、雑誌を見せたんです。そうしたら母がまず、雑誌をガン見して、それから「あ、こういうこと、やってんだ」って言ったんです。内容が性愛に対するものだったので、母の反応は想定内だったんです。それですごく悲しくなりました。やっぱりそう思うのかと。

大竹:お母さんがそこに反応することは予想していたということですね。

九螺:それもそうですし、「こういうこと、やってんだ」という反応ですよね。

大竹:「やってんだ」という表現にぎくっとした……。

九螺:いわゆるセックスとかについて書いた作品だったんです。それを読んで、「こういうこと、やってんだ」というふうに反応した母に、やっぱりこういう反応なんだという残念感とかがっかりした感じだったんですね。でもそこで縁を切らないで、この人に分かってもらおうと思いました。というのは肉親じゃなくて一読者として私のものを読んでもらえるようになるには、何か足りてないんだと考えて、そこから9年経っていますが、母がいま、読者としての質問を私にしてくるんですね。ここのこれはどういう意味?と。母という人が読者になっているということで、あれ、そういう質問でしたっけ。

大竹:ちゃんと答えてくださってます。とてもいい話です。

九螺:読者であれば、読者がどう思おうと、それはもう作者がそこは違うんですよというのはお門違いだと私も最近は分かってきました。読者がそれを同じことをやったと思おうが、やっていなかったと思おうが読者の自由であって、むしろ実際にはやっていなかった、実際にはイメージだけだったことを、やったんだと思うのであれば、リアリティにおいて、作家冥利に尽きると思います。

大竹:まさに、そうですね。

九螺:なので、9年前の悲しくなったという感覚はまだ幼稚だったと思います。

大竹:お母さんがセックス描写に反応し、こういうことをやっていると言われて傷ついたけれど、9年間かけてお母さんを読者にしたということですね。書かれたことをどう受け止めてくれても構わないと突き放せるほど、たくましくなったということですね。

九螺:そうですね。

大竹:素晴らしい話で最後をしめくくってくださり、ありがとうございました。九螺ささらさんという書き手が言葉の世界に現れたのは、とても新鮮な出来事ですし、修行と言いながら新しいことにどんどん挑戦していく姿勢にも心を動かされました。

九螺:ありがとうございました。

構成・望月ふみ 写真・大久保惠造

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