今回の楽員インタビューは、2002年に入団、現在、打楽器奏者として活躍する石川達也(いしかわ たつや)さん。先ずは、音楽との出会いからお聞きしましょう。

父が中学校の音楽教師で、学校で吹奏楽を教えたり、家では声楽のレッスンをしていたりしました。姉も妹もピアノを習っていましたが、私だけは全く関係なく茫洋(ぼうよう)とした子どもでした。それでも、小学校高学年になると、父の吹奏楽のレコードやスコアに興味を持つようになりました。

打楽器との出会いは。

やはり、小学校5年生の頃、村祭りの山車に乗ってお囃子で太鼓を叩いたり、また、小学校の鼓笛隊で小太鼓を見よう見まねで叩いたりしたのが始めでしょうか。中学校、高校では吹奏楽部に入りました。高校入学の頃には、音楽の道に進みたいと考え、ピアノや打楽器を先生について習い始めました。

そして、武蔵野音楽大学に進まれます。

当時は、小林美隆(こばやし よしたか)先生という1954年(昭和29年)カラヤンが単身初来日してN響を指揮した際に「ベルリンに連れて帰りたい」と言わしめたという伝説の先生がいらっしゃいました。先生は天才肌でご自分では何でも出来てしまうので、生徒に論理的に教えることはありませんでした。
家から自転車に大きなラジカセを積んで大学に行って「第九」のCDを掛けながらそれにあわせてティンパニを叩く、音楽が流れていると気持ちよくなって先生は眠ってしまう(笑)。そんなレッスンでした。

ベルリンに留学されます。

1994年大学在学中に東京フィルハーモニー交響楽団に入団、1996年に約一年間、ベルリン・フィルの打楽器奏者フランツ・シンドルベック先生に師事します。先生の演奏を見て何て楽しそうなんだろう、自分もあんな風に出来たらなと憧れました。レッスンのほかに、ベルリン・フィルの練習と本番を何時でも見て良いという事になり、カラヤン・アカデミーの練習室に出入りして毎日毎日練習しました。もう、守衛さんとも顔なじみで殆どフィルハーモニーに棲んでいました。

そして、遂に、ベルリン・フィルに出演します。

留学が終わろうという頃、「一度、オーケストラに乗せてほしい」と言ってみたら、本当にかなったのです。クラウディオ・アバド指揮でラヴェル作曲「ダフニスとクロエ」全曲というプログラムで、定期演奏会3回とケルン演奏旅行のあわせて2週間くらい。
トライアングルを担当したのですが、リハーサル中に古参の打楽器奏者が大太鼓の方から「うーむ、違う。」という顔で睨みます。休憩になると彼がやってきて「トライアングルの音とは、その様なものではない。」と言って、まるで金槌で線路を叩くようなカチーンと言う音で。休憩後に、私がカチーンとやり出したら、オーケストラのメンバーが「一体何が起きたんだ?」と一斉に振り返ります。そこで、シンドルベック先生が「タツヤ、お前の先生は俺だ。俺が教える。」と(笑)。

良い想い出ですね。

さらに、ベルリン芸術週間、インゴ・メッツマッハー指揮でヘンツェ作曲交響曲第9番の世界初演とCD録音。ここでは、銅鑼3枚と金床(かなとこ)でした。今でもCDで聴くことが出来ます。

今回の演奏曲目について。

やはり、後半のラヴェルですね。特に、「ラ・ヴァルス」は大好きな曲ですが、これは、ラヴェルが第一次世界大戦中に作曲し、終戦後に初演されました。ウィンナ・ワルツへのオマージュなどとよく言われますが、ワルツは三拍子なのに最後は4連符で終わるのは戦争が終わった、という思いが込められているのでしょうか。それとも未曾有の戦争体験を経たことからの将来への不安でしょうか。そんな歴史的背景を知ると面白いですね。

どのようなイメージですか。

国宝の「洛中洛外図屏風」の様な、日本の昔の絵巻物の様に、金色の雲の間から俯瞰して舞踏会が見える。それが、私の脳の中では“動画”なんです。
そうそう、ラヴェルは、シンバルの楽譜に漠然と「ばちで」としか書いていないのです。
どういう種類のばちだとか、音色などは演奏者に委ねられています。ですから、私たち演奏家のセンスが問われますので、やりがいもあります。どのような音を奏でるか、是非お楽しみにしてください。

ありがとうございました。