山田和樹 マーラー・ツィクルス

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2015.03.13 UP

Column:5 グスタフ・マーラーと武満徹~動的世界と静的世界の対比の中で

 去る2月28日の演奏会をもって、山田和樹指揮によるマーラー・ツィクルスの第一期、最初の3回が幕を閉じた。この一連のコンサートではマーラーと武満徹の曲を一緒に演奏するという点で非常に興味深かった。
 この2人の作曲家を1つの演奏会で取り上げることにはどのような意味があるだろうか。
 マーラーと武満といえば、黒澤明監督の映画『乱』の音楽にまつわる有名なエピソードがある。黒澤監督はこの映画に際して武満に、マーラーのような音楽を 書くよう依頼した。武満はそれならばマーラーの曲をそのまま使えばいいじゃないかと反論したが、結局は不本意ながらもその要求に従った。その結果、まさに マーラー的なスタイルの映画音楽ができあがる。例えば第3の城の落城場面の音楽は《大地の歌》終楽章と酷似しており、また秀虎と三郎の葬送の場面の音楽は 交響曲第1番第3楽章の葬送行進曲のパロディである。
 このように武満は後期ロマン派のスタイルによる音楽も書いていたわけだが、しかし実際にはマーラーと武満の音楽は全く対照的な世界観によっているのだ。
 武満は西洋音楽の技法を独自の仕方で用いながら日本的な音楽を作ることに成功した最初の作曲家といっても過言ではない。他方マーラーはドイツ・ロマン派 の最後の代表的作曲家とい
えよう。では、いわゆる「日本的な」音楽と「ドイツ的な」音楽はどのように違うのか。それは曲の構築の仕方と音楽的時間という2 つの点において対極をなしているといえよう。
 ピアノとオーケストラのための《リヴァラン》が1985年12月にドイツで初演された際、プログラムの中でドイツの音楽学者は「西洋の芸術は小さな構成 要素から出発していて、組み立てのプロセスは建築の場合とよく似ている。東洋の芸術はその逆である。いわば巨大な岩塊の前に立ってそこから不必要な、つま りインスピレーションの線上にない要素を取り除いていく」と論じた。類似した発言を武満自身も残している。今年のツィクルスでは《3つの映画音楽》が演奏 されたが、武満はこの曲の初演の1か月後(1995年4月)に「私は他の多くの作曲家たちと違って、映画にいかに音楽を附けるかではなく、いかにそこから 音を削るかということが映画音楽の原則ではないかと考えている」と述べている。
 西洋音楽の「小さな構成要素」とは曲中の「主題動機」のことだろう。そしてその動機を発展させることにより大きな構造を作り出すというのは18、19世 紀の音楽、特に器楽曲の作り方の基本であった。分かりやすい例を挙げれば、ベートーヴェンの交響曲第5番冒頭の「タタタターン」というわずか4音からなる 動機は多様に変形することで第1楽章全体を構成する要素となる。そればかりかこの動機は第2~4楽章にも形を変えて現れる。マーラーも当然ながらそのよう なつくり方を踏襲している。例えば第1番では、第1楽章に登場するモティーフを多様に変形させることにより第4楽章の冒頭主題が導き出される。また第3番 では、第1楽章冒頭のホルンの勇壮な主題が楽章内で多様に変形していく。そして前回のコラムでも紹介したように、シェーンベルクもマーラーの音楽について 「ほんの2、3の音から空想と芸術性と豊かな変化によって果てしない旋律を作り上げていく」と評したのである。一方で武満の目指した方向性はそれとは全く 逆のものであった。
 
 ツィクルスの第1回では武満の《オリオンとプレデアス》が演奏されたが、この曲が1989年にロンドンで演奏された際、『インディペンデント』紙の批評 記事には「曲が閉じる直前では[…]永遠の時間感覚が完全な精密さと結びつくのである」と書かれた。ここでいう「永遠の時間感覚」とはまさに非西洋的なも のといえよう。西洋音楽の場合、特に19世紀までの音楽では常に先に進むような時間感覚を持っており、マーラーの交響曲もまたダイナミックで変化に富んだ 流れを作り出している。特に彼の初期の交響曲の場合、異質な性格の要素を並置させ(いわば「ポプリ」のようなスタイル)、曲想を突然変化させることにより 彼の先人以上に劇的な変化をつけることに成功したのである。武満の音楽が「静的」な時間の停滞によるものとすれば、マーラーの音楽には「動的」な時間の流 れがある。
 そしてこのような時間感覚の違いは、山田和樹氏の演奏にも見事に表れていたように思われる。ツィクルス第2回では武満の合唱曲とマーラーの交響曲第2番 を演奏した。中でも《死んだ男の残したものは》の歌詞の背景には戦争の悲惨さと平和への願いといった意味がある。その歌詞の内容からしてこの曲は劇的な表 現で演奏することが可能だ。しかし山田の演奏ではあえてスタティックな表現をしていた。他方、マーラーの交響曲第2番は非常にダイナミックな表現で、極め てメリハリのある演奏だった。そうすることで日本の音楽の「静的」な世界とドイツの音楽の「動的」な世界を見事に対比的に聴かせようとしたのではないだろ うか。
 
 このような対比的な世界の音楽を1つの演奏会の中でまとめ上げたことの意義は大きいだろう。武満とドイツ・ロマン派の音楽を一緒に演奏したコンサートは これまでにもあるが、しかし武満とマーラーをツィクルスとして行ったのは初めての画期的な試みである。残る2年のツィクルスへの期待が高まるのは筆者のみ ではなかろう。


文 佐野旭司