山田和樹 マーラー・ツィクルス

TOPICSトピックス

2014.12.04 UP

TOPICS いくつかの写真から

1905年に撮影された、いくつかの写真がある。そこには画家のクリムトがウィーン分離派の仲間たちと肩を並べて映る。マーラーの妻・アルマや、アルマの義父でウィーン分離派の画家であったカール・モルの姿もある。それらの輪の中にマーラーを見つけた。

今日の我々にとってマーラーはもっぱら作曲家として存在しているが、 彼はウィーン国立歌劇場(当時のウィーン宮廷歌劇場)の音楽監督の座にある指揮者でもあった。作曲家としての評価は様々であったが、指揮者としてはまぎれもなく時代の頂点に君臨していたと言えよう。オーケストラ、オペラ両方の指揮を執って欧州各地で活躍し、最晩年には新大陸アメリカでもメトロポリタン歌劇場に登場し、ニューヨーク・フィルの首席指揮者にも就いた。

――1905年頃の世界を見渡してみると、アインシュタインがスイスで相対性理論を発表し、フランスではクリスチャン・ディオールとサルトルが生まれ、ニューヨーク市には地下鉄、ロシアにはシベリア鉄道が開通している。日本は明治38年、日露戦争が終わり、夏目漱石は『吾輩は猫である』の連載をはじめた。  

 

マーラーが指揮台に立った劇場のいくつかは今も現役で機能している。我々は、当時マーラーが耳にしたであろうものとほぼ(あくまでも、ほぼ)同様の環境で、今もその音楽を聴くことができるのだ。ウィーン国立歌劇場(再建)や楽友協会、ライプツィヒ歌劇場(再建)、コンセルトヘボウ、プラハ国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、コヴェント・ガーデンなどなど。

マーラーは20世紀初頭まで生きた作曲家で、音楽の歴史の中で示せば、ベートーヴェン(1770~1827)、ワーグナー(1813~1883)、ブラームス(1833~1897)のあと、1860年に生まれている。すでにいくつもの大曲が世に存在していたが、それらを凌駕する大編成で書かれたマーラーの交響曲は、客席数2000席を超えるような現代のコンサート会場においても空間を満たしきる充実した響きをもっている。東京に多くのクラシック専用の音楽ホールが開業したのは20世紀の終わりだが、もちろんその規模感にもみごとにフィットしているのだ。

 

ここにもう1枚の写真がある。日付は1988年9月29日、建設中のオーチャードホールの工事現場を訪れた指揮者、ジュゼッペ・シノーポリがこちらを向いて微笑んでいる。

シノーポリはウィーン国立音楽大学(ウィーン音楽院)でカール・エスター・ライヒャーに指揮法を学んだ。ライヒャーからマーラーまで人間関係をさかのぼるのは簡単だ。ライヒャーがウィーン国立歌劇場管弦楽団のクラリネット奏者だった当時、その音楽監督はカール・ベーム。ベームに多大なる影響を与えた指揮者がブルーノ・ワルター。そしてワルターはマーラーの直弟子であった。

遠い昔のことのようでもあれば、手が届きそうな身近なことのようにも感じられる。少なくとも今、私たちが簡単にマーラーの音楽を享受しに出掛けられることは確かだ。