山田和樹 マーラー・ツィクルス

MAHLER SYNPHONIES曲目紹介

マーラー:交響曲第8番 変ホ長調

文・前島秀国

注:本稿では解説の都合上、スコアに表記された1.Teil (第1部)を「第1楽章」、2.Teil(第2部)を「第2楽章」と表記します。

 マーラーの交響曲第8番の解説というと、全曲のスケッチが完成した直後の1906年8月18日、彼が指揮者メンゲルベルクに送った書簡の有名な一節「宇宙が鳴り響く様子を想像して欲しい。我々が耳にするのは、もはや人間の声ではなく、惑星や太陽の周回だ」を引用するのが、半ば慣例と化している。なるほど、未曾有の大編成(初演時の演奏者数は1030人)が生み出す圧倒的な大音量と視覚的なスペクタクルを考慮すれば、マーラーが第8番をそう表現したくなった気持ちもわからなくはない。だが、そうした側面ばかり強調しすぎると――初演時の興行師グートマンが命名した標題「千人の交響曲」がいみじくも象徴しているように――後期ロマン派特有の誇大妄想と大艦巨砲主義が生み出したイベント音楽と誤解されかねない恐れがある。
 メンゲルベルク宛の書簡の日付の約1ヶ月前、すなわち1906年7月にザルツブルク音楽祭を訪れたマーラーは、音楽学者リヒャルト・シュペヒトとの会話の中で交響曲第8番の作曲について言及している(シュペヒトはその会話を1914年6月14日付ウィーン・ターゲスポスト紙上で初めて公表した)。少し長くなるが、その会話をご紹介しよう。もしもマーラーがこの通りに語ったとするならば、これ以上に簡潔で的確な作曲家本人のプログラムノートは、他に存在しないからである。

「この3週間で新しい交響曲のスケッチを完成させたが、これに比べれば、今までの私の作品などすべて序章に過ぎない。こんな作品は今までに書いたことがない。内容も形式も大きく異なっているし、間違いなく最大規模の作品だ。それに、これほど衝動の赴くままに作曲したこともない。まるで天啓に打たれたかのように、作品の全体像が目の前に突然現れたので、私は何かの声を書き写すように作曲するだけだった。交響曲第8番は、異なる言語で書かれた2つの詩篇を結合した点でもユニークだ。前半はラテン語の讃歌、後半は他ならぬ『ファウスト』第2部の最終場面。驚いたかね? もう何年も前から、隠者の場面と栄光の聖母の場面に音楽を付けたい、今までこの場面に甘ったるい音楽を付けてきた作曲家たちとは全く異なるやり方で作曲したいと望んできたが、その後いったん断念した。ところが最近、古い本を手にしたところ、たまたま『来たれ、創造主たる精霊よ』という讃歌が目に入ってきた。私は衝撃を受け、冒頭の主題だけでなく、第1楽章の全体像が目の前に現れた。さらに、第1楽章に対する返答として、隠者の場面のゲーテのテキスト以上に美しいものは思いつかなかった!  形式的にも、これまでになく斬新だ。最初から最後まで声楽が歌う交響曲なんて、想像がつくかい? これまで私は、歌詞と声楽を単なる説明手段として用いてきた。つまり、ある種の雰囲気を生み出したり、純粋な器楽の交響曲だけで表現しようとすると長大になり過ぎてしまう内容を表現したりするための、一種の近道として用いてきた。ところが今回は、声楽が器楽として扱われる。第1楽章は厳密な交響曲の形式をとっているが、その内容はすべて声楽で歌われるんだ。今まで、どの作曲家も試みてこなかったのが不思議だが――この世で最も美しい楽器をあるべき正しい場所に置き、”純粋”な交響曲を歌わせるなんて、まさに”コロンブスの卵”だ――、私の交響曲においては、声楽が単に器楽と共に鳴り響くだけでなく、つまるところ、詩の内容を伝える役割を果たしているんだ」(ドナルド・ミッチェルの英訳からの自由な重訳)。

 要するに第8番では、歌が器楽としての役割と、歌詞の意味内容を伝える本来の役割の2つを担っているのだと、マーラーは言っているのである。作曲意図がそうである以上、素直にそれに従って聴くのが、第8番を楽しみ理解する最良にして最短の方法である。ラテン語と(ゲーテの)ドイツ語がとっつきにくいと泣き言を言っても始まらない。マーラーだって、讃歌のラテン語の意味とイントネーションがよくわからず、友人に翻訳の手助けを頼む書簡(1906年6月21日付)を送っているくらいなのだから、覚悟して聴くべきだろう。それに彼は、聴き手が歌詞のポイントを聴き取りやすいよう、さまざまな工夫を凝らしてくれている。

 まず、マーラーの言う厳密な交響曲の形式、すなわちソナタ形式で書かれた第1楽章。その提示部の音楽と歌詞を注意深く聴いてみると、第8番全体の“主題”がそこに“提示”されていることがわかる。冒頭、2群の混声合唱が力強く斉唱する変ホ長調の第1主題「来たれ、創造主たる精霊よ Veni, Creator Spirtus」。要するに「神様、降りてきて下さい」という呼びかけである。次にソプラノが歌い始める変ニ長調の第2主題「(私たちの魂を)天の恵みで満たして下さい Imple superna gratia」。その旋律の中で、特に「恵み gratia(グラツィア)」という単語がはっきりと聴き取れるはずだ。次の変イ長調のセクションでは、同じ第2主題の旋律が「(神が下さった)生命の泉、火、愛 Fons vivus, ignis, caritas」という歌詞で歌われる。先ほどの「グラツィア」と同じく「愛 caritas(カリタス)」が繰り返し耳につくが、この「カリタス」というのはキリスト教で言うところの慈愛、英語の「charity(チャリティ)」の語源である。ここまで聴いた段階で、第2楽章が扱うことになる「ファウスト」第2部のファウスト昇天の結末――慈愛による魂の救済――が早くも予告されていることに気づくだろう。つまり第1楽章提示部は、音楽の面からも詩の内容という面からも、第8番全体の“提示部”の役割を果たしているのである。展開部に入ると、ニ短調の仄暗い主題「我ら人間の肉体の弱さを(力づけてください) Infirma nostri corporis」と、先ほどの「来たれ、創造主たる精霊よ」の第1主題から発展した新しいホ長調の主題「私たちの(不充分な)感覚を光で照らして下さい Accende lumen sensibus」(要するに「神様、光で導いて下さい」という意味)が出てくる。このうち、後者の「Accende lumen sensibus」の主題では、「照らして下さいAccende(アッチェンデ)」という単語の3音節が、順次上行する3音の動機に乗って歌われる。この「Accende」の動機は、第2楽章で大きな役割を果たすことになるので、ぜひとも覚えておこう。あとは技巧を凝らした二重フーガなんかが出てくるが、どのみち歌詞は聴き取れないので、ポリフォニックな書法を純粋に楽しめばいい。

 第2楽章は、先に引用したシュペヒトや(スケッチ初期のメモに基づき)音楽学者パウル・ベッカーが論じた3楽章内包説――アダージョ、スケルツォ、フィナーレの3つの楽章が含まれている――に沿って解説されることが多い。しかしながら、上に紹介した第1楽章の主題(動機)が第2楽章にも登場し、かつ、歌詞の意味内容と深い関係を結んでいる以上、それらの主題(動機)をライトモティーフとみなして聴いていくほうが、全体がはるかに理解しやすい。言うなれば、ワーグナーの楽劇のような聴き方だ。
 第2楽章冒頭、「山峡」の場面の長大な器楽部分(前奏曲と解説されることもある)の最初に出てくるチェロとコントラバスの動機、それからフルートとクラリネットの動機。これらはいずれも第1楽章の「Accende」の動機から発展したものである(「Accende」の動機と同じく、順次上行する3音が特徴的に現れるので、すぐわかる)。さらに第24小節のpppの部分からは、「Accende」の動機に基づく新しい主題――第2楽章の終わりで「神秘の合唱」として歌われることになる旋律――がワーグナー風のクラリネットとチェロによって導入される(この旋律にも順次上行の3音が出てくる)。約15分にも及ぶ「山峡」の音楽(後半では合唱が加わる)は、実のところ、「Accende」の動機と「神秘の合唱」の旋律だけで出来ていると言っても過言ではない。
 その旋律を変ホ長調で歌う法悦の教父(バリトン)のアリアのあと、瞑想する教父(バス)のアリアの中では「Accende」の動機がはっきりと3回登場する。特に注目すべきは、3回めに登場するときの教父の歌詞「私の貧しい心を照らしてください Erleuchte mein bedürftig Herz!」の内容が、「Accende」の動機の元のラテン語歌詞「私たちの(不充分な)感覚を光で照らして下さい 」の内容とほとんど同じという点だ。明らかにマーラーは、ラテン語の讃歌とゲーテのテキストの類似性を見抜いて「Accende」の動機をここに当てはめている。彼の文学的洞察力の凄さを示した箇所と言えるだろう。
 音楽が輝かしいロ長調に転じ、天使の合唱が「Accende」の動機を歌い始めるセクション(3楽章内包説に従えば、ここからがスケルツォとされる)以下、「Accende」の動機は何度も登場するが、あまりにも数が多いため、ここではいちいち触れない。以下、第2楽章における第1楽章主要主題(動機)の重要な登場箇所を指摘するにとどめておく。
 まず、より成熟した天使たち(合唱)が「地の屑を私たちが運ぶのは(辛い)Uns bieibt ein Erdenrest」と歌い始めるニ短調の音楽は、第1楽章のニ短調の主題「我ら人間の肉体の弱さを(力づけてください)」と同じ。この箇所は、第1楽章提示部のセクションを再現したような趣になっている。
 それから、懺悔する女(かつてのグレートヒェン。第2ソプラノ)のアリアの中に出てくる「彼(=死んだファウスト)はまだ新しい生命(を得たこと)に気づいていませんが、その姿は、もう天上の聖なる方々に似てきました Er ahnet kaum das frische Leben, So gleichet er schon der heil’gen Schar」という歌詞。音楽は、第1楽章第2主題「(私たちの魂を)天の恵みで満たして下さい」の旋律がそのまま使われているが、詩の内容という点からも“再現”の役割を果たしている点に注目したい。同じアリアの後半では、第1楽章第1主題「来たれ、創造主たる精霊よ」も再現する。要するに、第1楽章が「魂の救済」の一般論だとすれば、第2楽章はファウストに即した個別論、というわけだ。
 マリアを敬う博士(=魂になったファウスト。テノール)が「(救い主の眼差しを)仰ぎ見よ! Blicket auf!」と呼びかけるアリアから「神秘の合唱」の主題を中心としたフィナーレ部分に入り、最後の神秘の合唱で大団円を迎える。とりわけ、コーラスの最後の歌詞「私たちを(天の)高みに引き上げていく Zieht uns hinan」が、「Accende」の動機の順次上行――文字通り、高みに向かって音が動いていく!――に乗って何度も繰り返され、第1楽章第1主題と合体して全曲最大のクライマックスを築き上げるコーダ部分は感動的だ。大編成が大音量で演奏しているから感動的なのではない。これまで長々と述べてきたように、マーラーがラテン語の讃歌とゲーテのテキストを音楽で注意深く関連付け、「声楽が単に器楽と共に鳴り響くだけでなく、つまるところ、詩の内容を伝える役割を果たしている」から感動的なのである。