山田和樹 マーラー・ツィクルス

MAHLER SYNPHONIES曲目紹介

マーラー : 交響曲 第6番 イ短調「悲劇的」

文・寺西基之

 「悲劇的」という通称どおり、この交響曲はまさに悲劇性に支配された作品だ。第1楽章冒頭からして、容赦ない運命の足音のような低弦の重々しい伴奏音型が曲の悲劇的性格を決定付ける。たしかにこれ以前のマーラーの交響曲も、運命との闘争や不安な内的感情など悲劇的な要素をはらんでいた。ただ第5番までは、そうした苦闘が勝利や愛で克服されるといった、ベートーヴェンの交響曲以来の伝統である闘争勝利型の構図を(非常に屈折した形ではあるが)受け継いでいた。しかしこの第6番では勝利はやって来ない。第1楽章での闘争は、終楽章(第4楽章)に至ってさらに激烈さを加え、最後は力尽きてしまう。"闘争から破局へ"という破滅型の作品なのだ。

 もちろん後年書かれる交響曲「大地の歌」や交響曲第9番なども死や彼岸の世界に向かう作品だが、それら後期の作品では現世を超える次元に入っているので、破滅型とは違う。それに対し第6番では人間としての苦悩や激しい苦闘が尋常ならざる緊迫感のうちに描かれ、カタストロフィに至るのである。

 こうした内容の作品がマーラーの人生の絶頂期に書かれたことは興味深い。作曲は1903年から1904年にかけてだが、1902年に愛するアルマと結婚したマーラーは、同年秋に長女を、1904年に次女を授かるなど幸福な時期を送っており、指揮者としても名声を世に轟かせていた。若い時期からユダヤ人であるがために様々な困難に直面し、ペシミスティックな世界観を持つようになっていた彼にとって、そうした苦難を乗り越え、私生活でも仕事の面でも成功を収めたことで、逆にこの絶頂がいつまで続くのかという不安が強くなっていたのかもしれない。

 この作品における悲劇性を象徴するのが第1楽章の第1主題部の後に現れる運命動機である。これは鋭いティンパニのリズムとともに長三和音→短三和音(明→暗)の響きで示されるもので、作品の随所に出現する。特に曲の最後、ついに力尽き不気味な静けさが支配したところで、息の根をとめるがごとくこの動機が強烈に鳴り響くその恐ろしさは圧倒的だ。

 終楽章で「運命の打撃」の象徴として木のハンマーが用いられるのも注目。視覚面でも破滅を印象付ける効果を持つ大胆な試みで、展開部で2カ所振り下ろされる。元々はさらにコーダにもう1回とどめの一発があり、マーラーは結局それを削除したのだが、指揮者によっては当初の発想を重んじてそれを打たせる人もいる。今回の山田和樹はどうするだろう。

 一方、悲劇的な色調とコントラストをなすのが、アルマの肖像といわれる情熱的な第1楽章第2主題、夢の世界に入り込んだような第1楽章展開部途中の牧歌的部分、そしてひと時の平安である美しい緩徐楽章だ。現実の闘いの中での慰めであり、現実からの逃避でもあるこれらの部分の耽美的な叙情(カウベル[牛鈴]の用法も印象的)が一層作品の悲劇性を際立たせる。

 なお楽章構成について、マーラー自身2つの中間楽章(スケルツォと緩徐楽章)の順を何度か入れ替えたため、この中間の2つの楽章の配列は指揮者によって違う。この点も山田和樹がどう判断するか注目したい。

 山田和樹はこのツィクルスの企画発表の記者会見で、自分は本来明るいほうなので第6番は最も距離を感じると述べていた。しかし距離があるからこそ、逆に本質的なものが一層見えてくるものだ。彼がどのようなアプローチでこの作品の悲劇性を引出すか、おおいに期待したい。