「カリギュラ」初日レポート

カミュの文語をはらわたに宿す、生々しい小栗旬の苦悩

 

 熱気、期待、興奮、好奇、羨望――。そんな観客の無数の眼に晒されるなか、小栗旬のカリギュラは、まるで霞が揺曳するように、あまりにも静かに登場する。絶望と吐気、怒りと憔悴。ボロ着れをまとい頭を垂れて、自身の全方位を取り囲む鏡像を避けるように…、“あるべき姿にない現実”に対しフラストレーションを覚え苦悩するカリギュラは現れる。その主人公の様子とは裏腹に、演出家・蜷川幸雄は舞台全体をあっけらかんと発光する極彩色のネオン管で照らしだす。どんなにスターが疲れ果てていようと、世間はおかまいなしに俗情的な好奇の視線で煽る。今現在の小栗自身を取り巻く現状と、皇帝カリギュラの状況が、この時点で無理なく二重写しに見えてくる。

 この登場シーンの演出に端的に示されるように、カリギュラという役は、まさに今の小栗にしか演じられない役柄。薄汚れた世間を射抜こうと呻く潔癖なロジック、「月が欲しい」というセリフを背負える美しい詩性、凶暴なまでに若々しく躍動的な身体性、愛嬌と色気と恥じらいがないまぜになる軽妙なユーモア、不可知という言葉にさえ食ってかかれそうな迷いのない知性。これらすべての演技体を小栗は自在に使い分け、哀しみや狂気や絶望に自己陶酔しない成熟した熱演を見せつける。何より、あまりに形而上的に思えるカミュの言葉を、ひとたび小栗が口にすると、それが生々しい現代の若者の苦悩として聴こえてくるのが素晴らしい。

   
 蒸留水のように清らかな芸術的魂を体現する勝地涼のシピオン、世のすべてを明晰な論理で秩序立てる長谷川博己のケレア、厭世的な批評眼で世を笑う横田栄司のエリコン、理屈を越えた愛ですべてを覆う若村麻由美のセゾニア。彼らそれぞれがカリギュラの一部を投影した鏡像でもあり、また、どこまでも理解しあえない絶対的他者でもある。その哀しき事実を、彼ら優れた役者陣は単なる直感や勢いに頼らず、論理的裏付けのある言動でクリアに具現化していく。

 他者の意識のなかで戦ってきたカリギュラが、鏡に映る自己と対話するラストの独白。カリギュラが掴めなかった“月”を、小栗はこの最終場で掴んでしまった気がする。無論それが可能だと踏んで主役に据えた蜷川の慧眼も凄まじいが、小栗もその演出家の期待に十二分に応え、成し遂げるのが“不可能”とも思える難役を見事に演じきってみせた。満座の観衆はこの夜、ほむらのような役者・小栗旬の才能に圧倒された。

   
 text:岩城京子(演劇ライター)
photo:谷古宇正彦

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