オットー・ネーベル展 シャガール、カンディンスキー、クレーの時代オットー・ネーベル展 シャガール、カンディンスキー、クレーの時代

COLUMN
学芸員によるコラム

その2:クレーとネーベル、ベルンで育まれた画家たちの友情

パウル・クレーを友に持つというのは、すばらしいことだ。無関心そうに見えて、近くに寄り添ってくれ、しかも距離を忘れることはない! 「ネーベルの日記」より(高橋文子訳)

 オットー・ネーベルが後半生を過ごした、湾曲するアーレ川のほとりに広がるスイスの首都、ベルン。中世の面影が残る旧市街が世界遺産に認定されているこの都市で、ネーベルは晩年のパウル・クレーとの親交を深めた。
 第二次世界大戦前夜の1933年、ドイツではヒトラーが首相に選出されてナチスが政権を掌握すると、表現主義やバウハウス、抽象美術などの新しい美術の潮流に「退廃芸術」の烙印が押され、組織的な弾圧が開始される。対象とされた芸術家たちは公職を追われただけでなくドイツ国内の制作活動を制限された。多くの芸術家たちと同様、オットー・ネーベルと妻のヒルダもベルンへの移住を決意する。寂しげな青の色調が特徴的な避難中の家族を描いた《避難民》と名づけられたネーベルの作品には、クレーの作品にもおなじみの矢印が人々の行く末を示す道標のように描かれ、祖国を離れざるを得なかった人々の不安な気持ちが窺える。一方、ネーベル夫妻がベルンに移住した数ヶ月後にベルンへの移住を決めたクレーが、自身を巡る状況が深刻化していくなかで描いた《恥辱》では、矢印が自身を攻撃する矢のように、人物に向かって放たれているのを見ることができる。
 ドイツが徹底したナショナリズムを突き進めていた時代、複数の言語文化の集合体であるスイスには多様性を認めるデモクラシーの風潮があり、豊かな芸術潮流が交わる場となっていた。とはいえ、長い間滞在許可証を得られず、労働が禁止されたベルンでの生活は決して楽なものではなく、しかし画家たちは自らの運命を淡々と受け入れ、それゆえ運命共同体のような絆で強く結ばれていた。1933年にベルンに移住後、1940年にクレーが亡くなるまで、ネーベルとクレーはお互いの家を行き来してかなり親密な交際を続けた。
 クレーとネーベルの作品を同時に鑑賞できる本展では、ネーベルの「日記」に綴られた二人の交流の様子についてもあわせて紹介していく。ネーベル自身が「魂の領域における類似性」と述べた両者の心地よい親和性の中にある互いの「個性」の共演をぜひお楽しみいただきたい。

ザ ・ ミュージアム 主任学芸員 廣川暁生

オットー・ネーベル《避難民》1935年、グアッシュ、インク・紙、オットー・ネーベル財団

パウル・クレー《恥辱》筆・紙、厚紙に貼付、1933年、パウル・クレー・センター(ベルン)©Zentrum Paul Klee c/o DNPartcom