ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力

学芸員のコラム

その1伝統を探究し、伝統で遊ぶ絵師、河鍋暁斎

 幕末から明治という時代の転換期を生きた河鍋暁斎(1831-1889)は、浮世絵師の歌川国芳に師事したのち狩野派に学んだという異色の絵師である。自らのスタイルを一つに限定することなく、ときに正統な狩野派絵師として、またあるときは大胆な発想の浮世絵師として、諸流派の技法や西洋画の知識も取り入れながら、聖なるものから俗なるものまで、古きものから新しきものまであらゆる事物を描き上げた。現存する作品は主題も技法も多岐に及び、一人の絵師の手によるものとは思えないほどである。本展は世界屈指の暁斎コレクションとして知られるイスラエル・ゴールドマン氏のコレクションを通じて、眩暈がするほど多彩な暁斎の世界を紹介する。

狩野派と浮世絵のあいだで

 暁斎の父はもともと下総国古河の商家の次男であったが、古河藩の藩士・河鍋氏の養子となり、暁斎が生まれて間もない天保3(1832)年には家族とともに江戸に移り、定火消同心甲斐氏の跡を継いだ。つまり暁斎の父は商人から御家人へと転身した人物で、暁斎は御家人の子として育ったのである。
 天保8(1837)年、父は幼い頃から絵を描くのを好んだ暁斎を、まずは当時浮世絵の第一線で活躍していた国芳のもとで学ばせた。そして2年ほどで国芳のもとを離れさせ、天保11(1840)年からは駿河台狩野派の前村洞和愛徳に学ばせた。暁斎は早くから頭角を現し、師はその画才を賞して暁斎を「画鬼」と呼んだという。翌年には洞和が病となったため駿河台狩野家当主の狩野洞白陳信に学び、嘉永2(1849)年には早くも免状を与えられて洞郁陳之の号を得た。後年の作品だが、二匹の猿を中心に、渓流と滝、連なる岩などを墨の様々な表情を駆使して描き上げた《枇杷猿、瀧白猿》や、力強い太筆と繊細な細筆のコントラストが見事な《半身達磨》などからは、狩野派の伝統が暁斎のなかに着実に息づいているのが見て取れる。
 ただし暁斎は狩野派の絵師としてのみ邁進したわけではなかった。万延元(1860)年ころより多数の浮世絵版画を出版し、版本に挿絵を描いた。時代は幕末明治、浮世絵版画を描き始めたきっかけには経済的な理由もあったのかもしれないが、いずれにせよ国芳のもとで育んだ素養が大いに開花することとなった。たとえば、名工の栗原信秀が鍛えた鏡が悪魔外道を恐立させる《名鏡倭魂 新板》には、国芳を彷彿とさせるダイナミックな光線の表現や、吹き飛ばされる悪魔外道の躍動感あふれる描写が認められる。また国芳と同様に暁斎は動物の擬人化を得意とし、蛙や猫、鼠など、さまざまな動物に自由に画面を動き回らせた。蛙たちが蓮の茎でできた鉄砲や蒲の穂の槍で戦う《不可和合戦之図》は、国芳から受け継いだ描写力と想像力を物語る作品のひとつである。

  • 《枇杷猿,瀧白猿》明治21(1888)年 絹本着彩

  • 《半身達磨》明治18(1885)年 紙本淡彩

  • 《不可和合戦之図》 明治10(1877)年 大判錦絵三枚続

  • 《名鏡倭魂 新板》 明治7(1874)年 大判錦絵三枚続

伝統を転回させた世界

 暁斎の豊かな発想は浮世絵版画に留まらず、数多の肉筆の戯画を生んだ。暁斎が頻繁に描いた主題のひとつに鍾馗がある。鬼を退治する鍾馗は伝統的に魔除けなどの目的で用いられた図像だが、暁斎はこのよく知られた鍾馗と鬼の関係に着目して戯画へと転回させた。《崖から鬼を吊るす鍾馗》では、鍾馗は鬼を退治するだけでは満足せず、鬼を崖の上から吊るして薬草か何かを取らせようとしている。ここでは鍾馗はもはや正義ではなく、自らの立場を利用して鬼を酷使する者として現れ、本来憎むべき存在である鬼は転じて気の毒な立場に置かれている。暁斎の手にかかれば七福神もまた卑近な存在となり、《弁財天の絵を見る六福神》では、大黒天が七福神の紅一点である弁財天の掛軸を指さし、くつろいだ様子の恵比寿と何やら話をしている。鍾馗や七福神といった神々も、暁斎の作品では欲深く人間味のある存在となってしまう。
 多くの場合、暁斎が描いた戯画は即興的な素早い筆致で描かれ、入念な彩色が施されることはほとんどない。暁斎は来場者の求めに応じて即興で絵を描く書画会にたびたび参加し、一日に200枚もの絵を描き上げたという逸話さえ残る。暁斎の戯画には書画会などで描かれたと考えられるものも少なくないが、即興的であるがゆえに、それらの作品からは暁斎の溢れだす発想や巧みな筆運びを直接に感じ取ることができる。

  • 《崖から鬼を吊るす鍾馗》
    明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩

  • 《弁財天の絵を見る六福神》
    明治4-22(1871-89)年 紙本着彩

国内そして海外での評判

 狩野派の絵師でありながら戯画も描き、浮世絵師としても活躍した暁斎を当時の世間はどう見ていたのであろうか。本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった。しかし浮世絵を描き始めたのちの安政6(1859)年にも、暁斎は芝増上寺の黒本尊院殿の修復に駿河台狩野派の一員として参加している。また明治3(1870)年には書画会で酔中に描いた絵が、居合わせた官吏の目に留まり投獄される羽目にもなっているが、明治9(1876)年にはフィラデルフィア万国博覧会に博物館事務局から出品を依頼されている。世間は暁斎の振る舞いに戸惑いつつも、その画力を認めざるを得なかったのである。そして明治14 (1881)年の第二回内国勧業博覧会では、出品作のうち枯木に佇む鴉を一気呵成に描き上げた《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう。《枯木寒鴉図》は、菓子屋榮太樓が100円という異例の高額で購入したことも手伝って大きな評判を呼び、以来暁斎は無数の鴉図を描いて「鴉かきの暁斎」と呼ばれるほどになった。《枯木に夜鴉》は金砂子を蒔いた藍紙を用いて薄闇に佇む鴉を表現した珍しい作品だが、これも《枯木寒鴉図》の評判から描かれた鴉図のひとつと考えられる。
 驚くべきことに暁斎の評判は日本国内に留まらず、世界へと広まっていった。暁斎の鴉図にはしばしば向かい合う2羽の鴉の図と「万国飛」という文字を配した印が押されているが、これは鴉図によって画名が世界に知れ渡ったことを記念したものと伝えられる。いまだ開国間もない時期でありながら、暁斎は数多くの外国人と交流し、書画会や在日外国人宅などで外国人を前に揮毫することもあれば、外国人が暁斎の自宅を訪れることもあった。英国人建築家のジョサイア・コンダーに至っては明治14(1881)年頃より暁斎に師事し、数々の優れた作品を残している。明治以来の暁斎への海外からの熱い眼差しは、世界中の美術館に暁斎のコレクションを形成させ、今日ではイスラエル・ゴールドマン氏のような偉大な個人収集家を生んでいるのである。

《枯木に夜鴉》
明治4–22(1871–89)年 藍紙墨画、金砂子

絵画的探究と遊び

 晩年に出版された『暁斎画談』には、暁斎が絵画研究のために探し求めた先人たちの絵画の写しが多数掲載されている。そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており、さながら美術史全集のようである。暁斎は伝統を研究して我がものとすることを求め、時代や文化の担い手を問わずあらゆる図様に精通した。ただし『暁斎画談』に示される絵師としての熱意は、戯画に表われるユーモアとも必ずしも矛盾しない。暁斎は類まれなる優れた仏画や動物画を描く一方で、自らが得た画力と知識を使って最大限に遊んだ。そしてまた、今日の我々にもその世界で遊ぶことを許してくれるのである。

Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士

コラム一覧

その1
伝統を探究し、伝統で遊ぶ絵師、河鍋暁斎
その2
生き生きとした骸骨と伝説の遊女
その3
河鍋暁斎の席画と本画 パフォーマンスと伝統的技法のあいだで

注1:《百鬼夜行図屏風》(部分)明治4–22(1871–89)年 紙本着彩、金砂子
注2:《地獄太夫と一休》(部分)明治4–22(1871–89)年 絹本着彩、金泥