書道との出会い
ピエール・アレシンスキー
《夜》
1952年
油彩、キャンバス
大原美術館
©Pierre Alechinsky, 2016
グループ自体は短命に終わり、コブラは51年に解散するが、アレシンスキーは彼らが目指したものを引き継ぎ実践していった。またこの年の冬、彼は出会いや刺激を求めてパリに移り住んだ。一方、左利きを矯正された彼は、左手は絵を描く手、右手は文字を書く手としていた。絵と文字の相違点と共通点を意識する中で、50年代初頭の作品には表象とも文字ともつかないものが全面を覆い尽くしている(例えば《夜》)。こうして文字に対する意識と自発的で自然な筆さばきに対する興味は、彼を次第に書の世界に近づけていった。
決定的だったのはパリで52年から通い始めた版画学校ディセットで偶然日本の前衛書道誌『墨美
』を見つけたことであった。彼は一気に書道の世界に近づくことになり、雑誌を主宰していた書家の森田子龍と文通を始めた。日本に行くことは彼の夢となった。
それが実現したのは55年、妻ミッキーと共にマルセイユからの定期船で横浜に到着した。日本では森田のほかにアレシンスキーが「画家書道家」と呼んだ江口草玄や篠田桃紅とも出会っている。彼らは東京と京都でアレシンスキーが撮影した「日本の書」という15分ほどのドキュメンタリー・フィルムにも登場する(本展会場で上映予定)。カメラを回したのは東京のプレスクラブで会ったフランシス・ハールである。このフィルムはヨーロッパに日本の最も新しい書を紹介した画期的なもので、ヨーロッパの現代作家の関心事であった余念を感じさせない自然な筆さばきの魅力を余すところなく伝えている。アレシンスキーは書の中に自らが追究していた自然発生的な文字の創出を見ていた。彼は書くことと描くことの見事な融合をそこに感じたはずである。日本滞在のあと、アレシンスキーは次第に大きなサイズのキャンバスや紙を書道のように床に置いて描くようになっていった。