ピエール・アレシンスキー展

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Column学芸員によるコラム

おとろえぬ情熱、走る筆。
ピエール・アレシンスキー展

ピエール・アレシンスキー
《写真に対抗して》
1969年
アクリル絵具、キャンバスで裏打ちした紙
ベルギーINGコレクション
©Pierre Alechinsky, 2016

筆で描くことによる表現の究極にたどり着いた画家ピエール・アレシンスキー(1927~)は、90歳近い今も精力的に制作を続けている。人はそのダイナミックな筆致に圧倒される。熱い思いが火山の噴火のように噴き出した作品に接する者は、その筆の勢いに身を任さざるを得なくなる。作品は何かを語っているかのように見えるが、理路整然とした解釈はそぐわない。アレシンスキーの作品では、そこに描かれた未分化ともいえる表象こそが作品に奥行きを与え、魅力となっているのである。しかも国際的名声を得たこの画家のルーツに日本の書道があったとは、そして彼が洒脱な禅画で知られる仙厓を師と仰いでいたということは、日本人としてなにか嬉しくないだろうか。

コブラの経験

ベルギーのブリュッセルに生まれ、高校卒業後、市内の美術工芸学校で本の装丁の課程に入学。ここでは芸術家としての道を拓くことになる版画も学んだ。47年、20歳のとき「若きベルギー絵画」というグループに加わる。同じ年にブリュッセルの画廊で早くも個展を開き、批評家の目に留まっていた。48年、コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭の文字をとって命名されたコブラ(CoBrA)という国際的な芸術家集団の結成メンバーとなったのもそんな背景があった。このグループはまさに威嚇する毒蛇のようなプリミティブで力強い、迫力ある作品を世に問い、戦後ヨーロッパの美術の潮流を形作ることになった。メンバーの中でもかなり若かったアレシンスキーは、機関誌の発行や展覧会の会場準備の使い走りばかりさせられていたのだが、コブラのメンバーが模索した即興的な筆さばきに大いに共感し、また実験制作・共同制作、国際的な活動、因襲の打破、専門外への挑戦を目の当たりにすることも、若い彼には新鮮な経験であった。

書道との出会い

ピエール・アレシンスキー
《夜》
1952年
油彩、キャンバス
大原美術館
©Pierre Alechinsky, 2016

グループ自体は短命に終わり、コブラは51年に解散するが、アレシンスキーは彼らが目指したものを引き継ぎ実践していった。またこの年の冬、彼は出会いや刺激を求めてパリに移り住んだ。一方、左利きを矯正された彼は、左手は絵を描く手、右手は文字を書く手としていた。絵と文字の相違点と共通点を意識する中で、50年代初頭の作品には表象とも文字ともつかないものが全面を覆い尽くしている(例えば《夜》)。こうして文字に対する意識と自発的で自然な筆さばきに対する興味は、彼を次第に書の世界に近づけていった。
 決定的だったのはパリで52年から通い始めた版画学校ディセットで偶然日本の前衛書道誌『墨美ぼくび 』を見つけたことであった。彼は一気に書道の世界に近づくことになり、雑誌を主宰していた書家の森田子龍と文通を始めた。日本に行くことは彼の夢となった。

 それが実現したのは55年、妻ミッキーと共にマルセイユからの定期船で横浜に到着した。日本では森田のほかにアレシンスキーが「画家書道家」と呼んだ江口草玄や篠田桃紅とも出会っている。彼らは東京と京都でアレシンスキーが撮影した「日本の書」という15分ほどのドキュメンタリー・フィルムにも登場する(本展会場で上映予定)。カメラを回したのは東京のプレスクラブで会ったフランシス・ハールである。このフィルムはヨーロッパに日本の最も新しい書を紹介した画期的なもので、ヨーロッパの現代作家の関心事であった余念を感じさせない自然な筆さばきの魅力を余すところなく伝えている。アレシンスキーは書の中に自らが追究していた自然発生的な文字の創出を見ていた。彼は書くことと描くことの見事な融合をそこに感じたはずである。日本滞在のあと、アレシンスキーは次第に大きなサイズのキャンバスや紙を書道のように床に置いて描くようになっていった。

セントラル・パークから

ピエール・アレシンスキー
《肝心な森》
1981~84年
アクリル絵具/インク、キャンバスで裏打ちした紙
作家蔵
©Pierre Alechinsky, 2016

しかしながら油彩は即興的な制作には向いていなかった。乾くのに時間が掛かるという難点がある。これを解決したのはアメリカで見出した速乾性のアクリル絵具の使用であった。アレシンスキーが初めて渡米したのは61年のことで、ピッツバーグの国際展への出品がきっかけであった。既にヨーロッパ各地で作品を発表するようになっていたが、この頃からアメリカでも作品が展示されるようになっていた。こうして65年、2度目の、そして長期のニューヨーク滞在では、パリで出会って親しくなった上海出身の中国人画家ウォレス・ティンがこの町に住みはじめていたのでそこに滞在し、ティンにアクリル絵具の使い方を学んだ。アクリル絵具はアレシンスキーが書道から学んだ流れるような筆さばきを実践するのにうってつけだった。これ以降、彼は油彩で描かなくなっていった。

 このときウォレス・ティンのアトリエでアクリル絵具を使って紙に描いたのが、後に《セントラル・パーク》として発表され、アレシンスキーの画業のターニングポイントに位置づけられる作品である。セントラル・パークを真上から見たこの絵は強烈な緑やオレンジが印象的で、なにか顔のようにも見えるが、彼はこれをフランスに持ち帰り試行錯誤を重ね、横150cm程のこの絵の周りに、ちょうどコミック本のような升を作った中に墨で絵を描いた和紙の短冊をめぐらせ、それらをすべてキャンバスに貼りつけた。こうして周囲をマンガのような小さな絵で囲むアレシンスキー独特のスタイルを完成させたのである。本展の《至る所から》や《肝心な森》もこのスタイルであり、《写真に対抗して》もそのバージョンと考えることができるだろう。このスタイルにより、作品の主要部分は特別な重みを獲得し、何かの物語が展開しているような予感を観る者に与えている。そこに整然とした脈絡があるわけではないのだが、こうした重層構造により、作品はさらなる奥深さを獲得している。

文字と言葉へのこだわり

  • ピエール・アレシンスキー
    《あなたの従僕》
    1980年
    水彩、郵便物(1829年12月17日の消印)
    ベルギー王立美術館蔵
    ©Royal Museums of Fine Arts of Belgium, Brussels/ photo : J. Geleyns - Ro scan
    ©Pierre Alechinsky, 2016

  • ピエール・アレシンスキー
    《デルフトとその郊外》
    2008年
    アクリル絵具、キャンバスで裏打ちした紙
    作家蔵
    ©Pierre Alechinsky, 2016

文字との関わりでは、アレシンスキーは捨てられた手紙や不要になった書類、帳簿、古い証明書、地図、航海図など、焼かれる難を逃れた紙類といった文字のある反故紙を使って多くの作品を制作しているのも特徴である。中には19世紀のものもあるそれらの紙類をパリや南仏の蚤の市、古物商、古本屋などで見つけだして「再利用」し、オリジナリティー溢れる独特の効果を生みだしている(《あなたの従僕》など)。
 作品自体ではなくその題名にも文字や言葉に対するこだわりが感じられるものが多く、言葉遊びに似た命名は翻訳者泣かせとなっているが、その背景にはアレシンスキーが第一級の文筆家であり、65年以降、随筆を中心とした多くの著書が大手の出版社から出されているということがある。コブラの目指したものの中に専門外への挑戦があったが、まさにそれを実践したわけであり、左手による絵と右手による文の両方で、アレシンスキーは独自の境地に達したのである。

新たな挑戦を続けるアレシンスキー。街のマンホールに紙を当てて模様を浮き出させる拓本のような技法を取り入れた作品や円形の作品も斬新で、本展にも近作も出品される。しかもそれらは、作家が若かりし頃の作品同様の力強さをもっている。おとろえぬ情熱、走る筆。本展はファンならずとも興味をそそられるまさに待望の展覧会と言えるだろう。

ザ・ミュージアム上席学芸員 宮澤政男