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MUSEO POLDI PEZZOLI

Bunkamura25周年記念 ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館 華麗なる貴族コレクション

2014/4/4(金)-5/25(日)

Bunkamuraザ・ミュージアム

コレクションについて

ジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリ-彼の人生の概要-

ジュゼッペ・ベルティーニ
《ジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリの肖像》
1880年頃、油彩・キャンヴァス

 ジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリは1822年、父ジュゼッペ・ポルディ、母ローザ・トリヴルツィオの第二子として生まれた。ポルディ家とペッツォーリ家の名前を一つにまとめた父は1818年、貴族の爵位とともに莫大な財産を受け継ぎ、当時ミラノで最も著名で伝統的な家系の一つであるトリヴルツィオ家の娘と結婚した。1833年、ジュゼッペが死去すると、ジャン・ジャコモの教育は母であるローザに任された。

 ジャン・ジャコモの蔵書リストからは彼の歴史や政治に対する強い関心がうかがえる。一方、美術に関する素養は本を通じてよりも、むしろ当時のミラノの個人コレクションの最も重要なものの一つであったトリヴルツィオ図書館での経験によってはぐくまれていった。また彼は、母とともに様々な場所を旅行した。父の故郷であり、ポルディ家が館を保有していたパルマ、姉が勉強していたフィレンツェ、そしてナポリ、ヴェネツィアなどを旅することで早くから美術に親しんだのである。数ヶ月間滞在したパリでは初めて美術館やギャラリーを訪れ、のちの彼の美術館構想に影響を与えることになった。

 当時、イタリアは小国に分裂しており、ミラノはオーストリアの支配下にあった。19世紀後半になるとイタリアを統一しようとするリソルジメント運動が起こり、ジャン・ジャコモはほかの貴族と同様、1848年の「ミラノの5日間」と呼ばれるオーストリアに対する民衆蜂起と続く第一次独立戦争に参加した。しかし、8月にミラノは陥落。オーストリアに再併合され、ジャン・ジャコモの館もオーストリア軍によって占領された。このためジャン・ジャコモは恩赦が出る翌年までスイス、フランス、イギリス、イタリア諸都市を旅する亡命生活を送ることになる。この亡命で外国のコレクションの状況を知ったジャン・ジャコモは1850年代に邸宅美術館の計画を進めていくのである。

 ジャン・ジャコモは美術館設立以前からコレクションを展覧会へ出品し、積極的に公開した。1865年、フィレンツェで行われたダンテ展、1872年にブレラで行われた古代芸術の展覧会に参加。後者ではポルディ・ペッツォーリのコレクションに一部屋をあて、絵画のみならず、武具と金銀細工も展示された。1874年7月のイタリア産業組合による産業技術の展覧会では、ポルディ・ペッツォーリのコレクションの約半分を展示した。

 自分の死後、その財産が分散しないことを望んでいたジャン・ジャコモは最初の遺言の原案を1861年に書き、その10年後には法的な遺言状を作成している。1879年、ジャン・ジャコモは56歳で書斎で亡くなった。2年後の1881年4月25日、美術館は公開され、ミラノの最初の万博に栄光を与えることになったのである。

収集家の歩み

家族の遺産:ペッツォーリ邸とトリヴルツィオ図書館

 企業家であり商人であったベルガモのペッツォーリ・ダルベルトーネ家は莫大な財産を築き、その財産をもとに、ジュゼッペ・ペッツォーリは1770年までにミラノにある現在のマンゾーニ通りに館を購入した。さらにその甥ジュゼッペ・ペッツォーリ・ダルベルトーネ2世はその館の近くに家を買い、一つの大きな屋敷に改築した。彼は全てのミラノの財産をパルマのポルディ家に生まれた甥、ジュゼッペ・ポルディに残した。ジュゼッペ・ポルディは母の兄弟から多数の貴重書を有する図書館も相続している。

 ジュゼッペと結婚した若きトリヴルツィオ婦人ローザはポルディ・ペッツォーリ家に芸術に対する新しい活力をもたらした。彼女はブレラの展覧会のパトロンとして活動し、芸術家たちと交流した。ローザの父、ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオは1817年「トリヴルツィオ図書館の目録」を作らせた。それを見ると一家に保管されていた芸術品を知ることができる。なかには「14、15世紀の注釈つきのダンテ写本」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「メモ」、「スフォルツァ家の君主が使用していた貴重本」など先祖から受け継いだ品々が含まれている。

 ジュゼッペとローザの間に生まれたジャン・ジャコモは母から伝統を受け継ぎ、芸術作品の製作を支援した。さらに亡命から戻ってきた1850年代からは芸術作品と若き芸術家の支援に全てのエネルギーを注いでいく。

①ネオ・バロック様式の噴水のある優美な階段
邸宅美術館と芸術作品のコレクション

 ジャン・ジャコモは度重なるパリ滞在で、クリュニー美術館に魅了されたことであろう。亡命から戻ってきた1851年から進められた邸宅美術館の計画は外国人の目にとまり、1856年にはロンドン・ナショナル・ギャラリー初代館長夫人がポルディ邸の素晴らしさを語っている。

 美術館の創設には友人で画家のジュゼッペ・ベルティーニ、古美術商のバスリーニ、修復家のモルテーニなどが作品購入の際に仲介者や販売者として重要な役割を担った。40年代には武器、50年代にガラス、70年代中ごろには磁器、黄金の間を飾るタペストリー、貴金属に関しては69年から71年代にかけて購入され、同時に展示室の整備も進められた。

 ジャン・ジャコモが最初に熱中して収集したものが武具であり、これは一族のコレクションに変化をもたらした。当初から彼の武具コレクションはルネッサンスや中世のみならず、東方の武器や考古学的なもの、また同時代のものにまで及んでいた。コレクションの中で最初に一般公開されたのも武具コレクションである。一方、最初の絵画購入記録は1850年、ジュゼッペ・ベルティーニからティエポロのデッサンを買った時のものであり、最後の購入はボッティチェッリの《死せるキリストへの哀悼》である。彼は計画的に祖国イタリアの芸術のコレクションを創設することを目ざし、絵画に関する彼の関心と傑作の選択により、19世紀ヨーロッパにおけるもっとも偉大なコレクターの一人となった。

②現代と20世紀初頭の武具コレクションルーム

③現代と第二次世界大戦で焼失する前の「黄金の間」

④現代と20世紀初頭の「黒の間」