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今月のゲスト:稲松 三千野さん@レオノール・フィニ展


ID_014: 稲松 三千野さん(フランス語・英語翻訳家)
日 時: 2005年7月8日(金)
参加者: 宮澤政男(Bunkamuraザ・ミュージアム学芸員)
ギャザリングスタッフ(中根大輔、海老沢典世)

PROFILE

稲松 三千野(いなまつ みちの) 
フランス語・英語翻訳家
富山県生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒。2002年渡仏しパリ18区とヌイィで各一年間暮らす。
主な訳書にヴィルジニ・デパント『バカなヤツらは皆殺し』、エマニュエル・ベルナイム『不器用な愛』(いずれも原書房)がある。また、雑誌「ミステリマガジン」(早川書房)、「ふらんす」(白水社)
他でフランス小説の翻訳、作家へのインタビュー、書評を手がける。近刊予定にフィリップ・ベッソン『ぼくは死んでいる』(ハヤカワ文庫)、セルジュ・トゥビアナ他『フランソワ・トリュフォー(仮題)』(原書房)がある。続いてヴィルジニ・デパント『調教された雌犬(仮題)』(文藝春秋)を翻訳、出版予定。
Webサイト 稲松三千野のHP http://members.aol.com/Inamatsu/index.html
ブログ 翻訳日記 http://diary.jp.aol.com/x6gcrrj/


『演じられたフィニ』


海老沢:今回の『レオノール・フィニ』展いかがでしたでしょうか?

稲松:私はまず『骸骨の天使』という作品がすごく気になりました。骸骨というモチーフを描いていながらこれだけソフトというかエレガントになる人も珍しいと思います。同じ時期に描かれた大きな骨が二つの絵(『二つの頭蓋骨』)もそうでしたよね。主体は骸骨なんだけれど、まわりにピンクの花がちりばめられてあって。こういう雰囲気は、やはり他の人にはちょっと出せないだろうなと思います。

中根: 以前ザ・ミュージアムで開催されたフリーダ・カーロの作品にも骸骨がたくさん描かれていましたが、フィニが描く骸骨からはフリーダのような恐怖感とか痛々しさとかはあまり伝わってきませんよね。

稲松: 確かに、フリーダ・カーロも一瞬思い浮かんだんですが、フリーダってもっと強さがある気がするんですね。フィニももちろん強さはあるし、自画像なんかで結構強烈な作品もあるんですけど、同時に透明感ややわらかさも感じるんですよ。かといって中性的というわけではなくてあくまでもフェミニンなんです。

中根: 女性らしいということを超えて、そもそも男という性そのものが排除されている感じがしますよね。序列で言うと、女と猫のどちらかが一番でどちらかが二番。で、男はそのずっと後みたいな(笑)。まあ、晩年まで一緒にすごした異性のパートナーはいたようなので、それは考えすぎかもしれませんが。やっぱりフィニの持つフェミニンな雰囲気というのは、女性から見ると理解しやすかったり親近感がわいたりするんでしょうか?

稲松: うーん、彼女と同じ目線ではものを見られないですし、自分と同じ部分も拾ってきづらいので、親近感というのはあまりわきませんが、この人の美意識みたいなものは、意外と人に受け入れられやすいんじゃないかという気はしますね。用いられているモチーフには植物的なものや女性的なものが多いし、家の中を写したビデオにしても、ちょっとアールヌーボーみたいな雰囲気がありましたよね。そういう意味では私はわりと好きな感じでしたね。
それにしてもあの蛇の仮面が印象に残ったんですが。

海老沢: あの仮面は、蛇の皮が柔らかいうちにフィニの顔に張り付けて型を取ったものらしいんです。だからあれはフィニの顔そのものなんですね。あくまで装飾用として作ったもので、実際に使うというよりはオブジェとして飾っていたようですが。ただ、残りの三つの仮面は本当に実用として作ったもので、途中の映像にあったように、夜な夜な仮面をつけて劇を行っていたみたいですね。あれは映像作品を作るために仮面をつけていたのではなくて、本当に毎晩のようにああいう会を開いていたようです。

中根: あの映像を見て思ったんですけど、何か孤独な感じがしませんでした?単純に一人で踊っていて寂しそうという意味ではなくて、仮面をつけて何かを演じているんですけど、そういう演技をする自分自身を演じているみたいなクールな距離感を感じたんですよ。どこか淡々としていて。実際、「職業は?」と聞かれて「レオノール・フィニ」と答えていた、というエピソードもあったじゃないですか。

稲松: フィニには既存の枠にとらわれたり分類されたりしたくないという思いがあったのかもしれませんね。作品だけでなく、女であることも含めて。だから仮面をかぶる行為も、仮面をつけた状態の私を見せたいということではなく、「そういう行為を毎日行う私」を見せたかったのかも。

中根: 後、作品を見ていく中で、“布”がよく出てくる気がしたんですね。布ってやわらかさや女性らしさを感じさせますけど、外界との壁みたいなイメージもあるんじゃないかと思って。

海老沢: フィニってすごく布好きで、一枚の布をポンチョのようにかぶったりまとったりしていたようですね。さっきフリーダの話が出ましたけど、彼女の場合はもっとさらけ出している生々しさがありましたよね。それに比べるとフィニの場合は確かに覆われていたり、包まれていたりする感じがします。

中根: そういう、覆われたり包まれたりしたものっていうのは、ミステリアスとも言えるけれど、何か閉じている感じもしますよね。さらに舞台衣装は作るけれど自分では演じない、っていう話もあったと思うんですけど、自分はフィニという女性を演じているわけだから、さらにそのキャラクターに別の人物を演じさせるなんて無理だったんじゃないかなと。

稲松: もちろん彼女も他者との関わりや喜びや愛というものを、それなりに感じたり、経験したりしていたはずですが、だからといってそういう感情を主題にして、そのまま作品として結実させてはいないということなんでしょうね。結局、生涯を通じて何かを伝えたいというよりも、「人からこう見られたい自分像」を作り上げることに腐心していたんじゃないかという気がします。

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