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シダの群れ

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初日観劇レポート!

開演30分前からプログラム売り場には行列ができ、2階には立ち見客の姿も見える。場内の照明が落ちれば、大向こうが掛かる……。2012年5月4日、岩松了の1年半ぶりの任侠劇『シダの群れ−純情巡礼編』は、人気俳優を集めた舞台としても予想以上の熱気のなかで幕を開けた。

 今回の物語の軸となるのは、堤真一演じる「矢縞組」若頭補佐の坂本と、前作の舞台でもあった「志波崎組」の幹部・水野(風間杜夫)の関係。妹・可奈子(倉科カナ)の恋のため、不始末を犯した舎弟・泊(小池徹平)を匿う坂本は、父と慕う水野に二人を預ける。妹を思う兄の葛藤……それだけなら坂本も最後まで「分かりやすい男」で、この物語もきっとストレートな感動を呼ぶ「分かりやすい物語」であったかもしれない。しかしそこは岩松戯曲。志波崎組と敵対する「増陸組」組長の女・ヤスコ(松雪泰子)が坂本に接近したことで、彼自身の佇まいも得体の知れなさを増し、周囲の人間関係も大きく揺れ、捻れていく。

 なぜ坂本は水野を憎むヤスコとの関係を深めるのか? 彼が妹たちの将来に託そうとしたものとは? 坂本を翻弄するヤスコの真情は結局どこにあるのか? 愛人に拘泥し続ける増陸組組長の威厳はどのように保たれるのか(保たれないのか)? 多くを語らない物語展開を懸命に追いかけつつ、次から次へと湧きあがる疑問や想像は、私たちが舞台上に生きる人間にリアルな関心を抱いていることの証だ。そして、彼らの言動や心情が複雑に絡み合い、すれ違えばすれ違うほどに(つまり、簡単には読み取れなくなるほどに)、ドラマはクライマックスへと近づく。人ひとりの欲望ならば理解することも、叶えることも決して難しくはない。だが、人間の面倒さはむしろ、他者との関係の中で自らの欲望を育んでしまうことにあるのではないか。他人に期待し、一喜一憂する、その関係の中に自分の姿を見出そうとすることから生まれる誤解、いら立ち、寂しさが、坂本をはじめ、この芝居に登場する男女には常にまとわりつき、だからこそ、私たちの目を釘付けにする。彼らの姿を眺めながら、ふと思う。「私たちはいったい何を望み、何を争っているのだろう?」と。

 終幕、のぞまぬ対立を深めた坂本と水野が、ついに“敵”として対面する場面。正面から上手奥に向かって並ぶ教会内部のアーチはどこまでも続くように見え、二人の立つ場所を現実とは隔離された亜空間のように仕立てていた。当事者である坂本と水野自身でさえ、なぜこんな場所、こんな場面にたどりついてしまったかをうまく説明することはできなかったかもしれない。出入り口があるはずの上手奥にあるのはただの闇。この状況から抜け出す方法はもちろん、これまでに歩んできた道もまた、暗がりに消えてしまっている。それが人生の定まらなさというものだ。

 この舞台上で起こる人間関係の反転や報われない愛情、その結果引き起こされる悲劇を見ていると、自己実現の欲も人間関係のスジも、所詮はなんの根拠もないものだと思えてくる。だが、哀しいかな、私たちがそれらを捨てることはないし、そうした欲望や関係こそが、私たちを突き動かし、生かしているという事実は動かしがたい。今思えば熱狂的というのでもない、けれど確かな充実感の漂うカーテンコールの拍手には、そうした原初的な人間の有様に触れてしまった感慨が含まれていたのかもしれない。劇中で村治佳織が演奏するギター曲のタイトル『コユンババ』は、「羊飼いの親父」という意味だと聞く。舞台上の迷える羊たちを包みこむような哀愁をたたえたギターの調べが、今も鮮やかに思い出される。

文:鈴木理映子(ライター)