ヨーロッパの東端に位置するロシアの人々は、長年「西欧に比べて自分たちは遅れている」という、劣等感や焦りの感情に見舞われてきた。その元凶となっているのが、19世紀半ばまで長引いた、農奴制による封建制度。
『コースト・オブ・ユートピア』は、その撤廃によって市民の自由を勝ち取ることを夢見たロシアの知識人たちが、理想と現実の間でもがき苦しむ姿を、巨視的ダイナミズムと、繊細な人間模様の中に描いてみせた傑作だ。
プーシキンやマルクスといった、誰もが知る有名人もチラッと出てくるけれど、この作品で中心になるのは、思想家ゲルツェン、革命家バクーニン、詩人オガリョーフ、詩人・作家ツルゲーネフなど、いずれも19世紀前半生まれの、ロシアのインテリゲンチャたち。20
世紀のロシア革命の礎をつくった重要人物とはいえ、ツルゲーネフを除けば、ロシア以外での知名度は、高いとは言えない。
それでもこの戯曲は、まず2002年にトレヴァー・ナンの演出によってロンドンで初演され、四年後にはニューヨークで、ジャック・オブライエン演出による新プロダクションとして上演されて、いずれも大反響を巻き起こした。
「こんな天気のよい日に、19世紀ロシア思想家の9時間に及ぶ芝居を観るイギリス人なんているのだろうか?(イギリス人に限らず、ゲルツェン、バクーニン、ベリンスキーについての9時間の芝居なんて、おそらくロシア人だって観ないのではないか!?)しかし蓋をあけてみると、ロンドンの観客は、名前もよく知らない人物たちの運命を、正午から夜の9時までジッと見物し、なんと誰も劇場を出て行きませんでした」
その後この戯曲のロシア語訳を手がけることになるロシア人のオストロフスキー兄弟は、ロンドン公演を観た時の驚きをそう記し、「何もそんなに不思議がることはありません。ロシア史に登場する実在の人物の愛、情熱、家庭騒動、死といったテーマは、古代ローマの英雄がシェイクスピア劇の観客を魅了するのと同じくらい、観客の心をとらえたのでした」と続けて納得している(モスクワ公演パンフレットより。翻訳/有信優子)。
普遍的な人間の物語としてこの三部作を書き上げたのは、英国を代表する劇作家トム・ストッパード。『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』『アルカディア』『リアルシング』『ロックンロール』など、社会意識に根ざした哲学的な問いかけを、斬新な切り口と知的でウィットあるせりふに託すことで知られるが、ここでも巨匠は、歴史上の人物の偉業ではなく、一個人の生活の断片を積み重ねることで、三十年に及ぶ激動のロシア史を、リアルに浮かび上がらせることに成功している。志は高いが器用とは言えない魅力的な男たちと、強さと情熱を内に秘めた貴婦人たちの会話は、リアルで陰翳に富み、まるでチェーホフの世界のようだ。
歴史劇の重厚さとチェーホフ劇の繊細さを併せ持つこの長編を、いま日本で上演する意味を、演出の蜷川幸雄はこう語る。「最近ドストエフスキーが読まれたり、ゲバラが”革命”というキーワードのもとに語られたりするのは、サブカルチャーを崇拝していた若者たちが、カルチャーそのものを追わざるを得ないほど、閉塞状況が強まっている結果だと思う。資本主義のあり方を疑わねばならなくなった今、もう一度この何世紀かを振り返ってみようというのが、この作品。群像の中から、誰かひとりでも、自分が共感できる人物を探してもらえたらいいなと思う」
革命に幻滅し、私生活にも疲れたゲルツェンはつぶやく。「(人生の)意味は、不完全な世界をいかに生きるかにある。ほかにはない」この言葉に観客が見るものは、絶望とあきらめだろうか。それとも、ひとすじの希望だろうか。
Text:伊達なつめ(演劇ジャーナリスト)
チェコ出身のイギリスの劇作家。観念的なテーマをはらむ一見難解な物語の中で、極めて純粋な人生の在り方についてを真摯に捉えて描く作品を数多く生んでいる。ウィットに富んだ理知的なせりふ・文体も特徴の一つ。
1927年、チェコのズリーンに生まれる。ナチス・ドイツの侵攻を逃れ、幼少期に両親とともにシンガポールへ亡命。その後、日本軍の侵略から逃れてインドで英国式の教育を受ける(シンガポールに残った軍医の父親は、日本軍に捕らえて死去)。その後、母親の再婚相手であるイギリス陸軍少尉の姓を受け、家族とともにイギリスへ移住。17歳でジャーナリスト・劇評家として執筆を始め、やがてテレビやラジオ用のシナリオや短編戯曲を書くようになる。1966年、エディンバラ・フェスティバル・フリンジで上演された『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』が注目を集め、翌年、同作がロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン)で上演されると一躍その名を知られるようになる(その後のブロードウェイ公演で、同作はトニー賞最優秀作品賞を獲得)。1977年にアムネスティ・インターナショナルのメンバーとしてロシアを訪れ、以後人権問題に深く関わった戯曲をいくつか手がけている。ローレンス・オリヴィエ賞、イヴニング・スタンダード賞、トニー賞をはじめとする数多くの賞を獲得。『未来世紀ブラジル』(1985年)など映画のシナリオも少なくなく、『恋におちたシェイクスピア』(1998年)ではアカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。1978にCBE勲章を受章、1997年にはナイトの称号を受けている。故郷チェコの近現代を背景にしたダイナミックな最新戯曲『ロックンロール』は、2008年3月までブロードウェイで上演中。
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