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Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品 All the Winners

第19回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品

平野啓一郎 著

『ドーン』

(2009年7月 講談社刊)

選 考 島田雅彦
賞の内容 正賞:賞状+スイス・ゼニス社製時計
副賞:100万円(出席ご希望の方はパリ・ドゥマゴ文学賞授賞式にご招待)
授賞式 2009年10月6日(火) Bunkamura
第一部 受賞記念対談
16:00 オーチャードホール・ビュッフェ
第二部 贈呈式と小宴
17:30 「ドゥ マゴ パリ」テラス
受賞者プロフィール
平野啓一郎(ひらの けいいちろう)

1975 年愛知県生まれ。京都大学法学部卒。1998年、京大在学中に文芸誌『新潮』に初めて投稿した小説『日蝕』が同誌8月号に巻頭一挙掲載され、話題を呼び、99年、第120回芥川賞を受賞。以後、2002年発表の大長編『葬送』をはじめ、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。04年、文化庁の「文化交流使」として一年間パリ滞在。
著書に『滴り落ちる時計たちの波紋』、『顔のない裸体たち』、『あなたが、いなかった、あなた』、『モノローグ(エッセイ集)』、『ディアローグ(対談集)』、『決壊』(芸術選奨新人賞)など多数。

講談社 http://shop.kodansha.jp/bc/100/past/hirano_index.html

選評

「小説家に夜明けは訪れるか?」/ 選考委員 島田雅彦

 小説にできることは限られている、と考えるか、小説にできることは無限にある、と考えるか、それが問題だ。前者の立場は一見、謙虚に見えるが、極めて保守的な思考である。多くの小説家は自分を弱者の側に置き、より多くの読者の共感によって、支えられる。このちっぽけな「私」を中心に半径百メートル範囲に起きる出来事を扱う私小説が今も、日本文学のメインストリームである。「私の生活と意見」をチャーミングな刺繍に仕上げることにかけては、職人の層は厚い。静かで安定したミクロコスモスだが、そこには新たな世界観の提示も、問題提起もない。
 一方、後者の立場で考え、書く者は少数派ではあれ、不気味な存在感を発揮している。前者を仮にミクロ小説と定義すれば、後者はマクロ小説と呼ぶべきだろう。作中で描く対象は「私」を取り囲む壮大な世界である。脳の表層の刻まれた最近の個人的な記憶にとどまらず、遠い過去の記憶、個人を越えた先祖や民族の記憶、集団的無意識にまで筆を伸ばそうとする。当然、作中には哲学談義や政治談議、歴史への言及、文明論、社会分析なども紛れ込んでくる。そのテクストは壮大な世界を映す鏡となり、有象無象の欲望をすくい上げることになる。
 平野啓一郎は一貫して、マクロ小説の書き手として、旺盛な好奇心をエンジンに、極めて情報量の多い意欲作を世に問うてきた。読者の低いリテラシーにおもねる同一パターンの物語が量産される現在の文学マーケットにおいては、彼の文学的姿勢はドン・キホーテ的孤軍奮闘とさえ映ってしまうのは不幸なことだ。もっとも、彼は純文学の枠に胡坐をかくような真似はせず、作品のエンターテイメント性を高める不断の努力を行ってきた。世にエンターテイメント=大衆小説という誤解がはびこっているが、エンターテイメントとは作者の不断の努力とテクニックのことをいうのであって、そんなジャンルがあるわけではない。最初からエンターテイメントと銘打たれた作品の多くは、物語の定型を単に踏襲しただけのもので、基本構造は「上手なプレゼンの仕方」とか「面接の達人」と同じなのだ。しかし、予定調和の安心が売りの作品は読後に何も残る物がない。
 真のエンターテイメントには何よりも驚きがあり、どんでん返しがある。読者を安心させる物よりは翻弄する物の方が魅力がある。また、読者は不安を通じて、作者からのメッセージを受け取る。
 『ドーン』にはそれらの要素が盛り込まれていることはいうまでもないが、この作品の最大の魅力は、作者のまなざしの射程の長さにある。マクロ小説家はしばしば、未来予見的な作品を書く。来る未来のデザイン……これも作家の重要な仕事のひとつである。そして、そのデザインは豊富なディテールで裏打ちされていなければならない。政治、経済、科学、あらゆる領域の知見が各ディテールを支えるだろう。
 折しも、NASAは宇宙ステーションでの長期滞在実験を行った。久しぶりに人々の目は宇宙に向かったが、これは近未来の火星有人探査を見据えての準備だろう。片道五百日くらいかかる長旅になるようだが、それに備えて、NASAでは宇宙生活のディテールの蓄積に励んでいるだろう。火星に行く前から、火星暮らしのシミュレーションをする。これは小説家の想像力を百パーセント生かした仕事でもある。
 小説家の栄光は未知の領域を可視化し、さも体験してきたみたいに語ってしまえるところにある。その能力を惜しげもなく発揮する作家がもっと尊敬されてしかるべきだ。

島田雅彦(しまだ まさひこ)

1961(昭和36)年東京都生まれ。東京外国語大学ロシア語学科卒業。法政大学国際文化学部教授。83年、大学在学中に発表した「優しいサヨクのための嬉遊曲」が芥川賞候補となり、注目を集める。著書に『彼岸先生』(泉鏡花文学賞)、『退廃姉妹』(伊藤整文学賞)、『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』(「無限カノン」三部作)、『徒然王子』等。オペラ台本に『忠臣蔵』、『Jr.バタフライ』がある。

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